家庭礼拝 2018年5月16日テトス1:1-16 クレタでのテトスの仕事

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起 

今回の、テトスへの手紙もまた、前回のテモテへの手紙と同じように牧会書巻と言われるものです。教会の指導のために書かれた書簡です。パウロはテモテやテトスに自分の代わりに、教会の世話をするように色々な教育をしたのです。前回のテモテの場合にはエフェソの教会の世話をするように指導していました。今回のテトスの場合には、クレタに残してきて、その教会の世話をするように指示しているのです。クレタというのは地中海の中にある島で、ギリシャからもトルコからもアフリカからも同じくらいの距離にある、地中海の真ん中の大きな島です。ですから地中海交通の要衝にあるわけで、ここにはかつて古代文明が栄えていました。いわゆるミケネー文明と言われるもので、クノッソス宮殿などで知られています。この島には都市がいくつもできており栄えていましたが、道徳的には退廃していました。この手紙の中にもあるように、クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠惰な大食漢だ、と言われていました。ですからこのクレタでの牧会は困難を極めたのです。その働きをしたのがテトスです。テトスもまた、テモテと同じようにギリシャ人です。そしてパウロから洗礼を受けて、パウロやバルナバと一緒にエルサレム会議にも同行したような、重要な働きをした人です。

ですがこの手紙はパウロが直接テトスに、この手紙を書いたというよりは、パウロの死後に2世紀ころパウロの弟子のひとりが、テモテとパウロの名を借りて、広く一般の教会の指導を目的に書かれたものであるというのが、今日の定説になっています。テモテへの手紙もまた、同じような目的で、後世に書かれたものと言われています。ですからこの牧会書簡と言われるものは、歴史的事実を確認するためよりも、キリスト教信仰の牧会的考え方を理解するために、読んだ方が良い書巻なのです。

パウロの手紙の最初はいつものように、自己紹介から始まります。自分が何者であって、この事を語る権威があるのかをまず、伝えるのです。1節から3節です。

テト 1:1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。

テト 1:2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。

テト 1:3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――

 パウロはまず、自分の事を、神の僕と言いました。これは旧約聖書でよく使われる言葉です。それでいて、自分をイエス・キリストの使徒と語り、神様とイエス様を同列においているのです。そして、自分が神様に選ばれた使徒である目的をこの様に語りました。それは、神様に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです、と言いました。信心と言うのは牧会書簡によく使われる言葉で、常に生活に裏付けされた信仰を言います。すなわち信心と言うのは、生活に現れた信仰と言っていいでしょう。その信仰が真理の認識に至るように導くのが、パウロの使命であると言っているのです。

その真理の認識とは、信仰とは永遠の命の希望に基づくものであると言う事です。その永遠の命を神様はすでに永遠の昔から約束してくださっていると言っています。そして、神様は定められた時に、宣教者を立て、その御言葉を宣べ伝えるようにしたのです。そして私はその宣教を神様から委ねられて宣教しているのですと言っているのです。

そして、自分の紹介を終えた後で、差出人であるテトスに、祝福の挨拶をします。4節です

テト 1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

 ここではパウロはテトスに対して、信仰を共にするまことの子テトスへ、と書いています。自分が洗礼を与えて、新しい命に生まれた子テトスと言う意味で、まことの子テトスと呼んでいるのだと思います。この呼びかけにはパウロの、一方ならぬ思いが込められているような気がします。ちなみにテモテへの手紙ではどう書かれているかというと、第一の手紙では、同じように、信仰によるまことの子テモテへ、となっており、第二の手紙では、愛する子、テモテへとなっています。パウロが若いテモテやテトスに、将来の牧会を託している気持ちが現れてきます。

