起
ヨハネの第一の手紙は、今日の5章で最終章となり、あと一回となりました。そして、今日の聖書の個所は本文の終わりの部分と言う事になります。ヨハネは、キリストと愛について多く語りました。神は愛であるともいいました。私たちはこの手紙から、神様の本質について教えられました。今日もまたその愛についていろいろと教えられます。ヨハネの語る、神の国は、愛の絆によって結ばれた国なのです。神様とイエス様と私たちとが、それぞれ三角形の頂点をなし愛によって結ばれているのです。そして、その中は永遠の命によって満たされているのです。永遠の命とは、最初は時間的に永遠なのかなと思っていました。いつまでも死なない命なのかなと思っていました。ですがそうではないようです。永遠とは神様のことです。すべてのものは変わるのです。永遠にあるものは神様だけなのです。だから永遠の命とは神様の命のことです。私たちが永遠の命に生きるとは、その神様の命に生きると言うことです。愛の絆で結ばれた、神様と、イエス様と、私たちが、その神様の永遠の命の中に生かされているということが永遠の命を生きると言う事です。
今日の聖書の個所には二つの小見出しがついています。最初は悪の世に打ち勝つ信仰で、次はイエス・キリストについての証です。手紙の最後にヨハネは何を語ろうとしているのでしょうか。それではそれぞれについて、ヨハネが何を教えようとしているのかを学んでみましょう。
承
最初は神から生まれたものについてです。1節と2節です。
1ヨハ
5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
1ヨハ
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
神から生まれた者とはどんな人でしょうか。神の一人子イエス様のことでしょうか。そうではなかったのです。ヨハネの言う神から生まれたものとは、イエスがメシアであると信じる人のことでした。イエスがメシアであると信じるのは、自分の考えで信じることではありません、人から教えられて信じるものでもありません。そのようなものは移ろいやすいのです。すぐに信じなくなります。イエスがメシアであると信じる人は神様の霊を受けた者だけが、信じることができるのです。ですから知識を学んで信じるのでもなく、苦行をして信じる者でもなく、ただ神様の恵みとして、その霊を受けた者だけが信じることができるのです。ですから信じると言うのは人の技ではなく、神様の業なのです。ただ、この信じるという言葉はとても重い言葉です。それは私たちがふつう使っている信じるという言葉よりもずっと重みのある信じるです。それは、信じる者には命をゆだねるというような信じ方なのです。すべてをゆだねて信じる信仰それがここで言われる信じるなのです。この様な信じ方は神様の霊が与えられなければ信じることができません。ですから信じる者は神様から生まれたものなのです。
ヨハネは、信じる人が神様から生まれたものであると語ったことによって、それなら、その家族はどのような関係なのかと語ります。人間がその生んでくれた親を愛し、その親から生まれた兄弟を愛するように、神様から生まれたものもそうするだろうと言ったのです。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します、と言ったのです。すなわち、イエス様をメシアと信じる信仰をもつ者たちは皆神様から生まれた兄弟なのだから、お互いに兄弟として愛するだろうと言うのです。教会の中で、お互いに兄弟と呼び合っているのですが、それは同じクリスチャン同士と言う以上に、お互いに神様から生まれた、兄弟であると言う思いがあるのです。兄弟にはほかの人にはない絆があります。その人が、自分といかに違っていても、兄弟だからと言う愛で結び付いています。いわゆる肉親なのです。特別なのです。イエス様をキリストと告白する者はお互いにこのような兄弟なのだと言う事をヨハネは語っています。
そしてヨハネは、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」と言いました。私たちが神様を愛すると言うのは、いつも神様、神様と叫んでいることではないのです。愛する者はその掟を守るのです。すなわち神様の掟に喜んで従順に従うのです。このことがなければ神様を愛しているとは言えないし、信じているとも言えないのです。そして、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します、と言いました。神様もイエス様も互いに愛し合いなさいと言っているのですから、ましてや、神の子の兄弟たちを愛するのは当然なことのように思うのですが、この手紙の中で何度も兄弟を愛しなさいと言う事の中には、その神様の戒めを守ることが出来ず、兄弟を愛する事の出来ない人たちがいたのだと思います。教会がいつも分裂の危機の中にありながら、互いに愛し合いなさい、兄弟を愛しなさいとヨハネは語り続けているのでしょう。たとえ愛せないようなことがあっても、神様から生まれた兄弟たちは、切っても切れない絆があるのだと言う事を、認識させて、兄弟を愛しなさいと教えているのです。
そしてヨハネは、だれが世に打ち勝つ者かをこう語りました。3節から5節です。
1ヨハ
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
1ヨハ
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
1ヨハ
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか
ヨハネは、神を愛するとは、神の掟を守ることですと語った後で、神の掟は難しいものではありません、と言いました。当時のユダヤ教を信じる人にとって、神の掟を守ることほど難しいことはなかったのです。その律法を忠実に実行できる人はいなかったのです。ですからいつも罪の意識にさいなまれていました。それを生贄によって清めようとしていたのです。ですが今日の聖書の個所では、神の掟は難しいものではありませんと言いました。なぜならばヨハネの言う神の掟とは、互いに愛し合うことだけなのです。イエス様も、マタイ11:30で「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言いました。イエス様は自らその愛の掟を守る方法を示し、わたしたちにそれを行う力をも与えてくださっているのです。ですから神様を信じる者には、神様の掟は難しいものではなくなったのです。
ヨハネは神の掟が難しいものではない理由として、神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです、と言いました。神の掟を守ることを難しくしているのは、この世的な考えなのです。その考えが互いに愛し合うことを阻んでいるのです。ですが、神様から生まれた人は、その霊の力によって、世に打ち勝ち、この世的な利害損得などに惑わされることなく、神様の掟を守り、互いに愛する者となるのです。ですから結局はイエスが神の子であると信じる者が、神から生まれた人となって、互いに愛する者となり、世に打ち勝つものとなると言う事を言っているのです。これが私たちの信仰なのだとヨハネは、その信仰の神髄を語ったのです。
転
ヨハネは、イエス様が、キリストであることを証しするものがあることを語り出しました。6節から8節です。
1ヨハ 5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
