家庭礼拝 2025年12月3日 ヨブ記 42:1-16 結び
賛美歌241来たり給え我らの主よ聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌247今こそ声上げ
起
ついにヨブ記の最後に来ました。一年間学んできて、何が理解できたのでしょうか。何故か釈然としない思いが残ります。結局文字によっては何も理解できなかったのではないかという思いです。ヨブは、神様の出現によって、悟りましたと言いました。そしてこの目であなたを仰ぎ見ますと言いました。ヨブは神様を見たのです。そして、神様を見たとき全てのことが分かったのです。私達がヨブ記を読んで何か悟ろうとすること自体が、ヨブ記は拒んでいるような気もします。それは聖書を読んでわかることではないから、神様に直接出会いなさいと言っているような気がするのです。何かを読んで理解でき、悟ることが出来るとすれば、それは人の理解できる論理のうちにあるものでしかなく、それは往々にして因果応報で語られることしか理解できないのではないかという事です。神様と出会うという事は、その論理を超えることなのです。ですから私達がヨブを理解するには、私たち自身が直接神様に出会い、その何かを悟るしかないのです。
神様は、ヨブに対しては、ヨブが神様について正しく語ったと言っています。一方三人の友人に対しては、お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったので、私は怒っていると言っています。何が正しくて何が正しくなかったのでしょうか。ここからは私の推測ですが、友人たちは神様がどんな方であるかを自分自身で訪ね求めて知ろうとせず、語り伝えられてきた神様に関する知識をもって、神様はこう考えている、こう裁かれると言っていたことを正しくないと言っているのだと思います。結局それは、神様は因果応報で人を裁く方だと言っているのです。それではヨブはその因果応報から解放されていたのかと言えば、ヨブ自身もその因果応報の考え方の中にあって、自分は正しいのに裁かれていると言って神様に訴えているのです。だからその自分の正しさを神様に認めさせたいと思って、神様と議論しようとしていたのです。いったいどこにヨブの正しさがあるのでしょうか。
ヨブと三人の友人の論理の違いは、友人たちが、ヨブに災いが下されているのは、ヨブが罪を犯したからに違いないと、現象から原因を語っているのに対し、ヨブの方は現象からではなく、原因となる罪を私は犯していないのに、このような災いが与えられるのはおかしいと言って神様に訴えているのです。
たぶん、ヨブがこの三人の友人と比べて正しいとされるのは、ヨブが人の話や言い伝えによってではなく、自分自身で神様を求め祈り、自分が直接理解した神様を、良くも悪くも信じて語っていたことが正しいとされたのではないかと思います。
だから、信仰においては、知識を得ることよりも、神様との直接の体験の方が大切なのです。聖霊に導かれ、聖霊に満たされて、神様を知ることが、私達信仰者の歩みなのです。その事をヨブ記は教えてくれているのではないかと思います。
承
それではヨブ記最後の42章を読んでみましょう。1節から6節です。
ヨブ 42:1 ヨブは主に答えて言った。
ヨブ 42:2 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
ヨブ 42:3 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
ヨブ 42:4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
ヨブ 42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
ヨブ 42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
この様に、ヨブと神様の戦いはヨブの完全な非力と神様の全能を自分の目で確かめ声を聴いて確かめることによって、悟りを与えられて終結しました。ここで神様が語られたことは、あまり重要ではないかもしれません。一番大切なのはヨブが神様と直接出会ったという事です。そしてそのことによって、神様のことを一瞬にして悟ったという事です。神様に出会ったことのないものは、ああだこうだといろいろな理屈をつけて、相手を信じ込ませようとしますが、神様と出会った人はもう何の言葉も必要ないのです。ヨブは最後は、「わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」と言いました。今まで、神様に自分の正当性を主張しようとしていた、自分というものが、神様に出会って、塵と灰のようになり、自分がなくなり、神様と溶け合ったのです。ですから、神様に訴える自分はもうなくなり、すべてが一つとなったのです。悔い改めて、自分というものを退けたときに、神様と一つになって、訴える者も訴えられるものもなくなったのです。これがヨブ記なのかもしれません。
転
ヨブ記はもう終わったのです。その後の結びはおまけのようなものです。ハッピーエンドを演出するものです。7節から10節では友人たちに対する裁きがこの様に与えられています。
ヨブ 42:7 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
ヨブ 42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
ヨブ 42:9 テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。
ヨブ 42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。
この様に、ヨブに現れた神様は、テマン人エリファズにも現れてこう言ったのです。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」と言いました。それはこの三人の友は、神様のことを因果応報の神様だと主張したからです。しかもそれは自分たちで直接神様に問うことなく言い伝えでそう言ったからです。一方ヨブはというと、ヨブもまた因果応報の鎖につながれてはいたのですが、因果応報だけではないはずだ、私は神様に直接話をしたいと言って、神様の真の姿に迫ろうとしたのです。三人の友には罰が与えられることになりました。ですがもう一人四人目の男がいたはずです。32章から37章まで現れた、エリフです。6章も裂いて現れたエリフの事は全く無視されているのです。だからエリフの言葉は後世の追加ではないかと言われているのです。ですが、このエリフの言葉こそ神様を代弁し、神様の姿を現しているのです。ですから、このヨブ記にはエリフの言葉は不可欠のものとなっているのです。
