家庭礼拝 2018年8月15日 へブル10:1-18 罪を贖う唯一のいけにえ

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起 

今日の聖書の箇所の、「罪を贖う唯一のいけにえ」と言う小見出しは、先週の箇所の9章23節から始まっています。先週は地上の聖所と天の聖所を対比しながら、地上の聖所は天上の聖所の写しであり影であることを学びました。そして、地上で罪の贖いのために動物の血が流され、その命がささげられたように、天上では、イエス様の血が流されその命がささげられたのです。

そして今日の聖書の箇所では、そのいけにえとしてのイエス様と動物のいけにえとの違いについて、どのように違うのかをいろいろと説明しているのです。すなわち、実態と影の違いです。ではどのように違っているのかを聖書に聞いてみましょう。

まず、1節から4節です。

ヘブ 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

ヘブ 10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。

ヘブ 10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。

ヘブ 10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 この様に、イスラエルの人々はモーセから与えられた律法を守り、神様に犠牲の動物を捧げて、イスラエル民族の罪を清めていただき、神様に従う民として、神様に受け入れてもらえていると思っていました。ですが、ここに語られていることはその律法を完全に否定しているように思えます。何故かと言うと、律法と言うのは実態ではなくて影であり、生贄を毎年捧げても、神様に近づく人たちを完全なものとする事は出来ないというのです。完全なものになると言うのはもう罪が取り除かれた状態になるのだから、もはや自分に罪があるという自覚はなくなるはずであると言うのです。ですから、その罪の自覚がなくなった時点で、もういけにえを捧げることはしなくなるはずだと言うのです。

ところがいけにえを毎年捧げても、そのことが返って、自分の罪深さを思い出させ、犠牲のいけにえをさらに捧げたいという気持ちにさせるのです。なぜならば、雄牛や雄山羊の血では罪を取り除く事は出来ないからだと言いうのです。

律法によるこの世の犠牲は来るべきものの影であると言うならば、いったい実態とは何なのでしょうか。いったい何が私たちを完全なものにしてくれるのでしょうか。この著者は、それはイエス・キリストであり、イエス・キリストによる犠牲の血であると言うのです。5節から10節です。

ヘブ 10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。

ヘブ 10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。

ヘブ 10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」

ヘブ 10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、

ヘブ 10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。

ヘブ 10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 筆者は詩編40編の6節から8節を引用してこういうのです。これはダビデが詠った詩なのですが、イエス様が語っているものとして取り上げています。その訳は今の聖書と若干違うのですが、もともとの詩篇はヘブライ語のものであり、ここで訳されているものはギリシャ語訳のものだからだと言われています。ここで何が言われているのかと言うと、イエス様が世に来られた時にこの様に言ったというのです。それは、「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。」と言うのです。このように、神様はもともと生贄や捧げものを好みもせず、望んでもいなかったというのです。罪を贖うためのいけにえなど、捧げないでほしいと思っていたというのです。これと同じような事は他の預言書などにも何度も書かれてきたことです。ですが、イスラエルの人々は律法を守ることを優先してきたのです。なぜ神様は、そのいけにえを好まれなかったのでしょうか。それはイスラエルの人々が罪を赦してくださいと言っていけにえを捧げながら、決して神様に従順なものになろうとはしなかったからです。神様が喜ぶ捧げものは、神様に従う従順な魂なのです。それがまことの捧げものなのです。その事のためにイエス様はこの世に来られたというのです。イエス様は、神様に十字架の最後まで従順に従い、神様の御心を行うためにこの世にやってきたのです。そしてその体をいけにえとして、ただ一度捧げられることによって、私たちの罪は取り除かれ、私たちは完全なものとなって、神様のみ前に出ることができるようになったのです。ですから、律法による動物のいけにえはこの時点で廃止され、ただイエス様によるいけにえだけが有効になったというのです。

