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起
今日の聖書の箇所の多くは、「神の民の安息」と言う小見出しで、3章の7節から4章の13節まで続く長い文章です。その内今日は4章の1節から13節までを学びます。その後、「偉大な大祭司イエス」と言う小見出しで、4章の14節から5章の10節まで続きます。ですから、この章で区切られた所は、一つの話のまとまりとは関係なく、中途半端に途中で区切られているのです。話の流れとしては、神の民は安息の地を求めて、モーセに率いられて旅をしたが、不信仰のためにそこに入ることが出来なかった。そして今や、大祭司なるイエスが現れ、恵みによって許され、信仰によって安息を得ることができるようになったと言う事です。
今日学ぶ、「神の民の安息」の1節から13節までの間に、安息、という言葉が9回も出てきます。いかに安息について、集中的に語られているかを知ります。それは主に、旧約の神様が約束された、平安の地、カナンに入ることを神の民の安息と言い、その後は、神の国に入ることを安息と言っています。旧約聖書の物語は、神様の約束の言葉と、それに不従順なイスラエルの人々と、それに対する神様の怒りと、そして神様の慈しみの繰り返しで書かれています。いずれにしても、神様は深い愛をもって、苦しんでいる人々に神の民の安息を与えようと約束し、それを実行しているのですが、イスラエルの人々を神様を信頼せず、何時も裏切っているのです。
福音と言う言葉はふつうは、新約聖書のイエス様を通して与えられる、良き知らせを福音と呼んでいますが、このへブル書ではもっと広く、旧約の時代にまでさかのぼって福音と言う言葉を使っています。その意味は、神様の約束の言葉、人々に安息を与える、という約束の言葉の事を指して福音と言っています。ですからここではモーセの時代にまでさかのぼって、この福音と言う言葉が使われているのです。そしてこの安息に入るために必要な事は3章の7節8節で語られた言葉です。それは、
ヘブ 3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
ヘブ 3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。
それは、神様に対して心をかたくなにしてはならないと言う事です。この事はイエス様が、神の国を宣言した時の言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉の、悔い改めよ、という言葉と同じなのです。「神様に対して心をかたくなにしないで、悔い改めて、神様の平安の内にありなさい。神様は赦して下さる。」と言う事が福音なのです。この事を覚えながら、今日の聖書の箇所を学んでいきたいと思います。
承
4章の1節はこのような言葉から始まります。
ヘブ
4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
この箇所が、だから、という言葉で始まるのはその前の3章19節が、「彼らが安息にあずかることが出来なかったのは、不信仰のせいであったことが私たちにはわかるのです。」という言葉があるからです。すなわち、旧約の人々は、不信仰のために、安息にあずかることが出来なかったが、その神様の約束は、昔の話ではなく、今も続いているのだから、自分達には関係ない、それは昔のことだと思わないように気を付けましょうと言う事を言っているのです。
そして2節ではこう言っています。
ヘブ
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
ここで彼らと言うのは、モーセに率いられたイスラエルの人々で、まだ砂漠をさまよっていた人々です。この人々には、約束の地カナン、すなわちこれが安息の地であったのですが、この安息の地を与えると言う福音が告げ知らされていました。ですが、彼らには聞いた言葉は役に立たなかったというのです。その約束の御言葉と、それを聞いた人々とが信仰によって結びつかなかったために彼らは心をかたくなにして、その言葉を信じなかったのです。神様を信じる人、信じない人がいます。また神様の言葉を聞いて、信じる人信じない人がいます。この様な話になると、信じられる証拠を見なければ信じないとか、いくら神様の言葉を聞いても、生活に結び付かないで素通りしてしまう人もいます。同じように神様の言葉は聞かされるのですが、どうしてこのような違いが出てくるのでしょうか。信仰は根拠があるから信じるのではないのです。まず信じることから始まって、その真理が見えてくるのです。信じる者受け入れるものにだけに、その根拠が示され、その言葉が生活に生かされてくるのです。根拠が示されるとは、神様が生きて実在すると言う事が知らされると言う事です。
モーセに率いられたイスラエルの人々は、神様の約束の言葉福音を告げ知らされても、それを受け入れ信じることが出来なかったために信仰とはならなかったのです。これは今の私達でも同じです。いくら長く教会に通い続けて、その説教を聞いても、本当に信じて受け入れなければ信仰には結びつかないのです。聞いて信じるのではなく、信じて聞くのです。見て信じるのではなく、見ないで信じるのです。これが信仰なのです。
モーセに率いられた人々はこのように信じることがなかったので安息には入ることが出来なかったのですが、信じた私たちは安息にあずかることができると語っています。3節から5節です。
ヘブ
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
