家庭礼拝 2018年9月12日 へブル11:17-40 信仰(2)

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起 

今日の聖書の個所は、先週に続いて、イスラエルの信仰者の信仰を語る信仰列伝です。ここでは信仰を語ることによって、イスラエルの歴史を世の初めからずっと語ってきているのです。自分の国の歴史の話を神話をも含めて、このように、一つの系図に沿ってずっと話が出来るのは、イスラエル人と日本人しかいません。イスラエル人が、アダムとエバから始まってずっと現在に至るまでの歴史をその系図に基づいて話が出来るように、日本人は神道の系図を用いて、イザナギ、イザナミノミコトから始まって、その歴史を現代の天皇家の時代まで語り継ぐことができます。このことは日本書紀とか、古事記に書かれている神話をもとにしているものですが、日本のように、外国の侵略のなかった国にとっては、まだその歴史が保たれていると言っていいかもしれません。一方イスラエルの歴史は、侵略され、迫害され、奴隷とされていく中でのその歴史のアイデンティティを保ってきたのですから、すごいとしか言えません。普通ならば、みな滅び去って、イスラエル人とかユダヤ人とかと言うのは過去のものになっているはずなのです。ギリシャや、中国や、シリアの様な国々では一つの系統を守り切ることができませんでした。ですがイスラエルはそれにもかかわらず、その信仰を守り続けることによって、どのような環境や境遇の中でも、生き延びることができ、守り続けてきたのです。

今日の聖書の個所は、アブラハム以降の族長時代に入ってからの信仰者の歩みを語っています。いったいどのようなことが語られるのでしょうか。そして、この手紙を受け取った人たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。ここには13人の名前が挙げられています。そしてそこには信仰によって何をしたのかが書かれています。ひとりひとりに、信仰によってと言う枕詞が与えられています。それ以外にも個人ではない人々が、信仰によってどうしたのかが書かれています。その集まりがイスラエルの歴史となっているのです。それでは聖書から学んでいきたいと思います。

今日の聖書の個所は、旧約聖書を学んだことのある人ならば、聞いたことのある名前ばかりなのでわかりやすいかと思います。一方旧約聖書を読んだことがないと言う人にはちんぷんかんぷんでしょう。ですから、キリスト教を学ぶ人は、新約聖書だけでなく、旧約聖書も学ぶ必要があるのです。今日の個所はアブラハムが試練を受けて、その子イサクを捧げようとしたところから始まります。17節から19節です。

ヘブ 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。

ヘブ 11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。

ヘブ 11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

この手紙は、誰にあてて書かれたものかと言えば、それは旧約聖書にも詳しいユダヤ人たちにあてて書かれています。ですからその内容を当然知っているものとして、余計な説明は省かれているのです。それだけこのヘブライ人への手紙が分かりにくくなっているのです。アブラハムは試練を受けたと書かれていますが、アブラハムの試練はたくさんあります。ウルの地から出発するときも大変な試練でした。ですが最大の試練は、年老いてやっと与えられた長子のイサクを神様に捧げなさいと、神様から言われたときです。アブラハムには何のことはさっぱりわからなかったと思います。神様はイサクを通して、あなたの子孫は、星のように海の砂のように増えるだろうと約束してくださったのに、そのイサクを捧げたならば、その約束は実現することが出来ないからです。アブラハムはどんなに考えてもわからなかったはずです。それでもアブラハムは、神様の言葉をそのまま受け入れたのです。これは勘違いしてはいけないのですが、神様はイサクの子孫を残すと言ったのだから、イサクを捧げなさいと言ったとしても、きっと殺させはしないだろう、などと人間的な解釈をして臨んだのではないのです。これは聖書を読む時も同じ姿勢で読む必要があります。イエス様が汝の敵を愛せよと言ったとしても、自分の子供を殺した敵まで愛せよとは言っていないに違いないとか、イエス様は処女マリアから生まれたというのは、一つのたとえ話だろうとかいうような、解釈をしてはいけないのです。その言葉通りに受け取るのが信仰なのです。アブラハムはイサクを、神様の言葉通りに捧げようとしたのです。捧げた結果どうなるかはわからないが、イサクを通して子孫が増えていくことも信じたのです。この信じられないことを、受け入れて信じた信仰により、神様はアブラハムを義なるものとし、信仰の父とまで呼ばれるようになったのです。

この手紙の筆者は、アブラハムがどうしてイサクを捧げることが出来たのかを、このように解釈していました。それは、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」と解釈しています。これは聖書には書いてないことなので解釈なのですが、アブラハムは、イサクを捧げて死んでしまっても、神様はきっとよみがえらせてくださると信じていたと考えたというのです。ですが、アブラハムの時代によみがえりの信仰などと言う考えは全くなかったのです。これはイサクにイエス様の死を重ね合わせて、復活の思想を思い起こさせようとしているのです。19節にはイサクは死者の中から返してもらったも同然ですと、明らかに、イエス様の復活のことを示しているのです。

