家庭礼拝 2018年9月19日 へブル12:1-13 主による鍛錬

賛美歌536み恵みを受けた今は聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌567ナルドの香油

 

起 

先週までの11章では、信仰の先輩たちが、信仰によってどのような歩みをし、働きをしてきたのかが、旧約聖書の記録に基づいていろいろと語られてきました。どの人々も大変な大きな働きをしていて、人間ではとてもできそうもないことでも信仰によって、神様の御力によってさまざまな奇跡を伴う働きをしてきました。その様な人々が他にも、もう時間がなくて言いつくせないほどのたくさんの人々がいたのです。

今日の聖書の個所は、そのような信仰の先達たちを覚えつつ、自分たちがどのように歩んでいくべきかを語られています。特に、試練や苦しみにあった時にどのようにそれを受け止めるべきかが書かれているのです。これは当時の人だけではなく、今の私たちが、この世で受ける試練に対しても、どのように受け止めるべきかが教えられるのです。

それでは聖書から学んでみましょう。今日の聖書の個所は、「こういうわけで、」と言う言葉から始まっています。これは11章で語られた、信仰の先達たちの信仰による働きが、いかに素晴らしいものであったかと言う事を受けて、「だから、私たちもそれに倣って、信仰によって歩まなければならない。」と言う意味を込めて、「こういうわけで」と切り出しているのです。

今日の聖書の個所の言わんとすることは、最初の1節2節に凝縮されています。この最初の1節と2節のことを言うために、そのあと13節までその補足説明をしているのです。ではまず、3節まで読んでみましょう。

ヘブ 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

ヘブ 12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブ 12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

1節では、「こういうわけで、私たちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上」と言う言葉から始まっています。これは11章の信仰列伝に登場するおびただしい証人の群れ、このような人々に私たちは囲まれて、私たちの為す業がいつも見守られていると言う事です。このようなおびただしい証人の群れにいつも囲まれ見られているのだから、勇気をもって歩みなさいと言っているのです。それに、そのような人々の前で変な事は出来ませんよと言う事も言っているのだと思います。だから、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」と言って信仰によって歩むことを励まし薦めているのです。信仰者には到達すべきゴールがあり、そのゴールに向かって、忍耐強く走らなければならないのです。その時に余計なものを持っていては、ベストを尽くす事は出来ません。ですから、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、身軽になって走りなさいと教えているのです。このすべての重荷や絡みつく罪とは、この世の誘惑や、欲望です。それらを皆かなぐり捨てなさいそしてゴールに向かって全力で走りなさいと教えています。

そのゴールには、信仰の創始者また完成者であるイエス様がいるのです。そのイエス様を見つめて走りなさいと言っています。このイエス様こそ、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜いて、ゴールに到達し、神様の玉座の右にお座りになったのです。このイエス様は、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んで、忍耐強く走り抜いたのです。だから、あなた方も、イエス様のことを思い起こして、気力を失いそうになったとき、罪びとたちがイエス様に対してひどい苦しみを与えた時でさえもイエス様は忍耐されたことに倣って、忍耐し走り抜きなさいと教えています。

 そしてこの後に続く言葉は、1節から3節までの言葉を補う説明となります。4節から6節です。

ヘブ 12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

ヘブ 12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。

ヘブ 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

 4節の言葉は、あなたたちは迫害にあって苦しいと言うが、イエス様の受けた苦難に比べれば物の数ではない、と言う事を言おうとしているのです。まだまだ本当に罪と戦って血を流すまで抵抗したことはないのだと言っているのです。そして、旧約聖書の箴言3章11節と12節の言葉を引用して、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」と語りました。苦しみや試練があるのは、神様が私たちを愛してくださって、鍛えようとして、試練を与えられているのだと言うのです。神の子として受け入れたものに試練を与えて鍛えてくださっているのだから、その神様の鍛錬を軽んじてはいけないと言います。私たちに降りかかるどんな苦しい試練でも、それは神様が私たちを愛してくださっている証として、私たちを鍛えてくださって成長させようとしているのだから、感謝して受け入れなさいと言うのです。私たちはこのように受け入れているでしょうか。その試練から逃げることばかりを考えてはいないでしょうか。その試練を神様からのものとして、しっかり受け止めることが大切なのです。