ヘブ
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
ヘブ
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
信じた私達とは、何を信じたのでしょうか。イエス・キリストを信じたのです。この言葉は、イエスはキリストすなわち救い主であるという信仰告白です。イエスはキリストであると信じることによって、私たちは安息にあずかることができると言いました。そして信じなかったイスラエルの民には神様は怒って、『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と誓ったのです。
実は神様の業はこの時に行われたのではなく、天地創造の時にすでに行われていたというのです。なぜならば、神様の業は7日目に全ての業を終えて休まれたので、この時にすでにすべての事が計画され実行されていたのです。すなわちこの時点で、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言う事が決定されていたのです。
そこで話がまた、最初に戻るのです。この様に安息が決定されていたなら、自分達はもうその安息から取り残されてしまったのだろうかという考えです。ですがこの手紙の筆者はそうではないとこのように語りました。6節と7節です。
ヘブ
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
ヘブ
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
筆者は、『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と神様が言われたのなら、彼ら以外の人々で、従順な人々にはまだ安息にあずかるチャンスがあるではないかと言うのです。神様が、ダビデに、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」と語ったのは、その日だけが今日ではなく、毎日が今日であり、まさに、今日あなたたちが神の声を聴くなら、心をかたくなにしてはならないと言う事なのです。今日神様の声を聴いたら、それを受け入れ信じて歩みなさい、そうすれば安息に入ることができます、と言う事です。安息に入るとは神様の平安の内にいると言う事です。不安や恐れや、思い煩いのない、満ち足りた平安の内にあることが安息に入ることです。心をかたくなにするとは、神様の言葉を信じられないのは、あなたが信じようとしていないことなのだと言っているのです。かたくなに信じようとしていない、自分ではそうは思っていないのですが、私たちはかたくなに信じようとしていないのです。ですからイエス様は幼子のようになりなさいと言うのです。幼子にはこのかたくなさがないからです。聞いてそのまま信じるからなのです。
果たして、誰が安息を与えられたのかについて、さらにこう言います。8節から11節です。
ヘブ
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
ヘブ
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
ヘブ
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
ヘブ
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
ヨシュアは約束の地カナンにイスラエルの人々を導きました。約束の地とは安息の地のはずなのです。ですが、その安息の地に着いて、安息は得られたのかと言う事を言っているのです。ヨシュアが彼らに安息を与えたのなら、もう安息の日について語る必要がなくなるはずです。ですがその後も安息日の休みが必要だったのです。神様が御業を終えて休まれたように、自分も仕事を終えて休む必要があったのです。ですから、私たちも、この安息にあずかるように努力しようではありませんかと言いました。そうしないと、神様の約束を信じないで、不従順になった昔の人たちのように、堕落するものが出るかもしれないと警告しました。
この筆者は、神様の約束の言葉の強さ、その働きをこの様に語りました。12節と13節です。
ヘブ
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
ヘブ
4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
神様を信じる者たちにとって、言葉とは単なる記号でも符号でもなく、日本でいう言霊と同じで、言葉自体が生きて働いているという感覚なのです。一度発せられた神様の言葉は生きており、その言葉自体が力を発揮し、精神と霊、間接と骨髄とを切り離すほどに刺し通し、心の思いや考えを見分けることができると言います。その言葉は私たちの身体のそして心の奥底までに届き、すべてを見分けており、神様の目には裸にされているのだと言う事なのです。ですからこの神様の前で、何のごまかしもできないで、自分たちはどうであったのかを、言わなければならないのだと言うのです。私たちは、姿かたちや、地位や、権力や財産などで着飾ってそれによっていろいろと誤魔化しているのですが、神様の前ではそれらはすべてはぎ取られ裸にされて、自分自身の心をさらけ出さなければならないのです。
転
