家庭礼拝 2018年6月20日 へブル3:1-19 イエスはモーセにまさる

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起 

このヘブライ人への手紙では、イエス・キリストが、それまでの旧約聖書の預言者たちや、天使達よりもすぐれた存在であり、神の御子として、天地を創造し、救いを与える方であることを語ってきました。そして今日の3章では、その旧約の律法の創始者となった、モーセよりもイエス様の方が優れた方であることを語ろうとしているのです。すなわち、イエス様は、今までのユダヤ教を超える方であり、ただ一人、神様の意志を継がれる方であることを語っているのです。これほどあからさまに、ユダヤ教に対して、キリスト教の優位性を語っている書簡はありません。ですから、後のクリスチャンたちはこの書簡を手本にして、自分達の信仰の基礎を確かなものとして行こうとしていたのです。さて、それではこの手紙では、どのように、イエス様がモーセにまさるものであると語っているのかを、学んでみましょう。

まず、1節から4節です。

ヘブ 3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブ 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。

ヘブ 3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。

ヘブ 3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです

ここでは前の章の、イエス様が大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟達と同じようになったことを受けて、その使者であり、大祭司であるイエス様の事を考えなさいと語り出しました。神様から見ればイエス様は人間に遣わされた使者であり、人間から見れば、神様との間を取り持つ大祭司なのです。ただ、イエス様を使者と語っている書簡はこのへブル書だけです。2節の、「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。」という言葉はこれだけだと良く分からないのですが、3節の家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるという言葉に合わせてみると、モーセは家そのものに対して忠実であり、イエス様は家を建てた神様に忠実であったと言う事が分かります。ここで家とは、教会であり、信仰を宿す私たち自身かもしれません。それをつくられたのは、神様であり、神様に忠実なイエス様であると言う事です。そしてそれを守っていたのはモーセであると言う事です。だから、より神様に近い、イエス様の方が、モーセより大きな栄光を受けるにふさわしいと言っているのです。

そして、5節と6節でこう言います。

ヘブ 3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、

ヘブ 3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

まず、モーセの使命は、将来語られるはずの事、それは救い主イエス・キリストの事を証しするために、神の家全体に仕えることであったと言います。一方、キリストは、神の御子として、仕えるのではなく、神の家を忠実に治められるのだというのです。そしてこう言います。その神の家とは、確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私達こそ神の家なのだと。すなわち、神の家とは私たち自身であり、イエス・キリストはその私たちを忠実に治められる方であると言っているのです。私たちを治められるのはイエス・キリスト、すなわち、私たちの主はイエス・キリストであると言う事です。モーセはそれに奉仕する者と言う事です。

 私たちが、神の家となり、治められるのはイエス・キリストであると教えられた私たちが、どのように生きるべきかをここで語ります。7節から11節です。

ヘブ 3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

ヘブ 3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。

ヘブ 3:9 荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』

ヘブ 3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

 ここの箇所は、詩編95編7節から11節までの引用です。使われている表現は多少違うのですが、内容は同じ出エジプトで人々が神様に逆らった出来事です。そして詩編の作者が語っていることを、聖霊が語っていることとし、聖霊がこう言っているというのです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはいけない。」すなわち、神様の声を聴いたなら、心を開いて受け入れ、御心に従いなさい、と言う事です。心をかたくなにして、受け入れなかったのはイスラエルの先祖たちです。そして、受け入れないばかりか神様を試み、験したというのです。その事を神様は怒って誓い、『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と、言ったというのです。そして憤ってこう言ったのです。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』この様に、神様は、イスラエルの民にどんなに恵みを与えても、かたくなに信じようとしないイスラエルの民を憤っていたのです。だから、イエス・キリストが現れた今、今日神の声を聴いたなら、心をかたくなにせず、受け入れなさいと言っているのです。

