家庭礼拝 2019年3月27日 黙示録 3:14-22 ラオディキヤの教会にあてた手紙

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起 

 いよいよ今日で、7つの教会にあてた手紙の最後の手紙となります。今までの手紙では、叱責を受けた教会もありますが、でも必ず良いことも挙げられておりどこかで褒められていました。ところが今日のラオディキヤは一番叱られており、一度も褒められることがなかったのです。最初のエフェソの教会は、最初の愛から離れたことを叱られました。二番目のスミルナの教会は叱られることなくただ励ましを受けました。三番目のペルガモンの教会はバラムの教えを奉じたり、ニコライ派の教えを奉じている人がいることを叱られました。4番目のティアティラの教会はイゼベルと言う女が偶像の肉を食べさせたり、みだらなことを教えているのに、そのままにしていることを叱られました。5番目のサルディスの教会では、あなたは実は死んでいる、目を覚ませと叱られました。6番目のフィラデルフィアの教会では、一度も叱られることなく、私の言葉を守ったから、試練の時にあなたを守ろうと約束されました。ところが今回の7番目の教会であるラオデキヤの教会では、一度も褒められないばかりか、私はあなたを口から吐き出そうとしていると言っているのです。見捨てられそうになっているのです。このことが一番厳しい言葉だと言う事は、神様が愛する者を厳しく叱られる、と言う事からわかるのです。ラオディキヤは叱られるのではなく、見捨てられそうになっているのです。それは熱くもなく冷たくもなく生ぬるいから口から吐き出そうと言っているのです。神様は神様に対し冷たいものでさえも、神様を意識していることを知っているので、何とか神様の方へと導こうとしているのです。ですが、生ぬるいものとは、神様に無関心で、形だけ信仰の格好を取っている人々なので、一番神様から離れている人々なのです。信仰にとって一番の敵は無関心なのです。どうしてラオディキヤは無関心になったのでしょうか。ラオディキアの教会は異端的でもなく、間違った教えに従おうとしているものでもなく、神様の愛から離れようとしているのでもないのですが、信仰的なことはどうでもよいと思っているのです。それよりもこの世の繁栄の方を喜び、それを誇りとしているので、神様は、ラオディキアの教会は、もう吐き出そうと言っているのです。もう救いようがないと思っているのです。いったいこの教会はどうなるのでしょうか。

それではラオディキアの教会に告げられた、イエス様の言葉に聞いてみましょう。最初はいつものように、イエス様の紹介が書いてある、14節からです。

黙 3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。

 と、このように紹介しています。ここでは、イエス様はご自分のことを、アーメンである方、誠実で真実な証人、と紹介しています。まずあまり聞きなれないアーメンである方、とはどういう方なでしょうか。私たちが良く知っているアーメンとは、証言などに対して、同調するときにアーメンと言います。それはその通りですと言って同意することの意思表示をするのですが、このアーメンと言う言葉にはもともと、真実です、と言う意味があるのです。神様の言葉や、人々の言葉に対してアーメンと応答するのは、あなたの言葉は真実ですと言って応答しているのです。ですから、ここで言われているアーメンである方と言うのは、真実である方、と言う意味になるのです。そしてその方が誠実で真実な証人だと言うのは、イエス様だけが、神様のそば近くにいて、そのみ言葉を聞いて語っているのだと言う事で、イエス様こそ神様の真の証人であると言う事なのです。そして最後に、神に創造された万物の源である方、とは、万物はイエス様を通して創造されていることを現しています。

そのような神様のもとにいて、真実である方がラオディキヤの教会にこう言われると、その叱責の口火を切ったのです。15節から17節です。

熱くも黙 3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。

黙 3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

黙 3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

イエス様が叱責しているのは、あなたは冷たくもなく熱くもないと言う事です。これは食べ物に例えているので、冷たいものや熱いものはおいしいですが、生ぬるいものはおいしくなく料理に値しないと言う事です。信仰的には、冷たいというのは神様に抵抗しようとすることで、熱いというのは熱心に従順であろうとすることです。どちらにしても神様に対して熱いか冷たいかなのです。ところがラオディキヤの教会の人は冷たくも熱くもないと言われるのです。すなわちその心が神様の方を向いていないので、冷たくも熱くもないのです。さめているのです。そのようなラオディキヤの教会の人に、むしろ冷たいか熱いかどちらかであってほしいと言っています。そうすれば神様はその人たちに導く手を差し伸べることができるからなのです。ラオディキヤの教会は熱くも冷たくもなく生ぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている、と言いました。もう相手にできないと言っているのです。無関心なものには神様も手を差し伸べても甲斐がないと思われるのです。どうしてラオディキヤの教会の人々はそのような信仰的無関心になったのでしょうか。それは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と、自己満足に陥っており、神様を必要としなくなっているからです。神様はただこの世の付き合いで、祭っているだけなのです。自分ではそう思っていても、神様から見ると、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない、と言う事なのです。神様を必要としないという自己満足ほど、神様が嫌っておられるものはないのです。それは自分の本当の姿を見ずに、自分の哀れな姿に気づかずに、神様の前に悔い改めることなく、自分はこれで満足だとしているからです。

