家庭礼拝 2019年3月6日 黙示録 2:1-11 エフェソとスルミナの教会にあてた手紙

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起 

 今日の聖書の個所では、先に述べられた7つの教会に対して、ヨハネはイエス様から手紙を書き送れと命じられます。ほかにもいろいろ教会があったのですが、なぜかこの7つの教会が教会の代表者として選ばれて、手紙を書き送られます。それはそれぞれの教会に対する、イエス様の評価であり審判です。今日の個所ではその7つの教会のうちの二つの教会について取り上げて、学んでみます。一つはエフェソの教会で、このアジア州の中では最も大きな街であり、最も影響力のある町でした。今ヨハネが捕らえられているパトモス島からは最も近い大きな町でした。ローマに通じる道は、このエフェソを通過し、交通の要所としても知られています。このエフェソも次のスミルナも港町として栄えたところです。エフェソが交易で大いに栄えた大都市でしたが、スミルナはアジア州の中でも、最も美しい街として知られていました。

 エフェソはエフェソへの信徒への手紙でも知られるように、クリスチャンが多くいた町です。ですが、その町は交易が盛んであることから多くの異邦人たちやユダヤ人たちも集まり、都会にはつきもののごろつきや浮浪者もたくさんいました。そしてその街には不道徳なことがたくさん行われていました。その中でもこのエフェソはアルテミス神礼拝の中心地であり、その女神を祭る、アルテミス神殿では不道徳なことが行われており、エフェソは悪の町として有名だったのです。その様な不道徳な町に、倫理意識の高いキリスト教が現れたことは、その中でも道徳的な人々、特に女性達を引き付けて、多くのクリスチャンが現れることになったのです。ですが、そのような異邦人文化の中で、クリスチャンが活動していくことはとても大変でした。多くの迫害の中で、信仰を守らなければならなかったのです。

 それでも、クリスチャンたちの活動は活発でした。パウロはどのほかの都市よりもこのエフェソに長く留まって活動しました。テモテは、この地の最初の長老となりました。使徒ヨハネはエフェソの指導者になり、伝承ではイエスの母マリアはヨハネと共にエフェソに来て、この地で死んだともいわれています。

 スミルナはとても美しい街であり、良い港があって商業が盛んであり、政治的、宗教的にも重要な町でした。この町はエフェソと同じく、自由都市として、ある程度の自治権をもつ都市だったのです。スミルナには多くのユダヤ人が住んでおり、この街がきれいになったのも、このユダヤ人たちが、そのような活動をしたからと言われています。

 今日はこのエフェソとスミルナにイエス様が書き送れと言った手紙の内容を学んでいきます。

まず最初の手紙はエフェソに送られる手紙です。この7つの教会の順番はその重要度に応じた順番のようです。1節です。

黙 2:1 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。

この手紙は、イエス様から直接教会の人々に与えられるものではなく、まずその教会を導いている天使に与えられ、その天使から、教会の人々に与えられたようです。その内容は、『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。』と言う書き出しで始まりました。この7つの星は、教会を導く天使たちで、7つの金の燭台はそれぞれの教会です。それらの教会の間を、くまなく歩いておられる方、すなわちイエス様がこう言われるという書き出しで始まるのです。ここにも書かれているように、イエス様は教会の間をいつも歩いて訪れている方なのです。

そしてその言われることは、最初はエフェソの教会の人々の良い点を語ります。2節と3節です。

黙 2:2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。

黙 2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。

イエス様は、エフェソの教会に対して、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」と言いました。エフェソの教会は異教徒の中にあって迫害もあり、その信仰を守るのは大変だったのです。その教会の人々に対し、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている、と言われることは涙が出るほどうれしかったのではないかと思います。私たちの労苦も、誰かに理解されていると思うときほど、励まされることはありません。エフェソ教会の労苦と忍耐とは何かと言うと、「あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたこと」なのです。この教会には、自分は使徒であると言って、間違った教えを広めようとしたり、その接待にあずかろうとしているものが少なからずいたのです。エフェソの教会の人々はその悪者どもに我慢できずに、彼らを調べ、彼らの嘘を見抜いたというのです。それをするのに、よく忍耐して、イエス様の名を辱めることのない様に、疲れ果てることのない努力をしたというのです。そのことをイエス様は褒めて、あなたの行いと労苦と忍耐を知っていると言ったのです。