 そして、同じ信仰を持つ兄弟達にこのように強く勧め励ましました。12節から14節です。

ヘブ 3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。

ヘブ 3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――

ヘブ 3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――

 ここでは、生ける神様から離れないようにと言う事が強く勧められています。そして罪に惑わされないように、日々励まし合いなさいと言っています。そこでは、だれ一人罪に惑わされないように、今日の内に励まし合いなさいと言います。この背景には、教会を襲っている激しい誘惑により、教会を離れ、信仰を離れていく人々がどんどん出てきているという危機感が現れています。そしてそのような誘惑に陥らないように、最初の確信を最後まで持ち続けて、キリストに連なるものとなってほしいという願いが込められています。

 なぜこの手紙では、出エジプトの時のユダヤ人のかたくなさや反抗を何度も繰り返して語るのでしょうか。その事から何を思い起こさせようとしているのでしょうか。15節から19節です。

ヘブ 3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」

ヘブ 3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。

ヘブ 3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。

ヘブ 3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。

ヘブ 3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

 この3章では、心をかたくなにしてはならないと言う事が、3回も語られています。8節、13節そしてここの15節です。そして心をかたくなにしてしまった、ユダヤ人たちがどうなったのかを、出エジプトの出来事を通して語りかけています。それは、きっとモーセがユダヤ人たちをエジプトの奴隷状態から、導いて、乳と蜜の流れる約束の地カナンに導こうとしたときの、出来事が、今イエス様が、人々の罪に縛られて奴隷状態になっているところから導いて、約束の地、神の国に導こうとしているときに、起こっている信仰者のかたくなな思いととても似ているからなのだと思います。だから、モーセが導き出した、出エジプトの時の出来事を思い出して、決してかたくなになってはいけないと言っているのだと思います。そしてここではその出エジプトの時のかたくなさが、何をもたらしたのかを語っているのです。        それではここの聖書の箇所に聞いてみましょう。まず最初に、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」という出エジプトの時の言葉が語られました。そして誰が神様に反抗したのか、それはエジプトを出た全員ではないか、と言いました。そして神様が40年間も憤られたのは誰に対してか、と言うと、罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったかと言いました。これらの事はいったい何を言おうとしているのでしょうか。それは、今、神の国に入り救われようとしている者たちが、心をかたくなにして、御言葉を受け入れようとしないで去って行こうとしていることを言っています。そして、罪を犯して死骸を荒れ野にさらすものとは、罪の奴隷から逃れようとして出て来たけれども結局罪を犯して、約束の地、神の国に入ることの出来ないもの達に神様は憤られていると言う事を言おうとしているのではないでしょうか。そして結局、神様の御言葉に従わず、かたくなでいる者たちは安息にあずかることが出来ないのだと言う事を言っているのです。出エジプトの時の民のかたくなさが、今イエスキリストによる救いを得ようとしている時の、人々のかたくなさにとても似ていたのです。

 へブル書は、イエス様の導きを、モーセの出エジプトに例えて、その時に心をかたくなにして、荒れ野に倒れてしまったのはどうしてなのかと言う事を思い起こさせ、このイエス様の新しい罪からの脱出に関しても、神様の御心に心を開き、決してかたくなになってはいけないと語り続けているのです。出エジプトの時と同じように、いろいろな罪の誘惑があり、教会からそして信仰から離れていくものを憂えてこのように言っているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちはあなたの恵みや導きを忘れて、いつの間にか心をかたくなにし、自分中心の生活をしようとしてしまいます。神様がいなくても大丈夫という思いを高ぶらせてしまいます。ですが、そこには滅びがあるだけです。どうかイエス様が私たちに与えて下さったその、恵みを、心を開いて受け入れ、受け取らせてください。あなたと共にあることがどんなに素晴らしい事なのかを思い起こさせてください。どうかあなたの恵みが、すべての人々と共にありますように。

この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ヘブライ人への手紙)>>

◆イエスはモーセにまさる

ヘブ 3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブ 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。

ヘブ 3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。

ヘブ 3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。

ヘブ 3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、

ヘブ 3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

◆神の民の安息

ヘブ 3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

ヘブ 3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。

ヘブ 3:9 荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』

ヘブ 3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

ヘブ 3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。

ヘブ 3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――

ヘブ 3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――

ヘブ 3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」

ヘブ 3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。

ヘブ 3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。

ヘブ 3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。

ヘブ 3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。