賛美歌505歩ませてください聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌510主よ、終わりまで
起
今日の、聖書の箇所には、クリスチャンとはどのようなものかと言う事がたくさん書かれています。ですが気を付けて読まないと、その事に気が付かないで素通りしてしまいそうな箇所です。というのも、ここに書かれていることは、いつまでも初歩的な信仰にあって、成長しない信仰者を叱ったり、励ましたりして、なんとか成熟した信仰者になってほしいという願いが語られているからです。その言葉を聞いていると、自分とはあまり関係のない、弱い信仰者の事を語っているのだなと思ってしまうのです。筆者は、もうこんなことはやめて、成熟を目指して進みましょうというとき、そのこんなことの中に、クリスチャンとはどういうものかと言う事を語っているので、それを自分に語っている言葉として翻訳しないとなかなか気が付かないのです。
今日の聖書の箇所では、この筆者は動揺している教会の人々に対して、信仰と忍耐とをもって、約束されたものを受け継いでいってほしい、と言う事を強く語っています。この時にこう言っている背景に、信仰者が迫害にあっていると言う事を理解しなければなりません。約束されたものを待ちきれなくて、不安になり忍耐することが出来なくなって、信仰を失っていく人々が多くいたからです。信仰よりも命の方が大切だと思う人々がたくさんいたのです。もしかすると私たちもそうかもしれません。いざとなった時に信仰が試されるのです。命よりも信仰が大切だと信じて、希望をもって忍耐強く待ち続けること、その大切さをこの手紙では語っているのです。
承
6章の前半は、5章の後半から続いている「一人前のキリスト者の生活」と言う小見出しの箇所となります。5章の後半では、あなた方はまだまだ信仰の初心者で、まるで赤ん坊のように、まだ乳を必要としている人たちだと言われてしまいました。そして6章に続いて、だからこうしなさいと言っているのですが、それは何でしょうか。1節から3節です。
ヘブ
6:1 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
ヘブ
6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
ここにはクリスチャンとしての基本的な教えが語られています。一つ目は、死んだ行いの悔い改め、二つ目は、神への信仰、三つめは種々の洗礼についての教え、四つ目は、手を置く儀式、五つ目が死者の復活、六つ目が永遠の審判です。この乳飲み子だと言われている信仰者たちは、洗礼を受ける前にこのような項目について、クリスチャンとはこのような事を信じる者なのですよとしっかりと教えられて、それを信じますと言ってクリスチャンになったのです。
これらをよく見ると、信仰に入って成長していく過程が順番に書かれているように見えます。それぞれについてどういう意味なのかを確認してみると、信仰に入るためには悔い改めが必要です。これがスタートとなります。死んだ行いの悔い改めとは、律法を守れば救われると言った、行いによる救いの成就と言ったことは、役に立たないと言った意味で死んだ行いと言っています。そして一つ目の悔い改めが済めば、二つ目の神を信じる信仰へと入ります。ただ一人の神様を信じて委ねる信仰です。その様な信仰に達したならば、三つめの洗礼に入ります。洗礼は信仰告白であり、教会会員として認められることです。その洗礼にもいろいろあって、全身を水につける浸礼や、頭に水を振りかける滴礼がある事や洗礼の意味も教えられるのです。そして教会生活を続けるうちに四つ目の手を置く儀式に出会います。これは手を置くことによって罪を取り除いたり、祝福を与えたり、教会の役員になる時の任職式の按手の様な意味を教えられるのです。そして、クリスチャンとして最後に到達しなければならない、五つ目の死者の復活を信じることと、六つ目の永遠の審判があることを信じて、神の国に入っていくのです。この様な事は一通り教えられたようです。ですがここで言っているのは、このような基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう、と言っています。この様な初歩的な教理を教えても何度も初歩に戻らなければならないのならば、もうそんなことは覚えなくてもいいです。それよりも日々の生活を通して、クリスチャンとしての信仰生活を実践し、成熟を目指していきましょう、と言っているのです。もう細かいことは言わない、ただイエスキリストを信じる信仰にのみ生きるようにしましょうというのです。
それは何故かと言えば、筆者はこう言っています。4節から8節です。
ヘブ
6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
ヘブ
6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
ヘブ
6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブ 6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
ヘブ 6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
