家庭礼拝 2018年12月5日 ヨハネⅠ 4:7-21 神は愛

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起 

今日の聖書の個所は、私にとってとても思い入れのある聖書の個所です。実はこの聖書の個所を毎朝のデボーションの時に、いつも声を出して読んでいるのです。2015年の1月から読み出しましたから、今までに数千回も読んでいることになります。これからも続けるので、数万回になるかもしれません。それほど私はこの聖書の個所に、神様の姿を見るのです。今、香川豊彦全集を読んでいて、今9巻目まで来ましたが、その香川豊彦の文章の中にもよくこの聖書の個所の言葉が出てきます。それは、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」と言う言葉です。もうすでに数10回この言葉に出会ったかもしれません。神は愛だからですという言葉で、神様がどのような方であるかをとても考えさせられるのです。この言葉をしっかりと覚えながら、聖書を読むと、真理も、道も、光も、命も、信仰も、イエス様も、神様もすべてこの愛と言う言葉に置き換えられるのです。ですからここに書かれていることはとても素晴らしいことです。ここの聖書の個所だけでも、福音のすべてを知ることができると思うのです。難しい教理の話は何も知らなくても大丈夫なのです。神は愛だからですという言葉さえ理解し、実行できればそれで十分なのです。私はそれをここの聖書の言葉から教えられました。どんなに素晴らしい知識を持ち、良い働きをしていても、愛する事のないものは神を知らないのです。愛する事こそ神を知っている証です。そしてこの聖書の個所を毎日思い起こすことによって、私の信仰はだんだん核心に迫ってきているような気がしています。その聖書の個所を、今日ともに学ぶことができることは素晴らしいことです。共に神様の愛を学んでみましょう。

今日の聖書の個所は、先週の偽りの霊と真実の霊、と言う小見出しの個所を引き継いで語られています。この世に属する偽りの霊によって、信仰を語る人々がいるから注意しなさいと言う事でした。そして、神を知る人は、私たちに耳を傾けるという言葉を語ってから、今日の神は愛であるというメッセージを語り始めたのです。すなわち、このメッセージは耳を傾ける人々に向かって語られています。最初は、7節と8節です。

1ヨハ 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

1ヨハ 4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

ヨハネは、まず、愛する者たち、互いに愛し合いましょう、と語りました。キリスト教は、知恵を語る宗教ではないのです、行動する宗教なのです。それは愛を実行すると言う事です。愛が大切だと言うのではなく互いに愛し合いましょうと、具体的行動を促すのです。その愛は、神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです、と言いました。愛はどの愛でも、だれの愛でも、それは人間が作り出したものではなくて、すべて神から来たものだと言うのです。自分がそのことを自覚しようとしまいと、その愛は神様から来ているのです。ですから、愛するとき、その人は神様のもとからやってきたのです。本人はその自覚は無くても神様から遣わされてきているのです。そのことをヨハネは、愛するものは皆神から生まれると言いました。そして愛する者は神を知っていると言いました。もしかすると、その愛する人は自分はとくに宗教は信じていなと言うかもしれません。ですが、愛する事によって愛することの大切さは知っているのです。愛する事が自分の思い以上に大きなものであることも知っているのです。それは神様を知っていると同じ事なのです。明確な神様と言う意識は無くても、自分を超えた大きな愛の力を信じているのです。愛する事の強さは、決してそれが枯れないと言う事です。自分の思いから出たものは何時か疲れて、枯れはててしまいます。ですが、神様からやってくる愛にはそれがないのです。いつまでも続く愛の流れがほとばしって来て愛し続けることができるのです。尽きることのない泉が湧き出てくるのです。

一方、いくら立派なことを言っても、豊富な知識や理解を持っていても、愛することのない者は神様を知りません。愛する事のないものには、その内に神様がいないのです。ですから神様を知る事は出来ないのです。愛する者だけが、そのうちにおられる神様を知り、神様を見出すことができるのです。ですから、神様を知る一番の方法は、勉強する事ではなく、互いに愛し合うと言う行動の中で、神様を体験する事なのです。