 そして、この世の祭司達がしていることと、まことの大祭司であるイエス様のしていることの違いを語ってこう言うのです。11節から14節です。

ヘブ 10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。

ヘブ 10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、

ヘブ 10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。

ヘブ 10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

 この様に、この世の祭司達は、毎日礼拝を捧げるために聖所の前に立ちました。そして神様に仕える者として、決して罪を取り除くことの出来ない同じいけにえを、繰り返して捧げているのです。このいけにえを捧げることは毎日行われたのです。イスラエルの人々は、この犠牲によって浄められていると思って捧げていたのですが、実は浄められることはなかったのです。ますますその罪を意識するようになったのです。

 ですがまことの大祭司であるイエス様は、神様の御心に最後まで従順にしたがい、ご自分を人々の罪のためのいけにえとしてささげて、永遠に神の右の座に着いたのです。すなわち、イエス様は最後には支配者として、右の座に着いたのです。ですが、この世の祭司達は、仕える者として、聖所の前に立っていたのです。ここで、座るものと立つものの違いは大きいのです。それは支配するものと支配される者の違いです。そしてイエス様は、敵どもがすべて、服従するようになることを待ち続けておられるのですと言うのです。この様にして、イエス様はキリストとして、唯一の捧げものすなわちご自分の命を捧げて、聖なるものとされた人たちを、永遠に完全なものとなさったのですと言うのです。

 この事を、聖霊もまた証しているとして、このように語るのです。15節から18節です。

ヘブ 10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。

ヘブ 10:16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。

ヘブ 10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

ヘブ 10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

 ここでのこの新しい契約の引用句である『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』と言う言葉はとても有名ですが、これはエレミヤ書の31章33節です。これを聖霊がイエス様の新しい契約の事を予言し証している言葉として引用しているのです。その内容は、イエス様が、その命を人々の罪の贖いとしてささげた後は、神様は私たちと新しい契約を結んだというのです。そしてその契約と言うのは旧約の律法ではなく、私たちの心に置かれたものであり、私たちの思いの内にあるものであると言う事です。すなわち律法によって、外からこうしなさい、ああしなさいと言うものではなく、私たちの良心の内より語り掛ける、神様の言葉、すなわち愛の言葉に従いなさいと言う事なのです。私たちの心の内から聞こえる神様の言葉に従順に従いなさいと言う事です。そして、神様はもはや私たちの罪と不法を思い出しはしないというのです。私たちは赦されたのです。ですから神様のみ前に出ることが出来て、祈ることも出来るのです。もし私たちの罪が許されていなかったらそれは出来ないことなのです。この様に私たちの罪と不法の許しがあるのだから、もはや罪を贖うための供え物は、必要がないのだと、この筆者は呼び掛けているのです。

 私たちの罪と不法とはイエス様の犠牲、十字架の犠牲によって許されました。そして、私たちは律法に従うのではなく、心の内におかれた、神様の御言葉に従うものとされたのです。イエス様の犠牲が動物の犠牲よりもすぐれたものであるのは、イエス様が神様に対して最後まで従順であられたからなのです。私たちもこの従順をイエス様に倣って歩んで行くことが大切です。神様が好まれる捧げものは従順なのだからです。私達はイエス様の完全な捧げものによって、浄められたのです。私たちは神様に願い出ることが出来る様になったのです。幕屋の外のさらに外側から呼びかけるようなことや犠牲を毎日捧げるようなことはしなくても良くなったのです。これが新しい契約なのです。私たちはこの新しい契約の内に生かされています。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様によって完全な犠牲がささげられて、私たちは罪が清められ、もう神様の前に恐れることなく進み出ることが許されました。神様が喜ばれることは、私たちがイエス様の様に従順な思いをもって神様に従って行くことです。私たちの心の内におかれた、あなたの御言葉に聞き従いながら、従順に歩んで行くことができますように導いてください。それがあなたによってつくられた者の最高の道であることを覚えて、いつも喜び賛美していくものでありますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

ヘブ 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

ヘブ 10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。

ヘブ 10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。

ヘブ 10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

ヘブ 10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。

ヘブ 10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。

ヘブ 10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」

ヘブ 10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、

ヘブ 10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。

ヘブ 10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

ヘブ 10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。

ヘブ 10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、

ヘブ 10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。

ヘブ 10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

ヘブ 10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。

ヘブ 10:16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。

ヘブ 10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

ヘブ 10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。