家庭礼拝 2018年4月25日テモテ第二3章1‐17 終わりの時の人々の有様
賛美歌456我が魂を愛するイエスよ聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌457神は我が力
起
パウロは、この世の終わりの時が来ることを語りました。そしてその終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさいと言いました。その困難な時期を過ぎたところに、本当の平安な神の国が来て、人々は憩うことができるのです。クリスチャンはこの最後の時の困難な時期を乗り越える覚悟をしなければならないのです。
何故クリスチャンはそんな苦しい思いをしなければならないのでしょうか。もっと楽な楽しい人生を歩めばいいではないかと思います。そのための宗教ではないのかと思います。ですがそのもっと楽な、楽しい人生とは本当の人生なのでしょうか。私たちの命が本当に生きている人生なのでしょうか。イエス様は神様の愛と、神様の義を伝えようとしました。その教えは、世の中の現実とは遠く隔たったものだったのです。その当時の世の中の現実とは、正しいものは損をし、悪いことをするものは得をし、愛を施す人は虐げられ、力で支配するものが栄えていたのです。これは今でもそうなのかもしれません。そんな世の中が正しいのか、そんな世の中で生きていても、本当の喜びが得られるのか、ある人たちはそう考えていたに違いないのです。その様な世の中に対して、神の義を行いなさい、神の愛を行いなさいと教えるのは世の中に対して挑戦状をたたきつけているようなものなのです。ですから、イエス様は世から憎まれ、葬り去られたのです。ですがイエス様の教えこそ正しいと信じる人たちもいました。その様な人たちは、たとえ世の中から迫害されても、イエス様のように、神の愛と神の義とを貫き通したい、と考えたのです。要するに世の中は罪の中に浸っていたのであり、その罪の中で生きていくのは嫌だ、その罪から救われて、神の国に生きていたい。たとえどのような苦しみ困難があっても、御国に生きることを求めたいと思ったのです。
イエス様は、愛が死に勝っていることを教えてくれました。それはたとえ死んでもその愛を貫くものはなおも生きると言う事です。その象徴が、イエス様の十字架です。愛は死に勝ったのです。それを身をもって示したのです。愛は死を超えたのです。ですからその命は永遠の命となったのです。もう死を超えてしまったからです。
今日の聖書のパウロの話は、その最後の時にやってくるいろいろな出来事についてです。この話だけ聞いていると、こんな恐ろしい目に合うならば信仰はすててしまいたいと思う人もいるのかもしれません。でもクリスチャンはその困難の向こう側に、本当の命、本当の愛、本当の平和を見ているから、その困難に耐えることができるのです。それではパウロの教えを聞いてみましょう。
承
パウロは、終わりの時が来る時にはその前に困難な時期があることを覚悟しておきなさいと言いました。いったいどんなことが起こるのでしょうか。1節から5節です。
2テモ
3:1 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
2テモ
3:2 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
2テモ
3:3 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、
2テモ
3:4 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
2テモ
3:5 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
パウロは、その困難な時と言うのは、「人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなる。」と言う事が起こると言っているのです。これはまるで現代の私たちの住んでいる世界ではないでしょうか。むしろパウロが生きていた時代こそこのような時代だったのではないでしょうか。別の言葉で言うと、その時代には、人々は利己的になり、お金に貪欲になり、嘘をつくようになり、己惚れており、神様なんか信じようとはせず、親の言う事も聞かず、感謝もすることなく、神様を恐れることもない、と言っているのです。今の時代でも90%くらい当たっているような気がします。
その他にもこのような事を言っています。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになる。」と言っているのです。こちらの方がもっと程度の悪いことを言っています。先ほどの悪いことは、どちらかというと自分自身に対する態度とか思いでしたが、今度の言葉は、隣人に対する思いとか神様に対する態度であって、それは隣人を傷つけ、神様を否定し、偽善的な生き方を示していると思います。この様な世の中は、イエス様の教える愛と義とを行おうとするとき、まるで反対の事を目指しているようです。ですから、クリスチャンはこのような世の中で生きることには困難を覚えるのです。そして世の人々からは、敵対視され、排除されようとするのです。世の人々にとって、クリスチャンの生き方は目障りなのです。その眠っていた良心が痛みだすのです。パウロはテモテに、このようなこの世的な生き方をする人々を避けなさいと勧めています。
そしてこの世的な生き方をしている代表的なものが、どのような生き方をしているかを語りました。6節から9節です。
2テモ
3:6 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、
2テモ
3:7 いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。
2テモ
3:8 ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。
2テモ
3:9 しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。
愚かな女どもをたぶらかしているものと言うのは、異端的な教えを教えている教師やまじない師などです。彼らは特に裕福な女性たちに狙いをつけて、その家に入り込み、たぶらかしているのです。取り澄ました金持ちの女性たちをそそのかして、この世的な教えを教え、彼女たちが喜ぶようなことをしているのです。それは信仰的に清い生活をするようにと言う事ではなくて、肉体は既に汚れているのだから、どのように扱っても良いのだ、精神のみが大切なのだと言って、この世的な快楽に身を置くことを楽しもうとするのです。すると愚かな女性たちはその考えに流されて、快楽的情欲的な罪を犯してしまうのです。ですからこのような人たちは、いくら学んでもその時だけで、決して真理の認識に達することができませんとパウロは言います。
パウロはそのような代表格として、モーセに逆らったヤンネとヤンブレという二人の名前を出しています。この二人の名前は旧約聖書に出ているわけではないのですが、モーセとアロンたちに対抗した宮廷魔術師たちなのです。モーセ伝説と言うものがあって、その中で、モーセに対抗した宮廷魔術師の名前として、よく知られていたのです。そして、愚かな女どもをたぶらかして、罪を犯させている者たちをこのヤンネとヤンブレと言う魔術師と同じように、精神の腐った人間で、信仰の失格者だと決めつけているのです。彼らはもうこれ以上はびこらないだろうとも言っています。なぜならば、彼らの無知がすべての人に分かるようになるからだと言いました。ヤンネとヤンブレの時もそうだったからというのです。
転
パウロの話は、このような異端者の非難から一転して、テモテへの勧めに移ります。人を非難する事よりも、何よりもまず、自分自身がどう生きるかが大切だからです。10節から13節です。
2テモ 3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
2テモ 3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
2テモ 3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
2テモ 3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