そのようなラオディキヤの教会の人々に次のように勧めました。それは今の私たちにはちょっと分かりにくい言葉ですが、当時のラオディキヤの産業のことを考えると当時の人はすぐに気が付く言葉でした。18節と19節です。

黙 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。

黙 3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。

イエス様の勧めは、あなた方は貧しいのだから、火で精錬された金を私から買いなさい、あなた方は裸なのだから白い衣を買いなさい、あなた方は目の見えないものだから、見えるようになるために目に塗る薬を買いなさいと言いました。このように言ったのは、ラオディキヤを富ませているものを例えて言っているのです。当時のラオディキヤは、アジア州の金融の中心地だったのです。ですから多くの富が集まってきました。ところがその様なこの世のお金ではなく、あなた方に本当に必要な、火で精錬された金、すなわち、信仰を私に求めなさい、と言っているのです。そして白い衣を買いなさいと言っているのは、このラオディキヤの産業には羊毛で作られた布織物が豊富で、それによっても富んでいたのです。ところがその様なものではあなたたちの裸は隠せるものではない、私から、身に着ける白い衣、純潔な信仰を現す衣を買って裸を隠しなさいと言っています。そして、あなたたちは見えるようになるために目に塗る薬を買いなさいと言われているのは、この土地には有名な薬が売られていたのです。それは目に良く効くという、目薬で、目に塗るタイプのものです。その様な目薬ではなく、神様から、見えるようになるための目薬、すなわち信仰を買い求めなさいと言われているのです。

このようにイエス様は、この世のものではなく、神様からくるものを求めなさいと促しているのです。そして、このように言いました。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と言ったのです。自己満足しているものほど悔い改めることはしません。叱られれば、ますます遠ざかるだけです。ですがイエス様は、私はあなたたちを愛するから、叱ったり、鍛えたりしているのだ。熱心に勤めて、悔い改めよと、悲痛な思いで訴えているのです。

 そのイエス様が、生ぬるいので、口から吐き出そうと言っているラオディキヤの教会の人々に、そういいながらもこういうのです。20節から22節です。

黙 3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

黙 3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

黙 3:22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。

 イエス様は口で悔い改めよと言うだけの方ではないのです。私は戸口に立って、たたいている、と言うのです。世界中の神様と言われる方の中で、このキリスト教の神様だけが、ご自分からその戸口にまでやって来て、戸を叩いているのです。そして私の声を聞いて戸を開けるものがあれば私は中に入ってそのものと共に食事をするというのです。一緒に食事をするというのは本当に信頼関係が出来た人にしかできないのです。ユダヤ人たちは決して異邦人とは共に食事をしませんでした。この食事は地上の食事ではなく、天上の食事です。そして勝利を得るもの、すなわち信仰を最後まで守るものには、自分の座に共に座らせようと約束しました。イエス様と同じ位にしようと言っているのです。イエス様もまた、勝利を得て、神様と共にその玉座に着いたのです。それほどの栄光を勝利する者には与えようと約束しているのです。これがもう口から吐き出そうと言っている、ラオディキヤの教会の人々への約束なのです。イエス様は、たとえ無視されても、それでもイエス様の方から、いつか私の声を聴いて戸を開いてくれるかもしれないと考えて、戸をたたき続けてくださる方なのです。このことを耳あるものは、霊が諸教会に告げることを聞くがよいと言いました。このことが分かるのは霊によって聴く者だけです。心を静めて霊の声に聞かなければなりません。

今まで7つの教会に出された、イエス様の手紙を読んできました。最後は一番叱られたラオディキヤの教会でした。この教会は、自分たちが富んでおり、いろいろなことの中心であると思い、自己満足に陥り、思い高ぶっていました。神様よりも、この世の富を喜んでいました。神様を信じるのは形だけで、実際には自分たちの富を信じていました。神様に逆らうのでもなく、愛するのでもなく、ただ置物にしているだけだったのです。そのような姿勢をイエス様は強くしかったのです。ですが、それでもイエス様は、その戸口まで行って、戸をたたき続けてその戸を開くのを待っておられるのです。それは私たちに対しても同じように、扉をたたき続けてくださっているのです。このような神様が与えられていることを、心から感謝し賛美したいと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちは満ち足りると、あなたのことを忘れて、自己中心の生活に陥ってしまいます。その様な中でもあなたは私たちの心の扉をたたき続けて、まことの道に導こうとしてくださいます。私たちの満ち足りるところはただあなたのところです。どうかこの世の思いに満足するのではなく、ただあなたの思いの中に生きることができますように。あなたは時には厳しく私たちを叱りますが、それはあなたが私たちを愛してくださっているからです。そのことを覚えつつ、あなたの厳しいみ言葉をも受け入れていくことができますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヨハネの黙示録)>>

 

◆ラオディキアにある教会にあてた手紙

黙 3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。

黙 3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。

黙 3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

黙 3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

黙 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。

黙 3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。

黙 3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

黙 3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

黙 3:22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」