そしてその後は、イサク、ヤコブ、エサウ、ヨセフ、と続きます。20節から22節です。

ヘブ 11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。

ヘブ 11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。

ヘブ 11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 ここでは簡単に、「イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」と書いてありますが、この祝福のために有名な話が展開していることはここでは一切触れていません。弟のヤコブが、兄エサウの長子の権利を食事を与えることによって奪ったほかに、ヤコブがエサウの振りをして、イサクから祝福を受けてしまうと言う事があったのです。ですがこの筆者は、そのような騙しあいの様な祝福であったとしても、そこには信仰によって導かれた、結果であったと言う事を言っているのです。結局は神様の御心に従うことになったと言う事です。なぜならば、神様は最初から生まれる前から、祝福はヤコブに与えることにしていたのです。

 次に、21節では、信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました、と書かれています。これも説明が省かれているのですが、ヤコブが今死にそうになっているときに、ヨセフの子供のマナセとエフライムを呼び寄せて、この子供をヤコブの養子としたいという話をするのです。そして二人に祝福を与えるときに、わざわざ腕を交差させて、弟のエフライムに右手を乗せ、左手をマナセの頭の上にのせて祝福したのです。すなわち、弟のエフライムのほうに右手の大きな祝福を与えたのです。ヨセフはそれは違う弟だと言ったのですが、ヤコブは信仰によって、それでよいとして、その様な祝福を与えたのです。

ヨセフはエジプトで、一番偉い大臣になっていたのですが、イスラエル人がいつか神様の約束の地に行くことを信じ、その時には自分の骨を約束の地にもっていくように指示をしていたのです。

アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも神様の祝福を受け継いできましたが、まだ約束の地にはついていませんでした。いつも外国の寄留者として生活していたのです。ですが、神様がいつかイスラエル人を約束の地のカナンに定住させてくださることを信じ続けたのです。この信仰によって、この人々はまだ見ぬことを確信して生きていたのです。

信仰者と言うのは定住してしまった人ではないのです。まだ見ぬ約束の地を信じて生きる、寄留者なのです。その希望に生きるものが信仰者なのであって、自分にはこの教会があるから安心だというようなものとは全く違うのです。この世のものには執着してはいけないのです。

 次はモーセのことが語られていきます。23節から29節のモーセが生まれてから出エジプトまでの出来事です。これもすべて信仰によって導かれてきたと書かれています。

ヘブ 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。

ヘブ 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、

ヘブ 11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、

ヘブ 11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

ヘブ 11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。

ヘブ 11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

ヘブ 11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

 まず最初は、モーセの両親の信仰です。この両親はモーセが生まれた時、王の命令を恐れずに、信仰によって、モーセを隠して生かすことにしたのです。これもまた信仰によるものであると言っているのです。次にモーセが成人したときのことで、モーセは王女の子として、何不自由のない生活をしていたのですが、信仰によって、神の民ユダヤ人たちとともに虐待されるほうを選んだと言っています。それは、モーセが、神様のために受けるあざけりや虐待のほうが、エジプトの財宝より勝ると考えたように、教会の人々が、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝より勝ると考えているのと同じである、と言う事を言おうとしています。それはいずれも、与えられる報いに目を向けているからなのです。それから、信仰によって、過ぎ越しの出来事が起こり、そしてモーセは信仰によって、王の怒りを恐れずエジプトを立ち去りました。そしてエジプトの兵隊が追いかけてきて、絶体絶命と思われたとき、信仰によって、紅海を渡って助けられたことを語っています。このようにその一つ一つの出来事が信仰によってなされてきたのが、自分たちの歴史であることを語っているのです。人間の目には不可能なことが、信仰によって、神様によって、救いの道が与えられていたのです。

 そして次はモーセの次の世代のヨシュアの時代の話です。ヨシュア率いるユダヤ人たちがカナンを征服するときに起きた信仰による出来事について語ります。30節と31節です。

ヘブ 11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。

ヘブ 11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました

 これも簡単に書かれていますが、難攻不落のエリコの城壁を大した武器も持っていないユダヤ人たちが、信仰によって神様のみ言葉に従って、エリコの砦の周りを7日間回り、角笛を吹き、一斉に鬨の声を上げるとその城壁が崩れて、ユダヤ人たちはその中に突入することが出来たのです。