ここでもクリスチャンとはどのようなものかと言う事を、分かりにくい形で表現されています。これは、クリスチャンとは神の光に照らされたものであり、天からの賜物を味わったものであり、聖霊にあずかる者であり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験するものである、と言う事をまず語っているのです。私たちの信仰を振り返って見て、このようなものになっているかどうか確認する必要があります。実は自分にはまだこのような自覚がないと思っていても、既にそれが与えられているものがクリスチャンなのだと言う事を理解しなくてはいけません。クリスチャンは、自分の自覚がどうであろうとも、天の光に照らされ、賜物を与えられ、聖霊にあずかり、神様の御言葉を聞き、来るべき世の力を体験しているものなのです。ですが筆者が言っているのはそのような体験をしながら、堕落して、信仰から離れていったものの場合は、再び悔い改めに立ち返らせることが出来ない、と言っているのです。その様に一度与えられた信仰を捨てて、堕落することは、教会を非難し、キリストを排斥するものとなるので、神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱するものだからですと言っています。これを読むと一度堕落したものは二度と救われないような気もしますが、人間には再び悔い改めに立ち返らせることが出来ないが、神様にお委ねして、立ち返らせることができるかもしれないと言う事も知っておくべきことです。
筆者は信仰者が堕落することを土地と農作物の譬えで話をしていますが、厳しいものです。土地とは信仰者であり、そこに降る雨は神様の恵みです。そして信仰の実を結ぶならば神様に祝福されるが、茨やアザミになってしまったならば、呪われて焼かれてしまうというようなことを言っています。これはこの時代の厳しい迫害の環境の中で、信仰を離れて堕落して、教会に敵対するものを厳しくさばいているのです。
ですが一転して、とてもやさしいトーンに代わります。これが本音なのです。9節から12節です。
ヘブ
6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
ヘブ
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
ヘブ
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
ヘブ
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
ここではこれまでの厳しい言い方にとってかわって、愛する人たち、と呼びかけながら、「こんな風に言っていても、私はあなた方が救いにあずかれることを確信していますよ」と言うのです。今までとは全く違った言い方です。どうしてこういうかと言うと、神様はあなた方の働きや、聖なる人たちに仕えたことを決してお忘れになるようなことはありませんからと言うのです。そして、私が願っているのは、あなた方が最後まで希望をもって、熱心に信仰していくことを願っていますよと言うのです。この手紙の主が言いたかったのはこのことです。厳しい事を言っているけれども、神様はあなた方の事を忘れるはずはないから、信仰と忍耐をもって、約束されたものを受け継ぐものとなってほしいと語っているのです。迫害の中にあっても、この信仰と忍耐をもって待ち望み、約束されたものを受け継ぐ人たちを見習って、努力してほしいと願っているのです。
転
そして、この見習うべき人と言うのは誰かと言う事を次に語ります。その人とは信仰の父と呼ばれる、アブラハムのことなのです。13節から15節でこう語ります。
ヘブ 6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、
ヘブ 6:14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。
ヘブ 6:15 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。
神様は正しく間違いのない方ですから、神様の約束したことは必ず実現します。その神様がその約束をさらに自分にかけて誓ったというのですから、その約束は絶対に実現する間違いのない約束であると言う事です。神様はそのことをアブラハムに伝えるために、自分に誓ってさえも約束したのです。その約束とは、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」というものです。アブラハムはすでに年を取っていたので、子供を授かれないかと思っていました。ですが神様の約束はあなたの子孫を大いに増やす、というものでした。この約束を、アブラハムは神様の約束として、疑わず、根気よく待って、その約束の実現を得たのです。その様に、神様の約束は必ず実現するから、あなたたちもあきらめて信仰を捨てるようなことはしないで、最後まで、信仰を保ち続けなさい。神様の約束を待ち続けなさいと言っているのです。
その神様の約束が、間違いなく成就することを説明してこういうのです。16節から18節です。
ヘブ 6:16 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。
ヘブ 6:17 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。
ヘブ 6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。
人間の約束と言うのは、中々信用の出来ないものです。約束を守る場合もあれば、気が変わって守らない場合もあります。ですから、人間が約束をすると言った時には、そんなこと信じられるかと言った反対論が出てくる場合もあるのです。そうするとこの問題に決着をつけるのは、自分より偉大なものにかけて、自分ではなく、この偉大な人が約束してくれると誓って約束すれば、もう議論の余地はなくなってその約束を信じるのです。この偉大なものが神様ならばそれが一番の誓いとなります。
神様は、自分より偉大なものがないので、本当は誓う必要はないのですが、相手にその言葉の間違いのないことを信じさせるために、自分自身に誓って保証したというのです。それほど神様の約束は必ず成就するものであるから、その事を信じて励まされなさい。希望を持ちなさい、神様が偽ることはあり得ませんと、教えているのです。神様の約束は必ず実現する。このことを信じているでしょうか。これが信仰なのです。神様の約束は自分自身に直接語ってくれなくても、聖書の中にたくさん神様の約束があるのです。そして、これは私に約束してくださったものだと言う事を見つけることが出来れば、それは必ず実現すると信じてよいのです。信仰はこの信じることにあるのです。そしてその信仰は希望となるのです。