神様は、三人の友に条件を出しました。それは「雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のために生け贄をささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。」ヨブがそのように許してくれるのならば、神様も罰を与えないと言ったのでした。それで3人の友は言われたようにして、ヨブのもとで祈ってもらったのです。ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされたのでした。
この様にヨブの生活が元に戻ると、兄弟姉妹や知人たちもヨブのもとに集まるようになり、いろいろな祝福が与えられるようになったのです。11節から17節です。
ヨブ 42:11 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。
ヨブ 42:12 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
ヨブ 42:13 彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、
ヨブ 42:14 長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。
ヨブ 42:15 ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。
ヨブ 42:16 ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。
ヨブ 42:17 ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。
この様に、三人の友と和解もできたヨブは、神様から祝福されて、以前にもまして、多くの財産と子孫とを残し長寿を全うすることが出来ました。ここの箇所は、神様に対して正直であったものは祝福されると言う、ハッピーエンドを演出していますが、むしろなくても良いところではないかと思っています。というのも、このような書き方をされると、それでは以前に死んでしまった子供たちはいったい何だったのかと思わされるからです。むしろ、ヨブは悔い改めてきた友人たちと和解し、その生活は元に戻されたという事で、終わった方が自然な気がします。
結
一年かけて学んで来たヨブ記が終わりました。善人がなぜ災いを受け苦しまなければならないのかという疑問に、果たして答えられたのかどうかわかりません。ただ、理屈をこねて、勝手な解釈をするよりは、神様に直接答えを求めて、たずね続ける方がよほど正直なことであることを教えられました。その答えは決して人間が理屈として納得できるものではなくそれを大きく超えた、神様の働きがあるという事でした。だから私達は、神様が与えてくださるものは、たとえ災いだとしても、それを恵みとして受け取り、そこから神様の業が行われることを待ち望んだ方が良いのかもしれません。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。この一年間ヨブ記を学ぶことが出来て感謝いたします。あなたのなさることは私達には理解できないこともたくさんあります。ですが、あなたがそのことを通して私達に知らせてくださっていることに耳を傾け受け入れ聞き取っていくことが出来ますように。神様がなさるのは決して因果応報の一律的なものでは無い事を受け入れて、あなたの御業を賛美していくことが出来ますように。また新しい学びを始めますが、どうか私達にふさわしい学びが与えられますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(旧約聖書:◇ヨブ記:)>>
ヨブ 42:1 ヨブは主に答えて言った。
ヨブ 42:2 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
ヨブ 42:3 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
ヨブ 42:4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
ヨブ 42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
ヨブ 42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
◆結び
ヨブ 42:7 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
ヨブ 42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
ヨブ 42:9 テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。
ヨブ 42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。
ヨブ 42:11 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。
ヨブ 42:12 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
ヨブ 42:13 彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、
ヨブ 42:14 長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。
ヨブ 42:15 ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。
ヨブ 42:16 ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。
ヨブ 42:17 ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。