起
この手紙に関する一番の関心はこのユダとは誰だろうと言う事です。イスカリオテのユダが一番有名ですが、その人はもうこの世にはいませんでした。そうするとどこのユダなのでしょうか。ユダと言う名前にはあまりいい印象は持ちませんが、ユダヤ人の名前ではよくある名前なのです。
パウロはイエス様に出会って目が見えなくなったとき、ダマスコにいるユダの家にいたのですが、そこにアナニアが主に示されてやってきました。この家のユダでしょうか。また、バルサバと言うユダもいました。彼はパウロやバルナバと一緒にアンティオキヤに派遣された、長老の一人です。使徒の中にはイスカリオテのユダのほかに、もう一人ユダと呼ばれる人がいました。ヨハネは彼をイスカリオテでない方のユダと呼んでいました。一番可能性の高いのはヤコブの兄弟ユダと言う人です。このヤコブはイエスの兄弟ですから、このユダもイエス様の兄弟と言う事になります。イエス様の兄弟たちは最初はイエス様の活動に反対して連れ戻そうとしていたのですが、最後には、イエス様を主と仰いで、教会の働きに加わっていたのです。いろいろな説のある中で、このイエスの兄弟であるユダが書いた手紙であろうと言うのが一番支持されている説なのです。
この手紙はヨハネの第二の手紙の様に、あまり宛先がはっきりせず、最初と最後の挨拶もあいまいなものとなっています。ですから、これは個人的な手紙と言うよりも、教会の宣教のために用いられたパンフレットの様なもので、教会の指導に用いられたものではないかと思われます。
この手紙が出された目的ははっきりしています。ヨハネの手紙やテモテへの手紙にもあるように、当時教会の中に入り込み始めた異端思想に対して、警戒するように注意するために書かれているのです。その中でもこのユダの手紙は、かなりあからさまにその異端思想を非難し、罵倒するような感じさえしています。この手紙はすぐに正典になったのではなくて、いろいろな議論を経て、遅れて正典になったもので4世紀ごろにやっと正典になっていたようです。書かれた時期はそれよりずっと早く、西暦70年か80年には書かれていたようです。このユダの手紙がなかなか正典にならなかったのは、その内容が理解しにくいことや、この手紙には外典からの引用が多くあり、正典にはふさわしくないという考えもあってなかなか正典にはならなかったのです。
いずれにしても、この時代の教会は外の敵よりも、教会の内部に入り込んでくる、異端的思想と戦うことにそのエネルギーを大いに傾けていたのです。教会自身が、内部崩壊する危機に瀕していたのです。
承
それでは最初の挨拶から入りましょう。1節と2節です。
ユダ
1:1 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
ユダ
1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
ここでこの手紙の差出人のユダは、自分のことをイエス・キリストの僕と言いヤコブの兄弟と紹介しています。ヤコブがイエスの兄弟として、エルサレム教会の指導者となっていたように、このユダも自分はイエスの兄弟であるユダであると言った方が権威がありそうなものですが、その様には言わず、イエス・キリストに対しては皆さんと同じように僕であるとしてその分をわきまえ、人間的にはヤコブの兄弟であるとその立場を表しているのです。
そして、あて先は、父である神に愛され、イエス・キリストの守られている召された人たちへ、となっています。クリスチャンと言うのは自分の考えや信仰で立っているのではなく、このような信仰を持つことができるのは神である父に愛されているからであり、イエス・キリストによって守られているからであると言う事をはっきりと意識しているのです。もし守られているのでなければ、この信仰を持ち続けることは不可能なのです。ですから私たちが信仰を持ち続けることが出来ているそのものが、神様に愛されていることであり、イエス様に守られていることの証しなのです。
そして、ユダは、憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように、と祈りました。クリスチャンは何時も誰にでも、憐れみと平和と愛が与えられることを願う人々なのです。私たちが出来る一番のことはこの、憐れみと平和と愛を、相手の人のために願い祈ることなのです。
転
さて、手紙は本題に入ります。この手紙を書いたのは、教会の中に不信人な者たちが紛れ込んで、間違った教えを広めているからでした。3節と4節です。
ユダ 1:3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
ユダ 1:4 なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。
ユダは、この手紙を読む人たちに共に預かる救いについて書き送りたいとひたすら願っていたと書いてあります。その救いとは救い主イエスキリストが表れて、私たちの救いのために命を差し出されたと言う事です。聖なるものたちに一度伝えられた信仰とは、この一回きりのイエス・キリストの十字架の救いのことを指しています。その救いを否定するものが教会に紛れ込んでいるというのです。その様な者たちは、昔から予言された不信人なものたちで、いつか裁きを受けると予言されていたことだと言うのです。この人たちは、神の恵みをみだらな楽しみに変え、唯一の支配者であり、私たちの主イエス・キリストを否定しているというのです。いったい何をしたというのでしょうか。この人たちはヨハネの手紙にも出てきた、グノーシスと言うギリシャ哲学に影響された人々です。クリスチャンになったユダヤ人たちは、律法から解放されて、恵によって救われているという解放感を味わいました。この開放感が行き過ぎて、自分たちは何をしても救われているという考えになり、みだらなことをしてもそれは悪なる物質の体のことであり、魂は救われていると言って、神様の恵みをみだらな楽しみに変えているというのです。
