家庭礼拝 2018年2月21日テモテ第一3章1‐16 監督と奉仕者の資格

賛美歌404あまつましみず聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌405すべての人に

 

起 

今日の聖書の箇所は、教会の組織が整い始めて、その中での役割をどのように果たしていったらよいかという話になります。ですから、現代の教会政治にも関係してくる話です。その役割の中で、特に監督という言葉と、奉仕者と言う言葉が出てきます。これは今の教会で言うと、監督は長老であり、奉仕者とは執事の事です。聖書の中で、監督という言葉と長老と言う言葉が両方使われていますが、これは特に違いのある言葉ではありません。監督も長老も同じ意味でつかわれているのです。厳密に理解するとすれば、監督と言うのはその職務に基づいた呼び方であり、長老と言うのはその個人について呼ぶ呼び方なのです。例えば、学校で言えば教える人の事を、教師とか教職者と呼ぶか、もっと親しみを込めて先生と呼ぶかの違いのようなものです。ですがこのようなことが意識されてきたというのは、教会が組織的に形が出来てきて、その中で、正しい信仰を守り、効率的に、合理的に良い働きが出来るようにその役割を明確にし始めてきたのです。

監督と言うのは教会の指導者であり、御言葉を取り次ぎ、教会行政の判断を行う人々です。それに対して、奉仕者とは、もっぱら監督の定めた方針に基づいて、教会の慈善事業を実施している役割を持っているのです。その中で特に大事なのは貧しい人々に対する、食事の世話なのです。ですが、監督と奉仕者の区別はあまり厳密ではなく、奉仕者も御言葉を取り次いだり、監督と同じような事をしたりしますが、そのような働きが認められると、奉仕者は監督になっていくというステップを踏むようです。

今日の聖書の箇所では、パウロがその監督と奉仕者について、どのような資質を期待しているかが語られている大切な箇所です。

最初は監督について語られています。1節と2節です。

1テモ 3:1 この言葉は真実です。

「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」

1テモ 3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。

 3章の1節の初めは「この言葉は真実です」と語られていますが、これはその前の言葉2章の15節を受けていると言われます。それは「しかし夫人は信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」という言葉を受けて、この言葉は真実です、とパウロは語っているのです。子を産むことによって救われるというのは真実ですと言う事を言おうとしています。

 もう一つの理解は、この言葉は真実ですと言うのが、次の言葉「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」に掛かっていると理解する方法です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」という言葉は、パウロが語った言葉というよりも、その当時教会の中でよく使われている常套句のようです。ですから、わざわざかっこでくくって、よく言われているようにこの言葉は、真実です、と語っているのです。その意味するところは、監督をしたいと思う人は、お金でも名誉でもなく、ただ人に仕える良い仕事を望んでいるのだ、と言う事を言っているのです。

 この言葉を受けて、パウロは監督についてこのように言うのです。まず、監督とは非の打ち所がない人であると言う事です。能力や知識があるか無いか、財力や権力があるか無いかと言う事ではなく、人から非難されるような欠点を持たない人と言う事になるのです。次に監督は一人の妻の夫である、と言う事が言われます。現代であれば、そんなこと当たり前ではないかと思うのですが、当時は一夫多妻主義なのです。ユダヤ人たちも一夫多妻なのです。その当時の世界はすべて、一夫多妻主義だったのです。その中で一夫一婦制を持ち込んできたのはキリスト教なのです。それが今の世界では、全く当然のこととなりました。この教会が出来始めた頃、その教会の監督には、一夫一婦制が求められたのです。妻は一人であると言う事が求められたのです。これは当時としては、革命的な事なのです。そしてどんな徳目が必要なのかと言えば、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。」と言っています。監督に求められたのは、能力でも知識でもありません、徳があることが求められたのです。節制、分別、礼儀、親切、教えることが求められました。教会員に対して、粘り強く辛抱強く親切に教え導く人と言う事が求められたのです。この中で、現代ではあまりなじみがないのが、客を親切にもてなす、と言う事です。これは当時はまだ旅館のようなものがあまりなく、旅をするときにはどこに泊まるかと言う事が大きな問題だったのです。ですから、教会員たちはお互いに、教会員が旅をしてやってきたら、親切に宿を貸して、もてなすことを求められたのです。この事も監督の大きな働きだったのです。

 そして、それらの事をさらに具体的にこのように言っています。3節から5節です。

1テモ 3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、

1テモ 3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。

1テモ 3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

ここで言われた、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着しないというのは、その前に語っていた、節制し、分別があり、礼儀正しくすると言う事をもっと具体的な表現で繰り返し言っているのです。そしてそれらのことが最もよく表れるのが家庭であり、「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません」という言葉となるのです。さらに、自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうかと、自分の家庭を治めることと、教会の世話をすることが同等のものである事を言っているのです。すなわち教会は家族であり、監督はその父であり、教会を治める者であると言う事なのです。このように、教会の監督になる人々は、家庭において、しっかりした人でなければいけないと言っているのです。