 だから続けてこういうのです。7節から10節です。

ヘブ 12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

ヘブ 12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

ヘブ 12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。

ヘブ 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

 ここでは、私たちが神様の庶子であるとか実の子であるとか、肉の父に鍛えられるのか、霊の父に鍛えられるのかと言う事が書かれています。なぜこんな言葉を使っているかと言えば神様が私たちを鍛錬するのはどうしてかと言う事を説明するためです。肉の父でさえも、子供の成長のためには鍛錬するのに、どうして霊の父が鍛錬をしないでしょうか、と言うわけです。もし鍛錬をしないとすれば、それはあなた方が庶子すなわち、私生児の様なもので、鍛えるに値しないと考えるからです。実の子ならば、必ず鍛えられるのです。そのために神様はあなた方に苦しみを与え、それを通して成長させてくださるのです、と言っているのです。だから、苦しみを与えられ、鍛錬されている自分たちは、神様に愛される、実の神の子なのだから、そのことを理解して受け止めなさいと言っているのです。

 このように、苦難や鍛錬を受け止めていくと、だんだんと成長して、義の実を結ぶようになると言う事をこのように語っています。11節から13節です。

ヘブ 12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブ 12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。

ヘブ 12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

 鍛錬のすばらしさはその時には分からず、喜ばしいどころか、苦しくて悲しいことのようにしか思われないけれども、いつの間にか鍛錬され成長させられて、義と言う平和に満ちた実を結ばせるようになるのだと言うのです。だから、鍛錬を怖がらず、委縮しないで、手と足をまっすぐに伸ばして、勇気をもって、前向きに歩みなさい、そうすればすばらしい義の実を結ばせることができるでしょうと励ましているのです。このように信仰を保ち続けると言うのは決してやさしいことではありません。必ず苦しいことが伴い、これならばもう信仰を捨ててしまおうかと迷うようなことが起こってくるのです。そのときに自分たちは神の子として、神様の鍛錬を受けているのだと受け止めて、雄々しく歩み出しなさいと言っているのです。

 当時の教会には、いいことよりも苦しいことのほうが多かったのかもしれません。教会の外ではローマによる迫害があり、教会の中では異端の教えがはびこって、正しい教えの人々を圧迫していました。こんな教会ならば、もう信仰を捨ててもいいと思ってしまう人々がたくさんいたのです。そのような人々を何とか励まそうと思って、このヘブライ人への手紙は書かれました。そして、こういったのです。この苦しみがあることこそが、私たちが神の子として神様から愛されて、鍛錬を受けている証拠なのだ。だから、ただイエス様のみを見つめて、ゴールまで全力で走り抜きなさい。そこには栄光の座があり、あなたたちは義の実を結ぶものとなるでしょうと言っているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちには様々な試練が降りかかってきます。その試練を悪いものとして受け止めるのではなく、あなたが愛する子を鍛錬するために与えてくださったものであると言う事を覚えて受け止めていくことが出来ますように。そのお手本はイエス様です。私たちはこの世の誘惑や、欲望に目をとられることなくただイエス様を見つめてまっすぐに走り抜くことができますように。この世での安楽を求めることがありませんように。信仰によって歩み通すことができますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

 

◆主による鍛錬

ヘブ 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

ヘブ 12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブ 12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

ヘブ 12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

ヘブ 12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。

ヘブ 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

ヘブ 12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

ヘブ 12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

ヘブ 12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。

ヘブ 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

ヘブ 12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

ヘブ 12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。

ヘブ 12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。