ですが、イエス様はエフェソの教会に対して、言うべきことがあると言って、その間違いを指摘しました。2節から6節です。

黙 2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

黙 2:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

黙 2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。

 イエス様が指摘したのは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だからどこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち返れ、」と言う事でした。誰でも入信するときの信仰は、まだ弱いものであっても純真なものです。このエフェソの教会も最初の頃はイエス様の教えてくださった、愛を信じ、互いに愛し合う生活をしていたのだと思います。ですが、時がたつうちに、神様を愛する事や隣人を愛する事を忘れて、いかに自分たちの教会を守るかとか、いかに仲良く楽しく過ごすことができるかと言うような信仰に変質していったものだと思います。イエス様は、その様なものは本当の愛ではない、この世を見るのではなくただ、神の愛を見て行いなさい。悔い改めて初めのころの行いに立ち返りなさいと教えたのです。これは私たちの信仰にも言えることです。信仰に入ったばかりの時の純真な求道心とキリストの愛に従おうとしていたことを忘れてはいけないのです。

イエス様はさらに厳しいことを言いました。それは、「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」と言ったのです。これは今の教会は、イエスキリストの愛を行う教会ではないから、悔い改めないならば、そのような教会は取り除いてしまうと言う事なのです。

 このような厳しい叱責を与えた後で、また教会の人々をこう励ましました。「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。」

 ここでニコライ派と言うのは、教会の中に潜んでいる異端の者たちのことを言っているようです。以前に学んだユダの手紙やヨハネの手紙にはグノーシスと言う異端の話が出ていましたが、こちらはどちらかと言うとギリシャ思想を取り込んで哲学的に解釈している異端ですが、ニコライ派と言うのはアンテオケの執事のニコライと言う人が、洗礼を受けた人はもう罪が許されているのだから、勝手気ままに、どんな生活をしても良いと教えていたようです。そして、正しい教義を離れて、人々を誘惑し、偶像に捧げた肉を食べさせたり姦淫を行わせたりしていたようです。その様なニコライ派の人達を、憎んでいるエフェソの教会の人々は、まだ取り柄があると語っているのです。すなわち、ニコライ派の人々よりは救いようがあると言っているのです。

そして最後にこう言いました。7節です。

黙 2:7 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』

 ここでいう命の木の実と言うのはエデンの園で、アダムとイブがとって食べてはいけないと言われた木の実です。ユダヤ教の中ではこの命の木は、人間の本当の生きがいを与えるものを意味するようになりました。箴言11章30節には「神に従う人の結ぶ実は命の木となる」と言う言葉さえあります。ここでは、この世の誘惑に負けずに勝利を得るものには、神の楽園にある命の木の実を食べさせようと、イエス様が約束しているのです。アダムとエバはエデンの園で食べてはいけないと言われた木の実を食べて追放されましたが、イエス様は、従うものには神の楽園の命の木の実を食べさせると約束しているのです。これは天地がひっくり返るような、すごい約束なのです。この約束を、耳あるものはしっかりと聞きなさいと言っているのです。