1ヨハ 5:7 証しするのは三者で、
1ヨハ 5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
私たちがメシアと信じるイエス様は、水と血を通ってこられたメシアであるとヨハネは言いました。このことは何を意味するのでしょうか。水とは洗礼のことです。血とは十字架のことです。すなわち、イエス様は洗礼によって、神様の御霊を受け、キリストとなり、そして十字架で死んだけれども復活して、再び来られた方と言う事です。ヨハネはこのことを、水だけではなく、水と血によってこられたのです、と釘をさすように言いました。これはどうしてでしょうか、水だけによってこられた方であると言う人がいたのでしょうか。実はその様に語る人々がいたのです。それは何度も出てくるグノーシスの教えなのです。イエス様は洗礼によって、神の霊がイエス様に入り込んでキリストとしての働きをしましたが、グノーシスの人々は、そのキリストが十字架で死んだとは認めないのです。キリストが死ぬはずはないと思っているのです。死んだのは人間のイエスであって、キリストの霊は十字架の時にイエスから抜け出てしまっている、と考えているのです。ですから復活もないのです。グノーシスの考えからすれば、メシアは死んで復活するような血の洗礼は受けていないと言う事になるのです。ヨハネはそのような教えに反対して、イエス・キリストは、水だけではなく、水と血によってこられたのです、と言っているのです。すなわちこれはまことの人間としてキリストは来られたのだ、霊として来られたのではないと言う事です。それではヨハネの言う事には根拠があるのかと言えば、神の霊がこのことを証しているというのです。霊は真理だからですと言っています。このことは霊によってしかわからないと言う事になります。ほかのどんな説明によっても理解できないのです、ただ霊の教えるところによってわかるのです。ヨハネはそれを証しするのは三者だと言います。それは、霊と、水と、血であると言います。これは父御子聖霊の三位一体をほうふつとさせる言葉です。
ここにはイエス様を証しする者のことが書かれているのですが、その証についてはいろいろなことが交錯しているように思えます。ただ一つの証について語っているのではないのです。9節から12節です。
1ヨハ 5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
1ヨハ 5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
1ヨハ 5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
1ヨハ 5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
9節では、イエスキリストの証は神がなさった証であると語っています。その前の個所では聖霊と、水と、血が証をしていると言いました。神の証以上に確かな証はないのですから、イエス様はキリストであると言う事になります。そして証と言う内容についてもいくつかのことが語られています。まずはイエスはキリストであるという証です。次に、イエス・キリストは、血と水とを通ってこられたという証です。これはイエス様が人間としての肉体を持って現れたことをも意味しています。そして最後は、神が永遠の命を私たちに与えられた、と言う証です。神の子を信じる人には、自分のうちにこの証があると言います。神様自身が私たちの内にあって、証をしてくださっているというのです。そしてこのことを信じない人たちは、神様を信じていず、神様の証を嘘だとして、神様を偽りものにしていると非難しました。
この神様の証とは、神様が永遠の命を私たちに与えられたこと、そしてこの命が御子の内にあると言う証です。私たちはイエス・キリストを信じることによって、その永遠の命を与えられているのです。ですから、御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません、と言っているのです。この永遠の命とは、神様の命です。永遠に生きる命ではありません。イエス様はその神様の命をそのうちに持っており、信じる者をその永遠の命によって生かしてくださると言う事です。永遠の命とは、変わることのない命、滅びることのない命、生かし続ける命です。それはヨハネが語っている、神の愛なのです。永遠の命とは、神の愛に生きる命なのです。これだけが変わることなく続く、永遠の命だとヨハネは言っているのです。
結
ヨハネは、私たちには世に打ち勝つ信仰が与えられており、神様が証しする永遠の命が与えられていると語りました。このことが与えられるのは、イエスは、キリストであると告白する信仰から生まれます。この信仰があれば、この世の誘惑にとらわれることなく、死にも打ち勝つことができるのです。そして、神様の命である愛に生きることができるのです。クリスチャンとはこのような生き方を求める人々なのです。私たちが清められて、本当の神の子として生きられるように、イエス様を信じ委ねて、その永遠の命に生きるものでありたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたは私たちがイエス様を信じることによって、世に打ち勝つものとされ、永遠の命に生きるものとされました。わたしたちにはまだよくわからないところもありますが、どうか最後まであなたの姿を追って、あなたの愛に生きるものでありますように。互いに愛し合うことの中にあなたを愛する事を見出しますように。どうか日々の生活の中であなたの掟を守って、あなたを信じて歩ませて下さい。そしてあなたの御力が与えられて、一歩ずつあなたに近づくものでありますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヨハネの手紙一)>>
◆悪の世に打ち勝つ信仰
1ヨハ 5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
1ヨハ 5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
1ヨハ 5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
1ヨハ 5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
1ヨハ 5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
◆イエス・キリストについての証し
1ヨハ 5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
1ヨハ 5:7 証しするのは三者で、
1ヨハ 5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
1ヨハ 5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
1ヨハ 5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
1ヨハ 5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
1ヨハ 5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。