賛美歌481救いのイエスの聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌482わが主イエスいとうるわし
起
今日の聖書の箇所では、私たちに与えられた救いがどれほど大きなものであるかを語り、その救いを与えられる方がどの様な方なのかを語っています。ですがこのヘブライ人への手紙の読みにくさは、この手紙を読む人たちにとって、普通の省略の仕方や、表現の仕方が、例えば職人たちが、自分たちのグループにしか通じないような言葉の省略の仕方や表現を用いているようなことがあるからです。それは今の若者言葉が、年寄りには理解しにくいようなものです。そこを乗り越えられれば、この手紙は深い真理を教えてくれているものだと思います。躓きながらも少しずつ理解していきたいと思います。
承
今日の聖書の箇所は、だから、という言葉で始まります。1節です。
ヘブ
2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
この、だからは、前の章の1章14節の、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされたのではなかったですか。」という言葉を受けています。でもこの言葉の意味は通して読んでもあまり良く分かりません。これにはこの天使と言う言葉に関する背景を理解しなければなりません。というのも、ここの箇所で天使と言う言葉が多用されているのは、イエス様は、天使の一人であるという、異端的な考えがあったからです。それに反論するような形で語っている言葉なので、ここでの言葉の意味は、ある人たちはイエス様の事を天使の一人だといい神の子ではないと言っているが、天使達は皆人間に奉仕し、仕えるために遣わされているのではないか。でもイエス様はそうではなくて、神の子とされ、礼拝の対象とされ、万物を創造されて、支配なさる方である。だから天使とは全く格の違う方である。という意味の事を受けて、だから、と言っているのです。
そして、この箇所では、だから、私たちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません、と言います。聞いたこととは福音の言葉です。その福音の言葉に注意を払いなさいと言うのです。そうでないと、イエス様は天使のようなものだという異端的な教えに押し流されてしまいますよと言っているのです。
そして、旧約の言葉と、新約の言葉を比較してこう言っているのです。2節から4節です。
ヘブ
2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、
ヘブ
2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、
ヘブ
2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
ここで、天使達を通して語られた言葉とは、旧約の律法の事です。十戒と理解してもいいのです。その律法に対して、違反したり、不従順であったりすると当然のように罰を受けるのですが、それならば、私たちが受ける福音の大きな救いに対して無頓着でいたならば、どうして罰を逃れることができるだろうか、と言う事を言っているのです。律法に従わないことよりも福音に従わない方が大きな罰を受けるだろうと言う事です。福音は律法よりも大きなものだからです。この救いの言葉は、主が最初に語られ、次にその言葉を直接聞いた人々が、私たちに語り、確かなものとして示されたのですと言っています。すなわち、福音の言葉は、また聞きではなく、直接イエス様から聞いた者たちが、直接次の人達に語り聞かせてきた言葉だと言う事です。そしてその事を、神様もまた、いろいろな不思議な業や、奇跡や聖霊の賜物によって、確かなものとして証して下さっているのだというのです。
転
次に、この救いを与えて下さる、イエス様とはどのような方なのか、そして救われる人間とは何者なのかと言う事を、旧約聖書の言葉を引用しながら、説明しています。5節から9節です。
ヘブ 2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
ヘブ 2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
ヘブ 2:7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
ヘブ 2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
ヘブ 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
5節もわかりにくい所ですが、ここで語られている、「私たちが語っている来るべき世界」とは福音の神の国の世界です。この世界の到来を神様は、天使達に伝えさせるのではなく、イエス様を通して伝えたと言う事です。ここでも、イエス様は天使の一人だという説に反論しているのです。すなわち天使とイエス様とは全く別であると言う事です。だから、福音の世界を異端者たちが言うような天使達には語らせなかったというのです。
そしてそのことを旧約聖書の詩篇の言葉を用いて説明しているのです。ここで言っているある個所とは、詩篇8編の5節から7節です。ちょっと表現が違うので、引用してみると、詩篇ではこうなります。
詩 8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
詩 8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩 8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
ここで人の子と言う言葉が出てきますが、新約聖書ではよく人の子とはイエス様を指していることがあります。ですが、ここ詩篇では人の子とは単に人間の事を指しています。ここで詩編の作者は、すべてを創造された方が、その御心に留めて下さる人間とはいったい何者なのでしょうか、と言っています。そしてその人間を神様にわずかに劣るものとして作り、栄光を与え、神様が作られたものを治めるようにと、その足元に置かれたというのです。人間はとても小さなものですが、神様によって御心に留められて、神様が作られたものを管理するようにとその働きを与えられたというのです。ところが、このへブル書ではこの人の子と言う言葉を、イエス・キリストと読み替えているのです。するとここの箇所は、神様はイエス様を、天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました、となってしまうのです。総てのものはイエス・キリストのその足のもとに従わせられているというのです。ですから、「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません、という言葉が出てくるのです。この言葉の意味は、すべてのものがイエス様に従うはずなのに、私たちは未だにすべてのものがこの方に従っている様子を見たことがありません、と言う事です。これは、現在はまだすべてのものが従っていないが、終末の時にはそうなるだろうと言う事なのです。
そこで、そのことをまだ見てはいないが、自分達が見て知っているのは、次のことだというのです。それは、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエス様が、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。と言う事です。自分たちが見て知っているのは、私たちの罪のために死んでくださったイエス様のことだと言っているのです。そしてイエス様は栄光と栄誉の冠をさずけられたというのです。その事をさらに詳しく、こう語っています。10節から13節です。
ヘブ 2:10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