パウロはまず、テモテが如何にパウロに忠実に従って来たのかをたたえました。それは、あなたは、私の教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣って従ってくれたと言っているのです。ほとんどパウロのコピーのような生き方です。パウロは自分の迫害の経験である、アンティオキアから追放され、迫害から逃れるためにイコニオンから逃げ出し、リストラでは捕らえられ、石で打たれて、死んだものとして、捨てられた経験を語りました。それは聞くものにとっては恐ろしい経験で、クリスチャンになるというのはこんなに大変なのかと思わされる出来事です。この時テモテはまだ、パウロの弟子とはなっていなかったのですが、テモテの故郷の近くで起こったことですから、その話は聞いていたと思います。普通はそのような話を聞けば、そのような人からは距離を置こうとするのですが、テモテはそのような迫害と苦難をも厭わず恐れず、パウロに近づいて弟子となったのです。パウロは、自分はそのような迫害に堪えることが出来たし、主がそのすべてから私を救い出して下さったのだと、神様に栄光を返しました。そしてこの3章でパウロが一番言いたかったことを語りました。それは、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」と言う事です。キリストの信仰を持つものは皆迫害を受けるのだからそれを覚悟しなさいと言う事を言っているのです。これを裏返せば、迫害を受けないような信仰は、まだ本当の信仰ではないと言う事なのです。クリスチャンは世の罪と戦っているのです。ですから迫害を受けるのは当然なのです。私たちは自分の信仰が自分の救いのためだけだと考えがちですが、パウロの教えは、自分の信仰は世の救いのためにあり、そのために迫害に会うことを覚悟しなさいと言う事なのです。これが本当のクリスチャンの生き方なのです。そしてその迫害を与える悪人はというと「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」と語られました。悪人や詐欺師は、惑わすだけではなく惑わされて、自分を失っていくのです。詐欺師を惑わすのは同じ悪人や詐欺師であり又自分自身なのです。この様にして自己崩壊して、ますます悪くなっていくというのです。
そしてまた、パウロはテモテに信仰をしっかり守りそれから離れてはいけないことを語りました。14節から16節です。
2テモ 3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
2テモ 3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
2テモ 3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
2テモ 3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
パウロはテモテに、自分が学んで確信した信仰から離れてはいけません、と語りました。テモテにこのように言うほど、その異端の誘惑は激しく強かったのです。教会の危機だったのです。そしてテモテが学んだ信仰は、誰から学び、どのようにして親しんできたかを思い起こして、信仰にしっかりと立ちなさいと言いました。そして聖書の大切さを語りました。この聖書と言うのは、まだ新約聖書の出来ていない頃だったので、旧約聖書の事です。それでも、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と語っています。なぜならば、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」だからなのです。初代教会の時代は、このように、旧約聖書が大切な信仰を伝え、教え導くものでした。それはイエス・キリストを伝えるうえでもそうだったのです。そしてこのように訓練され、教育された人は、神に仕える人として、どのような良い業をも行うことができるように、十分に整えられると言っています。私たちの学びは、神様に仕える者として、どのような良い業をも行えるようになるために行っているのです。
結
このテモテの手紙第二は、信仰によって強くなりなさい、そして信仰をしっかりと守りなさい、そして、信仰を惑わし、覆そうとする勢力と戦いなさいという言葉に満ちています。それはまさに、戦場のような緊張感で語られています。このテモテのような、しっかりとした信仰者に対しても、その信仰から離れてはなりませんと言うほど、パウロは教会の行く末を心配していました。なぜならば、終わりの時には困難な時期がやってくるので、その覚悟をしっかりと持たせるためです。そして、キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます、とさえ言いました。信仰を持つことは自分だけの救いではないのです。世の罪との戦いなのです。ですから、信仰を持って歩む人はこの世との戦いにあって迫害を受けるのです。この事を、私たち信仰者もまた、しっかりと覚悟していないと、本当の信仰者にはなれないのかもしれません。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、パウロは、キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます、と言いました。私たちは自分の救いのみを考えていて、そのような迫害を受けることなど思いもよらないことでした。ですがイエス様は神の国と義にあって、愛が死にすでに勝っていることを示すために、十字架の死を選ばれました。私たちも、この世の罪と戦うことを畏れず、世の批判を恐れず、あなたの御心を行い、あなたの御国に住むものとなることが出来ますように導いてください。クリスチャンが迫害をも引き受けて生きるものであるとの覚悟を与えてください。
この祈りを、主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:◇テモテへの手紙二)>>
◆終わりの時の人々の有様
2テモ
3:1 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
2テモ
3:2 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
2テモ
3:3 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、
2テモ
3:4 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
2テモ
3:5 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
2テモ
3:6 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、
2テモ
3:7 いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。
2テモ
3:8 ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。
2テモ
3:9 しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。
◆最後の勧め
2テモ
3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
2テモ
3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
2テモ
3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
2テモ
3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
2テモ
3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
2テモ
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
2テモ
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
2テモ
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。