家庭礼拝 2018年8月8日 へブル9:1-28 地上の聖所と天の聖所

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起 

今日の聖書の箇所には、旧約聖書の長い引用がありますが、これは、イエス様がこの地上の大祭司ではなく天上の大祭司であり、イエス様が仕えているのはこの地上の聖所ではなく、天上の聖所であることを語ろうとしているのです。そのために、旧約聖書の長い引用を用いて、旧約ではこのように規定されているが、イエス様の場合はこのようになっているのだから、イエス様の方が優れていると言う事を教えようとしているのです。そのために聖所の詳しい説明なども入ってきますが、これらは既に何度も学んできている、聖所の話なので、ここではその詳しい話は省略し、なぜこのような話を持ち出して来て、何を語ろうとしているのかと言う事に焦点を合わせて、話を進めていきたいと思っています。

この話の進め方の基本は、地上にあるものはすべて天上にあるものの影であると言う事です。そして天上の何が地上のどんな影となっているのかを理解し、地上のものよりも本来ある天上の実態の方に目を向けるようにすることが大切だと言っている事です。

前回は、8章で新しい契約について学びました。それは神様が、「私の律法を彼らの思いに置き、彼らの心はそれを書きつけよう。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」と教えてくれた新しい契約でした。そして今日の聖書の箇所の9章では、その新しい契約と古い契約、ここでは最初の契約と言われているものですが、それがどのように違っているのかを説明しているのです。

そして、最初の契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました、と言う書き出しで、地上の聖所と天上の聖所の比較、そして、地上の礼拝の規定と、天上の礼拝の規定について語り出すのです。まず、1節から10節です。

ヘブ 9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

ヘブ 9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。

ヘブ 9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。

ヘブ 9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、

ヘブ 9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。

ヘブ 9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。

ヘブ 9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。

ヘブ 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。

ヘブ 9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。

ヘブ 9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません

ここには、第一の幕屋の話、第二の幕屋の話そして至聖所の話と説明が行われています。ここではこの幕屋の話を詳しく説明しようとしているのではなく、新しい聖所の話と対比させるために、旧約の幕屋はどのようなものであったのかを語っているだけなのです。そして大事な事は神様に礼拝を捧げようとするものはこの聖所の第一の幕屋の入口の外側までしか来ることが出来なかったと言う事です。第一の幕屋に入ることが出来たのは祭司達だけでした。しかも神様がご臨在する第二の幕屋には、年に一度、大祭司だけが入ることが出来たのです。そしてそこで、自分自身のためと、民の過失のためにささげる血を携えて、礼拝するのです。この様に神様を礼拝すると言うのはとても大変な事で、神様は普通の人から見るとずっと遠くにいらっしゃる方だったのです。このイスラエルでは、罪を清めていただくために、毎年犠牲のヒツジやヤギを捧げていました。今だったら何10万円位もする捧げものだったでしょうか。日本でも神社やお寺にお参りした時に賽銭箱にお金を入れる風習はあります。それがお祈りするためには10万円入れなさいと言われたら、果たしてそのような犠牲を払ってでもお祈りするでしょうか。イエス様が十字架でお亡くなりになった時、この第二の幕屋の至聖所の幕が真っ二つに裂けて、神様の方から私たちの方にやって来てくれたのです。ですから、今では私たちはイスラエルの人々のように、捧げものをしなくても直接神様にお祈りし、賛美し、礼拝することができるのです。これがイエス様の犠牲によって私たちに与えられた、恵みなのです。

そして9節にも書いてあるように、「供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。」と言う事なのです。イスラエルの人々がこんなにも捧げものをして礼拝しても完全に清められることはないのです。それをイエス様は完全に解消してくださるのです。

 その事を、天の幕屋と、キリストの血の話を用いてこの様に語るのです。11節から14節です。

ヘブ 9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、

ヘブ 9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブ 9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

ヘブ 9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 この様に、イエス様は、天の幕屋の天の聖所に入られたのです。これは人間の手で作られたものではなく地上の幕屋よりはるかに大きくそして完全な幕屋に入られたのです。そこで捧げる犠牲は、牛やヤギの血によるものではなく、イエス様ご自身の血によって行われたのです。そこでの贖いは人間の場合は毎年行わなければなりませんでしたが、イエス様の場合はただ一度天の聖所に入って、永遠の贖いを成し遂げられたのです。キリストの血は、牛やヤギの血と違って、私たちの良心をよみがえらせ、生ける神様を礼拝するようにさせるでしょうと言っているのです。すなわち、イエス様の犠牲の血によって、私たちは完全に清められ、神様のみ前に自由に出ることができるようになったのです。