ヘブ 2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
ヘブ 2:12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、
ヘブ 2:13 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
どうして救いの創始者であるイエス様が数々の苦しみを受けなければならなかったのかと言う事が書かれています。もしイエス様が何の苦しみも受けずに、ただ福音だけを説いていたならば、イエス様は決して私たちの心の中には入り込んでこなかったでしょう。イエス様は別世界の人となってしまうのです。ですがイエス様が、私たちと同じように、苦しみを味わわれたと言う事で、私たちととても近い存在になったのです。それが完全なものになったという表現となっているのです。ですからイエス様が苦しみを受けられたのは、救いの創始者として、ふさわしい事だったというのです。
そして、人を聖なるものとなさる方、すなわちイエス様も、聖なるものとされる人たち、すなわち信者たちもすべて一つの源、それは神様の下から出ているので、イエス様は信者たちを兄弟と呼ぶことを恥とはしなかったというのです。皆神様の下で兄弟となり、イエス様はその長子となり、私たちはその弟や妹になったのです。ですが、神であられるイエス様はその事を否定することなく、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言って受け入れて下さったのです。すなわち、私たちを兄弟としてくださったのです。そして、その事を神様に信頼しますと言い、「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われて、私たちが神様のもとにあってイエス様と兄弟であることを宣言してくださったのです。
そしてそのイエス様が、人間の一番の恐怖となっている死に打ち勝たれたことをこの様に語りました。14節から18節です。
ヘブ 2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
ヘブ 2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブ 2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
ヘブ 2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
ヘブ 2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
イエス様は、私たちが血と肉とを備えた肉体を持っているので、同じようにイエス様も肉体をまとわれました。それは私たちと同じになり、私たちを救うためなのです。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった人間たちを解放なさるためだというのです。どうして死ぬことが悪魔を滅ぼし勝利することになるのか不思議に思う事ですが、これには復活という前提があるのです。イエス様は一度死に復活することによって死に勝たれたのです。そして同じように死の恐怖に縛られている私たちをも、その復活の希望に生きることにより、死の恐怖から解放されたのだというのです。イエス様が世に現れたのは、天使達のためではなく、人間を救うために現れたのだと言う事をここでも強調しています。当時の天使崇拝を否定するためです。そしてイエス様が苦しまれた理由をもう一度ここに言います、それは、「イエス様は、神様の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と言いました。イエス様が苦しまれたのは、私たち人間と同じようになり、同じように苦しみ、その苦しみの中から憐み深い同情をもって、大祭司として、人々の罪を贖って下さっているのだというのです。その苦しみを共にすることがなければ、私たちを救うことが出来ないので、人となって共に苦しまれたというのです。イエス様の苦しみを通して、私たちはイエス様と共感し一つとなることができるのです。
結
今日の聖書の箇所は、最初は読んでいてぴんと来ないところがたくさんありましたが、だんだん理解できるようになりました。イエス様がなぜ苦しまれたのか、なぜ死なれたのかを良く学ぶことができました。私たちがイエス様の苦しみを通して一つとなれることを教えられました。遠い存在ではなくとても身近な存在になるのです。この様な憐みを与えて下さったイエス様に感謝いたします。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたは御子イエス様を、人間と同じ姿にして世に遣わし、イエス様が遠い存在ではなく、私たちと同じ苦しみを味わってくださる、救い主であることを教えてくださいました。イエス様はその死をも恐れることなく復活によって、その死を滅ぼし、私達もまた、その希望に生きることを与えてくださいました。この様な希望を与えてくださいました。主イエス・キリストに感謝いたします。どうかこれからも、イエス様の苦しみと死と復活の希望とに思いをいたすことができますように導いてください。イエス様の憐れみに感謝いたします。どうか全てを委ねて歩むことができますように。この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
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◆大いなる救い
ヘブ 2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
ヘブ 2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、
ヘブ 2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、
ヘブ 2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
◆救いの創始者
ヘブ 2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
ヘブ 2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
ヘブ 2:7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
ヘブ 2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
ヘブ 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
ヘブ 2:10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
ヘブ 2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
ヘブ 2:12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、
ヘブ 2:13 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
ヘブ 2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
ヘブ 2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブ 2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
ヘブ 2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
ヘブ 2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。