そのような状況にあって、自信をもって神様の前に立てる人は一人もいません。総ての人は罪を隠しており、神様のみ前では恐れおののくしかできないのです。自分の罪が見透かされているからです。
ですがこの筆者は、私たちには大祭司である、イエス様がついているから安心しなさいと、声高らかに語るのです。14節から16節です。
ヘブ 4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
ヘブ 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
ヘブ 4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
大祭司とは、神様のことも人間のことも良く知っており、人間に神様の事を伝え、神様に人間の事を伝える働きをする人です。この筆者は、イエス様は大祭司だと言います。私たちは大祭司と言うと、ユダヤ教の儀礼的な事を行うだけの人を思い浮かべますが、そうではなくて、ここでの大祭司とは神様の事を私たちに示して下さる方、という意味で大祭司と言っているのです。すなわちイエス様の言葉、イエス様の行いを見れば、神様がどのような方であるかわかる、というのが大祭司の意味なのです。
普通神様と言うのは、無感情、無関心を装うのです。なぜならば、感情を動かされるようでは、そのような神様は色々な事の影響を受けてしまう神様と言う事で、頼りない神様になってしまうからです。どのような事にも動じない神様と言うと、無感情で無関心な神様になってしまうのです。ところがこの筆者は、この大祭司は私たちの弱さに同情出来な方ではないと言いました。人間のことも良く知っているので、人間の弱さを理解し、人間の試練を理解して、憐れんでくださり、助けて下さる方だというのです。だから恐れることなく大胆に、その恵みの座に近づこうではないかと呼びかけています。すなわち、私たちの求める約束の地、安息の地は、イエス様が指し示して下さった神の国にあるから、恐れることなく大胆に、このイエス様の恵みにあずかろうではないかと呼びかけているのです。
結
人間は苦しみから逃れようと、安息の地を求めてさまよっています。モーセの時代はそれが、カナンの地でした。ですがそれだけではだめで、安息日によって安息に入ろうとしました。ですが、イエス様が現れて、私たちに本当の神様の姿を現して下さり、私たちが神様を信じる信仰に入れるように導いてくださったのです。その働きを、この筆者はイエス様は大祭司であると語り、私たちに同情し、憐れみと恵みとを与えて下さる方のもとに行こうではないかと、語っているのです。私たちの本当の安息はイエス様を信じて神の国に入る時に与えられるものである事を語っているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちの安息がイエス様のもとにあることを教えられました。私たちが不従順な時、その安息は決して与えられなかったことが、モーセに率いられた人々によって示されました。私たちはイエス様を救い主と信じることによって、その御国に招き入れられ、安息を得ることができます。それはイエス様の憐みと恵みです。どうか私たちがこの事を信じて、何時も信仰によって歩んで行くことができますように。かたくなな思いを捨てて、あなたに従うものでありますように。この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>
ヘブ 4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
ヘブ 4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
ヘブ 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
ヘブ 4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
ヘブ 4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
ヘブ 4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
ヘブ 4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
ヘブ 4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
ヘブ 4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
ヘブ 4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
ヘブ 4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
ヘブ 4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
ヘブ 4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
◆偉大な大祭司イエス
ヘブ 4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
ヘブ 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
ヘブ 4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。