家庭礼拝 2018年9月5日 へブル11:1-16 信仰(1)

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起 

いよいよ今日の個所は、ヘブル書のクライマックスです。そしてもっともよく知られた箇所です。このヘブル書11章は信仰について書かれたものですが、長いので二つに分けて学んでみたいと思っています。今日は16節までです。

今日の11章の個所の信仰についての話は、その前の10章の最後で、「私の正しいものは信仰によって生きる。」と言う言葉を受けて、それではその信仰とはどのようなものであるかを旧約聖書の実例もって詳しく語っているのです。

今日の聖書の個所では13節までに、15回信仰と言う言葉が使われています。しかもそのうち10回は「信仰によって」という言葉が使われているのです。先人たちが、信仰によってどのような歩みをしたのかが書かれています。その信仰の歩みをした人は、ここでは、5人の人の名が挙げられています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、です。アベルはアダムとエバの子供で、カインとアベル兄弟のアベルです。ノアはノアの箱舟で知られているノアです。アブラハムは信仰の父と呼ばれたアブラハムで、サラはその奥さんです。ここまでは良く知られた名前ですが、エノクと言うのはどんな人でしょうか。この人はカインの子供です。ですからアダムの孫になります。この人のことは創世記の5章21節から24節にわずかに書かれているだけです。でもどうして、信仰によって歩んだ代表者としてここに書かれているのでしょうか。ここに書かれている5人のうち、ノアとアブラハムは信仰によって歩んだ人であることは誰にでもわかるのですが、アベル、エノク、サラがどうして信仰によって歩んだと言えるのかちょっと分かりにくいところがあります。それでは聖書を読んで理解していきましょう。

手紙の筆者は前章の言葉を受けて、信仰とはどのようなものであるかを定義しました。この1節の言葉は特に有名で、信仰を語る時によく使われる言葉です。では、1節から3節です。

ヘブ 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブ 11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

ヘブ 11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

私たちは、信仰とは何かと問われると、普通は、信仰とは神様を信じることです。とか、神様にゆだねることです、とか答えることが多いと思います。この筆者の答えはそうではありませんでした。この筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と言いました。信仰とは見えない事実を確信し、確認することだと言うのです。これは、神様を信じていると言いながら、神様に願ったことが本当にかなえられるであろうかと心配するような人は信仰を持っているとは言えない、と言うことです。神様に願ったならば、それはすでにかなえられていると確信するのが信仰なのです。神様が必ずかなえてくださることを確信するのが信仰なのです。そこに迷いはないのです。そしてもう一つ、見えない事実を確認することだと言っています。見える事実を確認することは簡単です。これがそうであると言えばいいのです。ところが見えない事実をどのように確認すればよいでしょうか。これは、願ったことを神様は、将来においてすでにかなえているという事実を確認すると言うことです。願ったことが将来すでにかなえられているということをどのようにして確認すればよいのでしょうか。それはすでにかなえられたものとして、確認するのです。それが信仰なのだということです。たとえ目に見えず、触ることが出来ず、なんとも心もとないような目に見えない事実ですが、それを神様による確かなものとして確認することが信仰なのだということです。これを信仰を持って行うときに、私たちは神様を本当に信じることができ、神様にゆだねきることができるのです。別の言い方をすれば、信仰とは、神様の御心を確信し、確認することであるということも出来ます。その信仰を持って歩んだ人の代表者で最初に登場するのがアベルです。4節にはこう書かれています。