そしてヨハネは、御子イエス・キリストについて語り出しました。9節と10節です。

1ヨハ 4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

1ヨハ 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

ヨハネは、神様はひとり子を世にお遣わしになりましたと言いました。この独り子とはイエス様であり、イエス様はその愛の体現者なのです。神様は、愛であるので、その一人子もまた愛なのです。ですから神様はイエス様を通して、この世に愛をお遣わしになったのです。その理由は、その方によって、私たちが生きるようになるためです、とその目的が語られています。すなわちイエス様が遣わされたのは、私たちが愛によって生きるようになるためだと言う事なのです。この愛は手段であり又目的なのです。愛によって生きるのでなければ死んでいるのです。私たちが生きるようになるために愛が遣わされたのです。それがイエス様なのです。そのことをヨハネは、ここに神の愛が私たちの内に示されました、と語りました。神の愛が示されたとは、神の愛が私たちの内に生まれたと言う事です。イエス様の出現によって、神様の愛が私たちの内に生まれたのです。

わたしたちが何か良いことをしたから、神様が私たちを愛してくださったのではないのです。神様は私たちを憐れんでくださって、神様がまず私たちを愛してくださったのです。いや、もっとその前から、神様はご自分の愛する対象として、私たちを作ってくださったのです。愛する神様は愛する対象をも創造されるのです。そして、ヨハネは、イエス様がこの世に遣わされたのは、私たちの罪をあがなういけにえとしてだと言うのです。この時代のいろいろな神様との付き合い方で大きな特徴となるのは、いけにえを捧げると言う事でした。これはユダヤ教だけでなく、どの宗教でも行われていました。ユダヤ教では動物の命をいけにえとしてささげることが多くあり、血なまぐさい印象を与えますが、ほかの宗教では人間をもいけにえとしてささげることが多くありました。特に乳飲み子を生贄にすることが多かったのです、そのような乳飲み子は人間の内にはまだ数えられていなかったのです。ですからそれに比べれば、ユダヤ教は動物の生贄だけですから、まだ、救われる感じがします。この生贄は何のために捧げるかと言えば、神様をなだめるためです。なぜなだめるのかと言うと、神様が人間の罪を憎んで災いを与えるからなのです。それで毎年、年に何回もいけにえを捧げて神様をなだめていたのです。ですがそれでは神様を本当になだめることが出来なかったのです。そこで神様のほうからこの生贄を捧げなさいと遣わされたのがイエス様と言う生贄だったのです。人間はそのことを何も知らずに、イエス様を十字架につけてしまいました。でもそれは神様が差し出してくださった、罪をあがなう生贄だったのです。ヨハネはそこに気が付いて、神様の愛がこんなにも深かったのだと語っているのです。

 ヨハネは、神様がこのように私たちを深く愛してくださっていると言う事を語った後で、それではそれを信じる私たちはどうなのかと言う事を語りました。11節から13節です。

1ヨハ 4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

1ヨハ 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

1ヨハ 4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

 ヨハネは、神様がこのように私たちを愛されたのだから、私たちも互いに愛し合うべきです、と言いました。私たちが愛し合うのは、まず神様が愛してくださっていることを知ったからなのです。神様の愛が絶え間なく注がれていることを知って、愛さざるを得なくなってくるのです。その神様を、私たちは見ることができません。ですが、私たちは愛する者たちの間に、神様がおられるのを感じるのです。そしてその愛は、神様が私たちの内を通して、働いていることが分かるのです。愛が働いているとき、そこには神様がおられることを実感するのです。そのことによって神様を知るのです。

 神様は、ご自分の霊を私たちに分け与えてくださった、と語られています。私たちを導いてくださる霊は、神様が与えてくださったものです。その霊によって、私たちが神の内にとどまり、神様も私たちの内で、働いて、その御心を成し遂げられているというのです。そのことがどうしてわかるのかと言えば、神様が与えてくださった霊によって知ることができると言うのです。神様が注がれる愛の満ちるところに霊も満ちるのです。神様の愛と霊はともにいるのです。

 ヨハネは、自分たちが、神様の一人子であるイエス様のことをどのように受け止めているかをこう語りました。14節から16節です。

1ヨハ 4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

1ヨハ 4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

1ヨハ 4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

 ヨハネは、イエス様のことを語るにあたって、私したちは、神様が世の救い主として、この世に遣わされたことを見たのだ、そしてそのことを証しているのだと言うのです。ヨハネたちが伝えているのは、頭で考え出したことではなく事実であり、経験したことを語っているのだと言うのです。キリスト教は解釈を語るのではなく、神様と出会った経験を語る人たちなのです。そのうえで、私たちは、私たちに対する神の愛を知り、又信じています、と言います。キリスト教がその母体であるユダヤ教と一番違うのは、その神様の愛を知り又信じていることなのです。ユダヤ教の場合はその裁きを恐れて、一生懸命律法を守るという傾向が強いのです。キリスト教の場合は神様の愛を信じて委ねるのです。それはイエス様が神様の愛を教えてくださったからです。

