賛美歌6つくり主を賛美します聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌7ほめたたえよ力強き主を
起
今日から、ヨハネの手紙に入りますが、このヨハネの手紙は三つあります。その中で一番大切な手紙は第一の手紙です。ここには今まで学んできたヘブライ人への手紙のような外部からの迫害の話は出てきません。まだ比較的穏やかだった時代の話ですが、信仰者は初代の人々がほとんどいなくなり、2代目3代目の信仰者に引き継がれていった時代の話です。紀元100年ごろの話です。イエス様の教えも、世代が変わるにつれていろいろな文化の影響を受けて、その信仰の在り方もだんだん変わってきました。その一番の困った教えはグノーシス主義と言う教えでした。ヘブライ人への手紙では、外にはローマの迫害があり、内側には異端のグノーシス主義があって、教会を分裂させようとしていたことが書かれていましたが、このヨハネの手紙の時代にも、このグノーシス主義の考え方が次第に教会をむしばんでいたのです。この教えは精神は善であり物質は穢れたものである、したがって肉体も穢れたものであると語って、その精神主義を強調し、イエス様も実はその精神が現れたものであって、肉体の様な穢れたものに入られるお方ではないという考え方なのです。ですから、イエス様は神様の言葉が肉体となって表れたとする信仰的な考えとは真っ向から食い違ってくるのです。このグノーシス主義がキリスト教と関係なく、精神主義を語っているだけならいいのですが、キリスト教を信じつつ、イエスは肉体をとって現れたのではないというところに問題が出てくるのです。
このヨハネの第一の手紙はこの問題を取り上げて、イエス様が肉体をとって現れた神様であることを、イエス様に直接会い触れたことのあるヨハネ自身が語っているところに重要な意味があるのです。このヨハネはヨハネによる福音書の12弟子の一人のヨハネと言われ、エペソでこの手紙が書かれたと言われています。この時にはヨハネは相当の高齢になっており、たぶん最後の12弟子のひとりとなっていたと思います。この手紙の重要なところは、イエス・キリストは、肉体を持った私たちと同じ人間である、と言う事を強調していることです。それに対するグノーシス主義の考え方は、聖い方である神様が、穢れた人間の肉体をまとうはずはない。それは仮の話である、と言っていることです。この問題は今でも信仰者の間で問題になる話で、イエス様がどのような方であるか、神様がどのような方であるかを理解するのに大切なこととなるのです。
承
ヨハネは、最初に、ヨハネがこれから語ろうとしていることが何について語ろうとしているのか、その目的は何か、そしてその目標は何かと言う事を簡潔に語っています。それはヨハネによる福音書の「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった」と言う出だしの言葉に似た、格調の高い言葉で始まります。1節から4節です。
1ヨハ
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1ヨハ
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1ヨハ
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1ヨハ
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
ヨハネが語ろうとしているのは、命の言葉について語ろうとしているのだと言いました。命の言葉とは何か、それは神様が世界を作られる初めから、神様と共にあったものであり、私たちが聞いたものであり、目で見たものであり、よく見て、手で触れたものを語るのだと言います。それは考え出されたものではなく、現実に存在したものを体験した、そのことを自分は語るのであると言う事です。決して仮の話ではないと言う事です。これはグノーシス主義の考え方が、ギリシャ哲学の影響を受けて、頭で考え出されたものであって、そのようなものとは違うと言う事を言っているのです。
そして、この命はこの世に現れたと証言しています。この命は永遠の命であり、神様と共にあったのですが、自分たちの目の前に現れて、その見たことを私たちは証言して、あなたたちに語っているのですと言っているのです。
ヨハネはここで何度も、このことは私たちが実際にそれを見て、そして聞いたものであるということを強調しています。それは直接体験し感動したことを語っているのだと言う事を語っているのです。体験し感動したことは、大きな力をもって伝わっていくのです。
そしてそのことを語る目的は、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです、と語っています。キリスト教は、一人だけで考えているような宗教ではありません。人と人との交わりを通して、神様と人との交わりを持つようになることを目的としているのです。ですからヨハネの語ることはその交わりにあなた方も共に入ってほしいという願いから語っているのです。そしてヨハネはその交わりのことを、もっとはっきりとそれは,神様である御父と御子イエス・キリストとの交わりです、と語っています。その交わりの中に入りなさいと招いているのです。
その交わりに入ると、その人たちはどのようになるのかその目標をヨハネはこう語ります。それは「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」と言うのです。すなわち、その信仰の目標は、私たちの喜びが満ち溢れることなのです。ですから、キリストを信じる信仰者は、いつも喜びに満ちているはずなのです。愛と真理に満たされた喜びなのです。罪に打ちひしがれた暗い思いにあえいでいる人ではないのです。
転
そしてここで、ヨハネは神様がどのような方であるかを語ります。5節から7節です。
1ヨハ 1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1ヨハ 1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1ヨハ 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