それにしてもなぜ、イエス様は死ななければならなかったのかを、このように語っています。15節から19節です。

ヘブ 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

ヘブ 9:16 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。

ヘブ 9:17 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。

ヘブ 9:18 だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。

ヘブ 9:19 というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、

ヘブ 9:20 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。

ヘブ 9:21 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。

ヘブ 9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

この様に、イエス様は、人々が旧約の律法の下で犯した罪の贖いとして、死んでくださったと言うのです。それはそのことによって、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためであると言うのです。それはイエス様の遺言であり、イエス様が死ぬことによってはじめて受け継ぐことの出来る財産なのです。

最初の契約、すなわち旧約の契約もまた、血が流されずに成立したのではないと言います。それは人間の血ではありませんでしたが、牛やヤギの血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけて、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったというのです。この言葉はイエス様の最後の晩餐の時に語った,「これは、罪が許されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言う言葉と同じです。すなわち、新約でも旧約でもその契約が結ばれる時には血が必要だったのです。血とは命の事です。命を捧げることが必要なのです。血を流すこと無しには罪の許しはあり得ないのですとここでは語られています。そしてその血によって契約が成立し、罪が清められているのです。

 そして、イエス様の生贄が、いかに優れたものであり、今までの生贄が仮のものであったことをこの様に語ります。23節から26節です。

ヘブ 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

ヘブ 9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

ヘブ 9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。

ヘブ 9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。

ヘブ 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

ヘブ 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 ここでは、地にあるものは天にあるものの写しであり影であり、地にあるものは天にあるものによって浄められなければならないことを語っています。イエス様は、人間のつくった聖所にではなく、天の聖所に現れて下さり、私たちの救いのために、神様のみ前に現れて下さったのです。地上の礼拝では大祭司が毎年、犠牲の動物の血を携えて聖所に入り、その浄めを行いましたが、イエス様の場合は毎年その様な事をする必要はなく、ただ一度ご自身を生贄としてささげて、私たちの罪を取り去って下さったのです。そして再び現れて下さるときにはイエス様の再臨を待ち望む人々のために救いをもたらすために現れて下さるのです。

 地上で行われることはすべて天上で行われることの影でした。毎年捧げられる罪を清める捧げものもそうでした。ですが、イエス様は天上の聖所に現れて下さり、ただ一度ご自分を犠牲にささげて、私たちの救いを完成して下さったのです。私たちは地上のものにばかり目を奪われてしまいますが、本当に大切なことは天上で行われており、イエス様が天上において行ってくださった罪の清めの捧げものの事を、私たちはしっかりと受け止めなければならないのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様は天上の聖所において、私たちの罪を清めるためにただ一回の捧げものをしました。それはイエス様自身の命を捧げることによって、私たちは浄められたのです。私たちが清められたと言う事は、神様のみ前に出ることを赦されたのです。それまで祭司にしかできなかった、神様のみ前で礼拝し祈り、捧げることを私たちは赦されて行うことができるようになりました。

 この大きな恵みと喜びとに感謝いたします。当たり前のようにしている神様のみ前での礼拝が、実はこんなにも多くの障害に満ちていたものであり、イエス様によってそれを取り除いてくださったことに感謝いたします。どうか私たちがこれから捧げる礼拝の上に、あなたの祝福がありますように。あなたがすべての人々を清めて、救いへと導いてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

◆地上の聖所と天の聖所

ヘブ 9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

ヘブ 9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。

ヘブ 9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。

ヘブ 9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、

ヘブ 9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。

ヘブ 9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。

ヘブ 9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。

ヘブ 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。

ヘブ 9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。

ヘブ 9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

ヘブ 9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、

ヘブ 9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブ 9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

ヘブ 9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

ヘブ 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

ヘブ 9:16 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。

ヘブ 9:17 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。

ヘブ 9:18 だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。

ヘブ 9:19 というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、

ヘブ 9:20 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。

ヘブ 9:21 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。

ヘブ 9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

◆罪を贖う唯一のいけにえ

ヘブ 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

ヘブ 9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

ヘブ 9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。

ヘブ 9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。

ヘブ 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

ヘブ 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。