筆者はこの希望についてこう語りました。19節から20節です。
ヘブ 6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
ヘブ 6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
筆者は、この希望は魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであると言いました。嵐のような不安の中にある、信者への迫害と言う状況の中で、この錨、すなわち神様の約束を信じるという希望を持つものは、嵐の中でも漂うことがないのです。しっかりと神様に捕まえられているのです。ですから不安にあるのではなく、安心の中にいることができるのです。
そしてまた、この信仰の希望を持つことは、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくものであると言いました。ここに入ることができるものはごくわずかな人で、ごくわずかな時間だけです。実際には大祭司だけが入ることができ、それも一年に1回だけ、限られた時間にしか入れないのです。ですがそこでは神様に直接お会いすることができるのです。この筆者は、信仰の希望を持つものは、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくことだと言いました。それはこの信仰の希望を持つものは、神様に直接お会いすることができ、神様の御言葉を聞くことができると言う事です。この考えは今までのユダヤ教にはなかった考えです。この様な大胆な考え方を広めたのがキリスト教なのです。このことをまず行ったのが、イエスキリストであり、私たちはその後をついて、この至聖所に入ることが許されたのです。このことによって、イエス様は、伝説の大祭司メレキゼデクと同じような大祭司であると言われるようになったのです。
結
この筆者は、最初はとても厳しく、その信仰の甘さを非難し、神様の恵みを味わってから堕落したものは再び悔い改めに立ち返らせる事は出来ない、イエス様を、自分で十字架に着けるようなものだからと言いました。ですが、本当の気持ちはそこではないのです。途中から、愛する者達と優しく呼びかけて、神様はあなたたちのしたことを忘れることなく、きっと救いを与えられるでしょうと語ったのです。そしてアブラハムを見習って、信仰と忍耐とをもって、神様の約束を信じて待ち続けなさい、と教えました。そうすることが、魂の錨となり、至聖所に入っていけることになるからですと言うのです。神様の約束を信じて待つ、ここに信仰のすばらしさがあるのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは悪いことが起こると、その信仰が試されて、あなたを受け入れられなくなったり、離れたりします。ですが、その中にあってもあなたが私たちを愛してくださって、御子イエスキリストを遣わして下さった方であることを信じさせてください。あなたの約束は必ず成就します。どうかその確かな希望をもって信仰生活を歩んで行くことができますように。そして人々をも導いていくことができますように導いてください。この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>
ヘブ 6:1 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
ヘブ 6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
ヘブ 6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
ヘブ 6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
ヘブ 6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブ 6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
ヘブ 6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
ヘブ 6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
ヘブ 6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
ヘブ 6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
ヘブ 6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
◆神の確かな約束
ヘブ 6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、
ヘブ 6:14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。
ヘブ 6:15 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。
ヘブ 6:16 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。
ヘブ 6:17 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。
ヘブ 6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。
ヘブ 6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
ヘブ 6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。