 さて挨拶が終わり、本題に入ります。本題はいかに教会を立てていくかです。5節から6節です。

テト 1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。

テト 1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。

 まず、テトスに指示したことは、クレタにある町々の教会に、教会を治める長老を立てることです。テトスと言う人は、パウロのようなカリスマ性はありませんが、事務処理能力はあったようです。ですからいろいろな仕事の整理や、教会ごとに長老を立てていくような仕事を命じられました。そして長老を選ぶときの条件は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはならない、と言う事でした。ここで言われていることは、信仰が深く、聖書にも深い理解のある人、などと言う優秀な特別な人のことではありません。それは、家庭がしっかりしており、信仰的であると言う事です。一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩したり神様に不従順であるようなことはないと言う事です。家族全員が、信仰をもって正しい善良な生活をしていると言う事です。それが長老になるための条件なのです。クリスチャンにとって、家庭がいかに大切かを思います。また、前にも言いましたが、この時代にあって、一人の妻の夫であるというのは珍しいのです。この時代は夫は幾人もの妻を持つのが普通だったのです。一夫一婦制はクリスチャンが広めたようなものです。

 まず家庭が信仰によって円満であると言う事が基本的な事であり、そのうえで非難される点がないとはどのような事かを説明しています。7節から9節です。

テト 1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、

テト 1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、

テト 1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。

 ここで監督と言うのは、先ほどの長老と言う言葉とほとんど同じことです。そしてその監督と言うのは、神様から任命された管理者である、と言う事です。この世的には、人によって任命されたとしても、霊的には神様から任命されていると言う事です。ですから非難される点があってはならないのです。監督が非難されることは、神様が非難されると同じなのです。非難される点というのは、具体的に言うと、わがままで、怒りっぽく、酒におぼれやすく、乱暴で、恥ずべき利益をむさぼるような人です。言い換えてみれば自己中心的で感情的な人です。この中で恥ずべき利益をむさぼるとは、信仰や教会を利用して、金儲けをする人です。長老という立場を利用して、利益を得ようとする人です。その様な事は恥ずべきことであり、監督や長老にはふさわしくないと言う事です。

 監督にふさわしい人と言うのは、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人です、と言っています。この言葉で、一番最初に大切な事として、客を親切にもてなすと言う事が出てきます。当時の世界は、ローマの世界統一によって平和になり、旅人がたくさん増え、特にユダヤ人たちは世界中を旅している人々がたくさんいたのですが、その人たちが泊まる宿と言うのがとても少なかったのです。ですから、そのような人のために家を解放して、泊めてあげるような行為がとても大切に思われていたのです。しかもその様に家を解放するようなことはとても難しかったのです。何時その人が強盗にでもなるかわからなかったからです。ですから、教会の長老になる人は率先して客を親切にもてなすような心の広い人でなければならないと、パウロは言っているのです。その他にも、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人、でなければならないのですが、これは信仰を持っている人でないとなかなか難しいのです。信仰を持つというのは、信仰を生活の中で生きる、と言う事です。私たちは学者になるつもりではないのですから、生活の中で信仰を表現していくものなのです。それは神様の御前で行う事なので、自然とその行為は、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人、と言う事に一致してくるのです。この様な事が出来なくては、人々を指導したり、反対者を論破したりすることができませんよ、とパウロは語っているのです。

 ここで、反対者を論破したりする、と言う事がどういうことなのかをパウロは詳しく語ります。10節から14節です。

テト 1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。

テト 1:11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。

テト 1:12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」

テト 1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、

テト 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。

 パウロは、教会の中に不従順なもの、無益な話をするもの、人を惑わすものが多くいると言っています。これはどういう事でしょうか。不従順な者とは、イエス様が教えた言葉に対して不従順で、イエス様に従おうとしない人たちのことです。無益な話をする者とは、グノーシス的で異端的な話に夢中になる人たちでで、理屈ばかりで、根拠のない仮定の話に夢中になっている人たちのことです。人を惑わすものとは、自分達がそのような話をするだけでなく、他の人にもその新しい説を教えて惑わして、イエス様から離れさせようとする人のことです。どのような人々がそんなことをするかというと、特に割礼を受けている人たちの中に、そういうものがいるとパウロは言っています。割礼を受けている人とは、基本的にユダヤ人です、そのユダヤ人の方が、そのグノーシス的な異端とユダヤ教を結び付けて、イエス様の教えよりも、こっちのほうが正しいよと言って、人を惑わすものがいるのです。そういう人たちを、パウロは沈黙させなければならないと言っています。その様な人たちは、いろいろな知識を振りかざして、それを教えると言って、お金をもらって教えていたりしたのです。このように、パウロは信仰を金儲けの道具にしている人たちのことを言っているのです。その様な人は、教会に属する各家庭をめぐり、そのようなところからお金をもらって、知識を切り売りするようなことをしていたのです。そしてその仮定の信仰を教えて、お金をもらうだけでなく、その初めの信仰をもダメなものにしてしまい、家庭を崩壊させるのです。