ヨハネは神様のことをイエス様から聞いたと言います。その聞いたことをあなた方に話しているのだと言うのです。それは、神様は光であり、神様には闇が全くないと言う事です。光を放つ太陽には陰はありません。光を受ける月には陰の部分があります。光を放つ電球には陰はありません。光を受ける人の顔には影が出来ます。神様は光を放つ方であり、闇の部分は全くないと言う事です。
私たちが神様と交わりを持つとき、私たちもその光の中に包まれ光となるので、影も闇もなくなります。ところが、神様との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むならば、それは嘘をついているというのです。それはあり得ないからです。光の中を歩む人が闇の中を歩むことが出来ないからです。ですからそのような人は真理を行っていないというのです。
他方、私たちが、神様のように光の中を歩むならば、互いに交わりを持つことができます。闇の部分がないからです。闇は敵対し、分裂します。光は融合し一つになるのです。ですから、私たちはイエス様との交わりの中で、その血によって、あらゆる罪から清められるのです。
なぜヨハネはこんなことを語ったのでしょうか。この背景にはグノーシス主義による、教会内の分裂があるのです。この人たちは、自分たちの考えを正しいとして、そうでない人たちを排除しようとしていたのです。ですからそこには交わりがなくなってくるのです。そのような分裂を生じさせるものは闇だと言っているのです。本当に光の中を歩もうとする者は交わりを通して一つとなろうとするのだと言っているのです。それが光の中を歩むと言う事だと言っているのです。
そしてさらに、グノーシス主義の問題を挙げてこう語るのです。8節から10節です。
1ヨハ 1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1ヨハ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1ヨハ 1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
グノーシス主義の考え方は、精神を善とし、肉体を悪とする考え方です。自分は善なる精神のほうであって、肉体の悪には責任がないとするのです。ですからこの肉体をどう扱おうとそれは自分自身の罪にはならないとするのです。姦淫しても、自殺しても、貪欲であっても、それは悪なる体のしていることで、自分には罪がないと考えるのです。ですからヨハネは、自分に罪がないと考えているこの様な考えの人は、自らを欺いているのであってイエス様の教えてくださった真理はそこにはないというのです。
一方キリスト教の考え方は、イエス様は肉体をとってこの世にあらわれ、私たちと同じように生きられました。この私たちも精神と肉体とを持つ人間としての責任があり、体の欲する欲望のために罪を犯したとしたら、それは自分自身の罪であると考えるのです。ですからもしそのような罪を犯したとすれば、その罪を公に言い表して、神様に罪を許していただき、あらゆる不義から私たちを清めてくださる神様にゆだねなさいと教えているのです。そして一方の罪を犯していないという、グノーシスの人々に対し、それは神様の清めを無視するもので、神様を偽りものとすることであり、そこには神様の言葉は存在しないとヨハネは語っているのです。
結
ヨハネは、私たちが、霊と精神と肉体とからなるものであることを、神様から与えられたものと考えました。そしてそれは、イエス様から教えられたことなのです。イエス様自身が神様のもとにあった言葉が肉体をとられてこの世にあらわれた方であって、この世では真の人間として生きられたことを語っているのです。そのことをヨハネは、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます、と言ってこのことを語っているのです。キリスト教の教える人間とは精神と肉体とが一つとなった人間なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは神様から与えられた信仰をも、自分たちに都合よく解釈したり、考えたり、教えたりしたがります。イエス様が教えてくれたことであっても、それは仮にそういっているだけだと、解釈したりします。ですが、どうか、あなたが教えてくださったその教えから外れることなく、正しく真実な道を歩んでいくことができますように。そのために戦ってきた信仰者の多くの人々のことを思い、その道を従って行くことができますように。信仰を伝えることはなかなか大変です。どうかあなたの歩みを私たちのうちに表わして、あなたが私たちを通して、子供たちにも兄弟たちにも多くの仲間たちにもその信仰を表していくことができますように。そして、だんだんと信仰から離れていく世界に対して、ともし火を燃やし続けることができますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヨハネの手紙一)>>
◆命の言
1ヨハ 1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1ヨハ 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1ヨハ 1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1ヨハ 1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
◆神は光
1ヨハ 1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1ヨハ 1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1ヨハ 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1ヨハ 1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1ヨハ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1ヨハ 1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。