 次はスミルナの教会に書き送った手紙です。スミルナはエフェソの北にある美しい港町です。その教会の天使にはこう書き送られました。8節と9節です。

黙 2:8 スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。

黙 2:9 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。

 エフェソ教会にあてた手紙ではイエス様を紹介するのに、右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方、をいう表現を用いて、イエス様が、教会の権威者であることを強調していましたが、スミルナの教会にでは、最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方、と言う表現に変わっています。これは、このスミルナの町の歴史からこのような言葉が語られたようです。この町は一度栄えたのですが、その後400年間町は廃れてしまい、その後、また蘇った町のようです。そして、最初のものにして最後のものとは、自分が神様そのものであることを語っています。その方が、スミルナに対して語ったことは、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。」と言う事です。スミルナの町は美しく栄えていたのですが、この教会の人達は苦難と貧しさに直面していたのでしょうか。イエス様は、私はあなたの苦難や貧しさを知っている、と言いました。教会に集う人たちは、たいてい社会の底辺の人達です。奴隷たちや、虐げられた女性が多いのです。ですから町は栄えていても、苦難や貧しさは教会に付きまとっていました。しかもこの町の大部分はユダヤ人たちで、キリストの教会に対しては、迫害を加える人たちだったのです。イエス様はあなたたちの貧しさを知っていると言っていながら、本当はあなたは豊かなのだ、と言いました。これは山上の説教の、貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである、と言う言葉をほうふつとさせます。本当の豊かさとは何なのかを思わされます。そして、スミルナの教会を非難しているユダヤ人たちのことを、「彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。」と言ったのです。きっとユダヤ人たちは反対に、クリスチャン達こそ異端だ、サタンの集いだと言っていたのだと思います。でも神であるイエス様が、あなた達こそ神の国で豊かなものであり、自分はユダヤ人だと誇っているようなものはこの世のサタンにとらわれているものであると、宣告されているのです。イエス様から、最大級の励ましを与えられました。

 そしてさらにこう言いました。10節と11節です。

黙 2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

黙 2:11 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』

 スミルナの教会の人々はユダヤ人からの迫害を受けて、牢に投げ込まれる人もいたようです。牢に投げ込まれると言うのは、今のように正しい裁判を受けられるわけでもないので、一度牢に投げ込まれたら、死ぬまで出てくることが出来ないような悲惨なことなのです。その様なスミルナの教会の人々に、イエス様は、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」と言いました。それはあなたたちを悪魔が試みているのだからと言うのです。しかも、イエス様は、あなた方は、十日の間苦しめられるであろうと言い、死に至るまで忠実であれと言いました。求められているのはそのような苦難迫害の中にあって、死に至るまで忠実であることなのです。そしてその苦難を恐れてはいけないことなのです。そしてその様にするならば、あなたに命の冠を授けようと言いました。この命の冠とはいったいどのようなものでしょうか。永遠の命が与えられると言う事でしょうか。イエス様は耳あるものは聞くが良いと言って、「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」と言われました。第一の死とは肉体の死です。第二の死とは神の裁きによる死です。すなわち最後まで忠実であって、その信仰に勝利する者は、最後の審判の時にはその命をつなぐことができると言う事です。すなわち永遠の命に至ると言う事です。だから、死に至るまで忠実であれと励ましているのです。この世で命を失うよりももっと大きな命、永遠の命が与えられると言われているのです。

エフェソの手紙とスミルナの手紙を比較してみると、エフェソの手紙では励ます言葉もありますが、「あなたに言うべきことがある」と注文を付ける場面もあります。それに比べると、スミルナは迫害の中にある人々に、最後まで忍耐しなさい、あなたたちは救われると言う言葉だけが響いてきます。お互いにそんなに遠くない町の教会ですが、だいぶ大きな差があったようです。いずれの教会に対しても、私は知っていると、その教会の困難な状況や、苦難には理解を示して、それぞれの教会を励ましているのです。自分たちの教会がどの教会に当てはまるのかを覚えながら読むべき箇所なのだろうと思われます。黙示録は迫害の中にあって、教会を励ます手紙なのです。

 


(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様がアジア州の教会にあてた手紙を読むことができました。イエス様はいつも教会を巡り歩いてその隅々までよく知っておられる方です。その苦しみ困難を理解してもらえるだけでどんなに励ましになったでしょうか。私たちがどんな状況に置かれたときでさえも、イエス様はいつも私たちの思いを知ってくださることを覚えます。あなたが、私は知っていると、私たちに語り掛けてくださることを覚えて感謝いたします。そのまなざしを覚えつつ最後まで信仰をもって忠実に歩むことができますように導いてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヨハネの黙示録)>>

 

◆エフェソにある教会にあてた手紙

黙 2:1 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。

黙 2:2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。

黙 2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。

黙 2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

黙 2:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

黙 2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。

黙 2:7 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』

◆スミルナにある教会にあてた手紙

黙 2:8 スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。

黙 2:9 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。

黙 2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

黙 2:11 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』