ヘブ 11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

 カインはアベルの兄であり、農作業を主に仕事にしていました。アベルは羊を飼うものとなりました。そして、兄弟が神様にその実りを捧げる時がやってきたときに、カインは土の実りを主のもとに捧げものとして持ってきて、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきたというのです。その時、主はアベルとその捧げものに目を止められたが、カインとその捧げものには目を止められなかったというのです。そのためにカインは激しく怒り、アベルを妬んで、殺してしまったのです。なぜ神様はアベルの捧げものに目を止められたのでしょうか。それはアベルの捧げものが、神様の御心に適うものであったからです。なぜアベルは神様の御心に適う捧げものをささげることが出来たのでしょうか。それは信仰によって、神様の御心を確認し、確信することが出来たからです。そして、群れの中から肥えた初子を持ってきて神様に捧げたのです。最善と思われるものをささげたのです。それに対して、カインの捧げものは、土の実りを主のもとにささげたとしか書かれていません。それが良いものか悪いものかも書かれていないのです。きっとそれは、形だけの捧げものだったのかもしれません。カインは信仰によって、神様の御心を知ることが出来なかったのだと思います。

アベルはその捧げものを、信仰によって行うことによって、正しいものとされたのです。神様がその捧げものを認められたからです。アベルは、そのためにカインの妬みを買って、殺されましたが、その信仰によって、まだ語り継がれるものとなっているというのです。

次に登場するのはエノクです。エノクはカインの子供ですが、信仰によって生きる人となり、神様に喜ばれる人となったのです。5節と6節です。

ヘブ 11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。

ヘブ 11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

 エノクがどうして、信仰に生きる代表者となったのかと言えば、エノクは死ななかったのです。エノク以外で死なないで天に上ったのは、預言者エリヤだけです。死なないで天に上ることができると言うことは、神様に喜ばれ愛されているものでなければなりません。エノクは、信仰によって、神に喜ばれるものとなったのです。エノクは、神様が存在しておられること、神様がご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信仰によって信じていたのです。それは、目に見えない神様の御心を確信し、確認することが出来たからなのです。そして、そのような信仰を持っていたことを証しするのが、生きたまま天に上られたということなのです。神様はエノクの信仰を認めて愛したので、地上で穢れたものにならないうちに、生きたまま天に挙げられたというのです。

三人目の信仰者はノアです。ノアはあの有名な箱舟を作って、救われた人です。7節です。

ヘブ 11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

 ノアはなぜ信仰に生きるものとしてここに認められたのでしょうか。それはノアは神様のみ言葉を聞いて、それが信じられないような話であったけれども、そのみ言葉を受け入れ信じて、それに従ったのです。そしてそのみ言葉通りに大きな箱舟を作りました。ほかの人達はそのノアのやっていることを見て、ばかげたことだとあざけり罵ったのです。それにもかかわらず、ノアは神様のみ言葉通りに従順に行ったのです。ノアはまだ見ていない事柄について、神のお告げを受けた時、畏れかしこんで箱舟を作ったのです。それが、目に見えない神様の御心を確認し確信する信仰なのです。その信仰によって、ノアの家族だけが滅ぼされずに済みました。そしてまた新しい世界を作ったのです。

4人目の信仰者はアブラハムです。アブラハムは信仰の父と呼ばれるほどの信仰者ですから、何の説明もいらないほどなのですが、8節から10節にはこう書かれています。

ヘブ 11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

ヘブ 11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

ヘブ 11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

このように、アブラハムもまた、神様のみ言葉に従順でした。その語ることが自分には理解できなくても、信じられないようなことでもそのことを受け入れ従ったのです。それは自分の全財産や、運命までも捨てて神様の御言葉に従ったのです。そのことが出来たのは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰があったからです。アブラハムはカルデヤ地方のウルと言うところ、今ではイラクのチグリス・ユーフラテス河の河口近くの地域で、裕福な生活をしていたのです。ですがアブラハムは、その地方の退廃的な生活に飽き足らず、真実の神様を求めていました。その時アブラハムは神様の召命を聞いたのです。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。」このみ言葉を聞いて、アブラハムはどこへ行くのかわからずに、ただ神様の声に従って出て行ったのです。このようなアブラハムの神様に従う姿勢は、年老いて子供が出来なかったときも、神様から、あなたの子孫は星の数ほどになる、と言われて、そのことをアブラハムは信じたのです。神様はそれを彼の儀と認められたと書かれています。なぜアブラハムは、行先もわからずに、出発することが出来たのか、なぜアブラハムはもう子供を授からない年になってもその子孫が星の数ほどになることを信じることが出来たのか、それはアブラハムが、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することが出来たからです。信仰とはこういうものであるとこの筆者は強調しているのです。見える確かなものを信じることはやさしい、しかしまだ起こらないことを確信し、見えない事実を確認することは難しいのです。そのことを行うのが信仰だと語っているのです。