 神様の愛を知る者は、イエス様が神の子であることを公に言い表します。そしてそのことを公に言い表す人は誰でも、神様がその人のうちにとどまってくださり、その人も神様の内にとどまると言いました。神様がその人のうちにとどまってくださり、その人も神様の内にとどまるという、この言い方は何度も出てきました。これは私たちが、神様と一体になると言う事です、いわゆる神人合一なのです。この言葉はすでに2回語られていますが、もう一度出てきます。短い個所で4回も語られるのです。次の個所には、こう書かれています。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。と語っています。ヨハネは、神は愛です、と言い切りました。これほど簡潔に神様を定義する言葉はありません。全能なる神でもなく、創造主なる神でもなく、神は愛であると言い切っているのです。愛はすでに全能であり、すべてのものを作り出す源なのです。これは神様は愛するものであると言う事ではなく、愛そのものが神であると言う事です。神と愛が一つなのです。その愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます、と語ります。

 私たちが神の内にとどまり、神様も私たちの内にとどまってくださる時と言うのはどのようなときかと言えば、4:12 では、わたしたちが互いに愛し合う時、と言う事でした。次は、4:13 で、神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださったときと言う事でした。そして、3回目は4:15で、 イエスが神の子であることを公に言い表す時でした。そして4回目が、4:16 で、神様の愛にとどまる時でした。このような時私たちは、神様のうちにとどまり、神様も私たちの内にとどまってくださって、私たちは神様と一体になれると言う事なのです。一言で言い表せば、私たちが、互いに愛し合い、神の愛にとどまって、神の霊に満たされて、イエスが神の子であると公に言い表すものとなる時と言う事になるのです。

 ヨハネは神様の愛に満たされた人がどのようになるのかをこう言いました。17節と18節です。

1ヨハ 4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

1ヨハ 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

 ヨハネは、神様の愛に満たされた人は、裁きの日が来ても恐れることなく確信を持つことができると言います。それはこの世では私たちもイエス様のようであるので、神様は私たちを受け入れてくださると確信しているというのです。ユダヤ教の人々は神様から裁かれることを恐れていました。そして一生懸命生贄を捧げ、律法を守ったのです。ですがその恐れは取り除かれることはなかったのです。ところが愛には恐れがないのです。愛は神様に対する信頼を表し、恐れを締め出すのです。反対に恐れるものには愛が全うされていないので、その恐れには神様に対する不信があり、罰せられるのです。

 そしてヨハネは、もう一度、愛を総括して、最初の言葉に戻ります。19節から21節です。

1ヨハ 4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

1ヨハ 4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

1ヨハ 4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 ヨハネは、神様を愛するならば、神様の愛する兄弟をも愛しなさいと教えました。これが神様の掟であると言いました。神様は愛なのです。愛が神様なのです。そのことを知りそして行うことによって、私たちは神様と一つになれるのです。イエス様が、その愛を体現するものとして、神様から遣わされてきたこともわかるのです。私たちの信仰は知識ではありません。何よりも互いに愛する事によって、そこに神様がおられることを信じるものなのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、あなたがわたしたちに愛を下さり互いに愛する者として、生かしてくださっていることに感謝いたします。私たちは愛の内にあなたを見、あなたを感じ、あなたを信じることができます。どうかあなたに従うものとして、まず日々の互いに愛し合うと言う行いを実行することができますように。知識を誇るのではなく愛を行うことができることを喜び賛美することができますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヨハネの手紙一)>>

◆神は愛

1ヨハ 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

1ヨハ 4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

1ヨハ 4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

1ヨハ 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

1ヨハ 4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

1ヨハ 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

1ヨハ 4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

1ヨハ 4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

1ヨハ 4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

1ヨハ 4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

1ヨハ 4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

1ヨハ 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

1ヨハ 4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

1ヨハ 4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

1ヨハ 4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。