 その時にその街の中に住んでいた娼婦にラハブと言う者がいました。この娼婦はエリコの町を探りに来たユダヤ人たちをかくまってこう言ったのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられます。」と言って、もうすぐこの地がその神によって征服されるという信仰を現したのです。そのために、このラハブとその家族親戚はユダヤ人たちが攻めてきたときに殺されずに守られたのです。この娼婦ラハブと言うのはイエス様の系図の祖先なのです。このように、カナン征服の時も神様の御力が働き、人々は信仰によってその働きをしたと言う事がヨシュア記6章に書かれているのです。

 この後は士師記の時代の人々の名前に移ります。多くの人々の名前が挙がっていますが、もう一つ一つを紹介することが出来ずに、信仰によって何がなされたかと言う事だけが書かれています。32節から40節です。

ヘブ 11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。

ヘブ 11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

ヘブ 11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

ヘブ 11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

ヘブ 11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

ヘブ 11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

ヘブ 11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

ヘブ 11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。

ヘブ 11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 この手紙の著者は、もうこれ以上詳しく話をするには、時間が足りないことを理由に、おおざっぱにその信仰による行いを語りました。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルは、国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れた人々です。

 予言者たちについては、私たちは旧約聖書に書かれていることしか分からず、ユダヤの人々に預言者として、力ある業をしたのだろう、きっと人々からも尊敬されて安定した生活をしていたのだろうと想像しています。ですが、この予言者たちがどのような死に方をしたのかを知ると、本当にぞっとします。預言者とはこんなにも大変だったのかと思うのです。一例をあげれば、ゼカリヤは真実を語ったために自分の民から石で撃ち殺され、エレミヤはエジプトで同朋から石で撃ち殺されたと言います。イザヤはマナセ王が偶像礼拝を認めさせようとしたことを拒んだので、木の鋸で引き裂かれて死んだのです。それでもこの予言者たちは信仰によってその苦しみに耐えたのです。獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消したのはダニエルです。これ以上この信仰者たちの話をするともうとても時間が足りないので、私もこれまでとします。ですがこの著者がこのような信仰者の名前を挙げてその信仰の働きを語った意味は、ユダヤ人の先祖たちは、大変な苦しみの中でも信仰を守り続け、信仰によって、起こりえない奇跡を起こすことができ、信仰を守り通すことが出来たのです。では彼らは、その信仰によって、約束のものを手に入れることが出来たのでしょうか。39節にはこう書かれています。「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」約束されたものを手に入れた人は一人もいなかったのです。ただ信仰によって、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することによって、希望を抱いてこの世での人生を全うしていったのです。

 それでは私たちも、約束されたものを手に入れる事は出来ないのでしょうか。40節にはこう書かれています。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」著者は、こう言っているのです。私たちには、神様が私たちのために更に優ったものを計画してくださっているから、自分たち以前の先祖たちは、完全な状態に達しなかったということを書いて終わりにしているのです。私たちこそ、イエス・キリストの救いの計画によって、約束の地に入ることのできたものであることを語っているのです。だから、先祖たちが、望んでいることを確信し、見えない事実を確認しながら、たとえ約束されたものを自分では手に入れることが出来なかったとしても、信仰によって歩みとおすことが出来たことを覚えて、私たちもこの艱難を、苦難を歩みとおそうではないかと言っているのです。自分たちこそその救いの恵みに預かったものだからと言うのです。

イスラエル、そしてユダヤの歴史が信仰によって一つの流れとして、保たれてきたのかを覚えます。いろいろな人々が登場してきましたが、それぞれが信仰によってその業をしてきました。それは見えないものを信じる信仰であり、すでに成就したと確信する信仰です。そのような信仰が歴史を導き、世界を導いているのであることを思います。そしてイエス・キリストの救いによって、私たちはその神の国に導かれているのです。そのことを覚えて感謝します。そしていろいろな艱難苦難に出合いながらも忍耐し、その信仰を守り続けてきた人々に感謝するものであります。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イスラエルの信仰の歴史を通して、いかにあなたの御業が人間の上に現れて、歴史を導いてきたのかを教えられました。その信仰は決して目に見える確かなものではありませんでしたが、信仰者たちはそれを確かなものとして信じてきました。私たちもまたその信仰を継承するものとして、目に見えないものを、望んでいる事柄を確信し、確認していくものでありますように導いてください。私たちの上に御国が来ますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

 

ヘブ 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。

ヘブ 11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。

ヘブ 11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

ヘブ 11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。

ヘブ 11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。

ヘブ 11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

ヘブ 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。

ヘブ 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、

ヘブ 11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、

ヘブ 11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

ヘブ 11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。

ヘブ 11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

ヘブ 11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

ヘブ 11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。

ヘブ 11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

ヘブ 11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。

ヘブ 11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

ヘブ 11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

ヘブ 11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

ヘブ 11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

ヘブ 11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

ヘブ 11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

ヘブ 11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。

ヘブ 11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。