最後の信仰者はアブラハムの妻サラです。私たちのイメージでは天使がアブラハムに子供を授けると語った時に、そんなことは起こるはずがないと言って笑ったサラは不信仰なものと言うイメージを持っていますが、この筆者はそうではなかったのです。11節と12節です。

ヘブ 11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。

ヘブ 11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

サラは、そんなことはあり得ないと思って笑ったのですが、その後で信仰によってその約束を真実なものであると信じたから、年齢が盛りを過ぎていたのに子を設ける力を得たのだと理解しているのです。やはり神様のみ言葉を確信し、確認することが出来たのです。ですから死んだも同様の一人の人から空の星のように多くの子孫が生まれたのだと理解しているのです。

 ここに語られた5人はそれぞれ信仰を持って歩みましたが、結局約束のものは手に入れることが出来なかったのです。ノアにしろ、アブラハムにしろ、サラにしろ生きている間は、寄留者であり、各地を転々として、自分の土地や国を手に入れる事は出来ませんでした。ですが信仰者はそのまだ手に入れてはいないことを得たものと確信し、見えない事実を確認していたのです。モーセもそうでした。40年間も荒野を歩き回って、もうすぐヨルダン川を越えて約束の地に入ろうとするとき、神様からあなたはこの川を越えてはならないと言われて、その地に入ることなく死んだのです。それでもモーセもまた信仰によって確信し確認しているので、そのことで何の悔やみもないのです。アベルやエノクもまた、その命が途中で天に召されたのですが、それでも信仰を持って確信し確認しているのです。そのことをこの筆者はこのように語りました。13節から16節です。

ヘブ 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

ヘブ 11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

ヘブ 11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。

ヘブ 11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 この人たちは約束されたものを手に入れなかったけれども、信仰によって確信し、確認することが出来たのでそれを見て喜びの声を上げていたというのです。そして自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいのものであることを公に言い表したのです。彼らはこの地上の故郷よりも、さらに勝った故郷、すなわち天の故郷を熱望していたというのです。神様は彼らのために都を準備していたのです。その都をもまた、彼らは信仰によって、確信し、確認していたのです。そのことは大いなる喜びとなっていたのです。

 この筆者は、この先人たちの信仰を語ることによって、今教会で苦しい悲しい思いをしている人々を励ましました。この先人たちは約束のものを手に入れることはできなかったけれども、信仰によってそれを確信し確認し、喜びの声を上げていたことを教えたのです。そしてキリストを信じるあなた方も天の都に入るのだから、喜びなさい、信仰を持って歩みなさいと励ましているのです。信仰とは信じることです。何か保証があって信じるのではありません。アブラハムのように、何の保証もないのに、ただ神様のみ言葉を信じて、出発するのです。そしてどんなに苦しいことがあってもその先にあることを確信し、確認しながら歩むのが信仰なのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちの信仰が、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することであることを教えられました。この世のことに保証を求めるのではなく、ただあなたの与えてくださいますことに信頼し、確信し、見えない事実をも確認して歩んでいくことができますように。多くの信仰者がその信仰によって支えられ、導かれました。生きた信仰によって、生かされたのです。私たちもこの先人たちの信仰に倣って、確かな信仰生活を歩んでいくことができますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

 

◆信仰

ヘブ 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブ 11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

ヘブ 11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

ヘブ 11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

ヘブ 11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。

ヘブ 11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

ヘブ 11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

ヘブ 11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

ヘブ 11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

ヘブ 11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

ヘブ 11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。

ヘブ 11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

ヘブ 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

ヘブ 11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

ヘブ 11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。

ヘブ 11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。