さらには、この考えはイエス・キリストの受肉にも及び、キリストが穢れた物質である肉体をとって、この世に来るはずがないという考えにまで及ぶのです。キリスト教によって解放されたのに、イエス・キリストまで否定すると言うのはとにかく行き過ぎた考えなのです。そこには自分たちこそ、知識において、格段に進歩しているという自負があるからです。ですからユダは、教会を守るために、このような教えに感化されないようにと警告を出し、説得しているのです。
ユダは、このような不信人なものたちがどのような運命になったのかを旧約聖書の実例を持って思い出すように促すのです。5節から7節です。
ユダ 1:5 あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。
ユダ 1:6 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
ユダ 1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
私たち信仰者は、聖書に書かれた出来事を思い起こして、自分たちの指針とすることを求められています。新しいことを考えることではないのです。ユダが手紙に書いたこともその実例について思い出してほしいと言っているのです。それらの実例と言うのは、思い上がって、神様の教えに逆らった人々でした。一つ目は、イスラエルの人々がエジプトから救われたとき、そのあと食べ物や飲み物のことで、神様を信じなかったものを滅ぼされたという事実です。二つ目は、これは外典の話になると思いますが、自分の領分を守らず、自分勝手にした天使たちを、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められたと言う事です。この様な話は当時普通に知られていたことのようです。三つ目は、ソドムやゴモラの町々が、神様の教えを無視して、みだらな行いにふけって、永遠の火の刑罰を受けたことを挙げています。このように、思い上がって信仰の領分を守らないで、自分勝手な信仰を持つ人たちは神様の裁きを受けるのだと言う事を、当時よく知られた事実をもとに話しているのです。
そして、今教会にはびこりつつある不信仰な人々に対してもこういうのです。8節から10節です。
ユダ 1:8 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。
ユダ 1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
ユダ 1:10 この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します
この夢想家たちとは、自分たちの教えがイエス・キリストの教えよりもずっと優っており、進歩的な教えなのだと思い込んでいる人々のことです。この人たちは、肉体はもともと穢れたものであるから、いくら身をけがしても関係ない、魂さえ救われていればいいのだと言って身をけがし、イエス・キリストの権威を認めようとせず、イエス・キリストを信じ従って救いにあずかっている栄光ある人々をあざけっているというのです。
次に大天使ミカエルがモーセの遺体のことで悪魔と言い争った話がありますが、これも外典にある話で、当時は良く知られていたようです。これはどのような話かと言うと。モーセが死んで、その遺体の処理を大天使ミカエルが行おうとしていたとき、悪魔が表れてこういったというのです。死体と言うのは物質であり、穢れたものだから、悪魔のものである。しかもモーセは、エジプトで、人殺しをしたものであるから、なおさら穢れたものである。だからその様な穢れたものは天使のものではなく悪魔のものであるからこちらによこせという論法なのです。その悪魔に対して、大天使ミカエルは、それを相手にせずに、ただ、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言ったというのです。ユダは、教会に異端の教えを教える人々に対しても同じような態度をとるように説いているのです。この夢想家たちは、知らないことを知っているふりをして人々をののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅するのだから、神様の裁きにゆだねなさい、と、教えているのです。
さらに、このような人たちを批判してこのように言うのです。これは最大限の批判を述べたようなものです。11節から13節です。
ユダ 1:11 不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。
ユダ 1:12 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、
ユダ 1:13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。
ユダは、この異端者たちに対して、不幸な者たちですと言いました。そしてその当時、悪人の代表とみられた、カインとバラムとコラに例えて非難しました。これらの人々はみな、利己的で、自分のことしか考えず、神の教えに逆らった人と言う事になっているのです。この異端者たちもまた、これらのカインやバラムやコラの仲間と同じだと言って非難しているのです。