 クレタ人と言うのはとても、扱いにくい人種だったようです。いろいろな国々の人が集まって、いろいろな交易をしているところですから、だましたり騙されたりと言う事が多くて、口先だけで、付き合う人が多かったのだろうと思います。ですから、クレタの預言者の中には、「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」という人さえいて、この言葉は有名になっていたようです。それに対して、ユダヤ人たちは、旧約聖書と律法をもって高い倫理性を持っていました。嘘をついてはならない、悪いことをしてはならないと神様の前で、いつもその戒めを守っていたのです。ですからクレタ人とユダヤ人とは両極の人種と言ってもいいかもしれません。

 パウロはその事について、さらにこう言っています。13節から16節です。

テト 1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、

テト 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。

テト 1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。

テト 1:16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。

 パウロはこの、クレタ人はいつも嘘つきだという言葉を、この言葉は当たっていますと言いました。まるでクレタ人を非難しているようにも思えますが、そうではなくて、だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい、と言っているのです。クレタ人を正しい信仰の道に連れ戻しなさいと言っているのです。ユダヤ人たちが、イエス様の教えに背いて、イエス様が教えてもいない教えを説いているのに、惑わされないように導きなさいと言っているの

 その教えと言うのは、グノーシス的な教えで、それはこの世の物質はこの体も含めてすべて汚れているというものです。清いものは精神と霊のみで、物質的なものこの体もすべて汚れているという教えなのです。それに対してパウロが語っているのは、清い人にはすべてが清いと言っています。すなわち、心の清いものは体も物質的なものも含めて清くなると言っているのです。ですがそれを信じないで、汚れているものにとって、何一つ清いものがなくて、その知性も良心までも汚れていると、パウロは言いました。そして最後にパウロはこう言うのです。「こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。」この様な異端的な教えを教えるものは、自分達こそ神様を知っていると言って、人々にその間違った教えを教えているのです。ですが、パウロは、そのような神様を知っていると言っている者たちは、その行いでは神様を否定しているというのです。すなわち信仰の実がないのです。その実によってその信仰は知られるのです。そしてパウロはこのような者達は失格者だとさえ言っています。この事をパウロはテトスに知らせて、教会にふさわしい長老を立てて、教会を導くようにと言っているのです。

 テモテに続いてテトスの手紙を学び始めました。テモテへの手紙第一でも、3章に監督の資格、という小見出しの所で、どのような人が監督にふさわしいかをテモテに語っていますが、同じようにテトスにも、監督にふさわしい人はどのような人かを語っています。その中で、監督となるべき人は、まず、家庭がしっかりとしたクリスチャンホームでなければならないと言っています。キリスト教の信仰は生活の信仰なのです。哲学でも、教理でもないのです。その様な理屈で作り上げた方向に行ってしまったのがグノーシス信仰であり、異端とされたのです。私たちが日々の生活の中で信仰を現し、神の国に生きることを表現する事こそ、神様が求められていることです。それは知識によらず、力によらず、ただ神様を信じる信仰によるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。パウロがテトスに教えた、長老にふさわしいものとは、クリスチャンにとってふさわしいものであります。それは家庭を大切にし、信仰による正しい生活をする者であります。私たちの信仰もまた、知識によらず、力によらず、ただ信じて行う生活の中で、神様の栄光を現していくことができますように。信仰を持って生活する信心は、祈りの生活でもあります。どうかいつもあなたがそば近くにおられることを信じて、いつも祈って歩んで行くことができますように。いつもあなたを感じて歩むことができますように導いてください。この祈りを、主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇テトスへの手紙)>>

◆挨拶

テト 1:1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。

テト 1:2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。

テト 1:3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――

テト 1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

◆クレタでのテトスの仕事

テト 1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。

テト 1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。

テト 1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、

テト 1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、

テト 1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。

テト 1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。

テト 1:11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。

テト 1:12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」

テト 1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、

テト 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。

テト 1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。

テト 1:16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。