当時の教会では愛燦会を開いて、ともに食事を持ち寄って一緒に食事をしましたが、この人たちは厚かましくもその食事に割り込んで、その親睦の食事をけがしているというのです。彼らは雨を降らさぬ雲のように役に立たず、実らないために根こそぎにされて枯れ果ててしまった木のようにむなしいものであるともいいました。さらに、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です、と言って最大限の侮辱を与えているのです。ユダがこの異端者たちをいかに怒っているかが良くわかる表現です。
さらにユダは、エノク書を引用してこう言いました。14節から16節です。
ユダ 1:14 アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。
ユダ 1:15 それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」
ユダ 1:16 こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。
エノク書は当時愛用されていた預言書のようです。ですがこれは正典には入っていません。ユダはこのエノク書を正典として引用して語っているので、後の人々は正典でないものを引用するユダの手紙は正典にする事は出来ないとして、長い間正典にはならなかったのです。ですが当時とすれば、これは正典のように見なされていたのですから、ユダが引用したとしてもおかしくはなかったのです。その内容は、主が数知れない聖なるものたちを引き連れてくる、それは全ての人を裁くためであり、不信人な罪びとを責めるためである、と語っているのです。このように主が再び来られるときにはこの人たちはきっと裁かれるから、すべて主にゆだねなさいと言っているのです。この人たちはこの世においては何時も不平不満を鳴らして、欲望に従い、大言壮語して、利益のために生きるような人々だが、裁きの時にはきっと裁かれるだろうと言っているのです。
結
ユダは、教会に忍び込んでくる異端的教えを警戒し、最大限の批判の言葉を並べ立て、聖書の言葉を引用して、このような人々は初めから予言されており、裁かれる運命にあるのだから、そのような人々に従ってはいけない。主が再びやってくるときに、必ず主が裁いてくださるから、自分たちで裁こうとしてはいけない、と言う事を言っているのです。当時の教会がいかに新しい教えに振り回され、イエス・キリストの教えを守ろうとしているのかが良く教えられる個所です。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、教会がいろいろな誘惑や、新しい教えに揺らぎつつも、いつもイエス様の教えてくださった教えに立ち返ってその信仰を守ってきたことを教えられました。私たちの時代も、いろいろな新しい教えに、振り回されやすいですが、しっかりとあなたが与えてくださいました信仰を持ち続け、ゆるぎない確信のもとで信仰生活をすることができますように導いてください。あなたがいつも私たちと共にありますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ユダの手紙)>>
◆挨拶
ユダ 1:1 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
ユダ 1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
◆偽教師についての警告
ユダ 1:3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
ユダ 1:4 なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。
ユダ 1:5 あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。
ユダ 1:6 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
ユダ 1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダ 1:8 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。
ユダ 1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
ユダ 1:10 この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。
ユダ 1:11 不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。
ユダ 1:12 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、
ユダ 1:13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。
ユダ 1:14 アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。
ユダ 1:15 それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」
ユダ 1:16 こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。