さらにパウロは監督になる人に必要な事柄を言いました。6節と7節です。

1テモ 3:6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。

1テモ 3:7 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

 ここでパウロは急に悪魔を登場させます。監督が悪魔のさばきや、悪魔の中傷を受けやすい事を言っているのです。ここで悪魔とは、この世のことだと思います。この世の支配者は悪魔だからです。パウロは、監督は、信仰に入って間もない人ではいけませんと言います。どうしてでしょうか。信仰がまだしっかりしていない人は、指導者になったと言う事で、信仰から離れて自分の力を頼み高慢になってしまい、この世的な裁きを受けてしまいかねないと言う事を言っているのです。または、悪魔はもともと天使が神になろうという高慢をもったために、地に落とされて、悪魔になった裁きのことを言っているのかもしれません。高慢によってその様にならないようにと注意しているのです。それは信仰とは関係のない所で、この世的な裁きを受けるかもしれないことを言っているのかもしれません。

もう一つ、パウロは、監督は教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければならないと言います。どうしてでしょうか。監督の職務を務めるためには、教会の内にも外にも、敵が少ない方がうまく勤められます。教会の外に対してでも評判が悪ければ、中傷されたり、この世的な打算や利害のために思わぬ落とし穴に落とされる心配があるというのです。

監督の資格としてまとめると、監督になる人は、一人の妻を持ち、節制、分別、礼儀、親切、教えることに優れていて、家庭を良く治め、教会の内外で評判の良い、長く信仰を守っている人と言う事になるのです。これは私たちも目指すべき、人格と信仰です。

 次に、パウロは奉仕者すなわち今でいう執事の務めについて語ります。8節と9節です。

1テモ 3:8 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、

1テモ 3:9 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。

 これは奉仕者たちもまず品位がなければならないことを言っています。その品位と言うのは、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利益に貪欲でないことだというのです。これは監督の所で言われた、節制、分別、礼儀と言う事と同じだと思います。なぜ奉仕者に関してはこのような言い方になったかというと、奉仕者と言うのは、貧しい人々の食事の世話をすることが多いので、大勢の人をてなづけるために二枚舌を使ったり、一緒に大酒を飲んで羽目を外したり、自分の立場を利用して利益をむさぼったりする誘惑に駆られていたからです。そのような誘惑に陥らないようにするためには、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でないと、務まらないでしょうと言っているのです。

 パウロは、奉仕者を任命するのに誰でもよいと言う事ではなく、きちんと審査すべきであると言います。10節と11節です。

1テモ 3:10 この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。

1テモ 3:11 婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

 奉仕者を任命するときにはきちんと審査し、非難される点がなければ奉仕者の務めにつかせなさいと言いました。何か問題のあるような人をその務めにつかせてはいけないと言う事です。監督も奉仕者も、大勢の人々を指導しようとするときには、何が出来るかよりは、何も問題がないことを優先させたようです。そうでないと多くの人々を指導していくことができなかったのだと思います。次に婦人の奉仕者と言う言葉も出てきます。女性の執事のような務めを持つ人がいたのだと思います。女性の世話をするのに女性しかできないこともあったので、婦人の奉仕者と言うのが必要とされていたのです。この人たちも同じように品位のある人で、中傷せず、節制し、忠実な人でなければならないことを言っています。これら監督者、奉仕者、女性の奉仕者に共通に出てくる言葉は品位です。クリスチャンはこのように品位を求められて、その人格を形成していったのです。

 そして、ペトロは、監督者に対してと同様に、その家庭にあっても良き人でなければならないと言います。12節と13節です。

1テモ 3:12 奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。

1テモ 3:13 というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

 奉仕者も監督と同じように、一人の妻を持ち、子供たちを良く育て家庭を良く治める人なければならないと語ります。そして、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は良い地位を得ると言います。奉仕者の優れたものが監督者に選ばれると言う事だと思います。そして、信仰においても確信を得るようになるだろうというのです。この様な監督者や奉仕者の仕事を通して、信仰の確信に至るようになるのです。

 パウロは監督者と奉仕者について語った後で、教会とは何か、真理とは何かをテモテに語るのです。14節から16節です。

1テモ 3:14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

1テモ 3:15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

1テモ 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。

 いつもテモテを連れて行動していたパウロは、今回はテモテをエフェソ教会に残して、自分だけマケドニアの宣教に旅立ちました。それはエフェソ教会が、異端の教えにぐらつき始めていたので、心配してパウロの代わりにテモテを残していったのです。そのパウロが旅先から、私は間もなくあなたの所に行きたいと思いながら、この手紙を書いていますと言ってきました。ですが、帰るのが遅れるかもしれないので、その間どのように生活したらよいかと教えているのがこの文章です。それは神の家での生活です。神の家とは神の教会のことであって、真理の柱であり、土台である生ける神の教会だと言っています。当時の古代の建物には大きな太い柱が建てられることが多く、その柱の一番上には、何かを象徴する像がつけられることが多かったのです。パウロは教会はその柱に真理と言うものを高く掲げる存在であると言う事を言っているのです。そしてまた、その柱を支える土台はしっかりとした、ゆるぎない土台で作られていたので、教会とはそのようなしっかりとした土台を持つものであると言う事を言っています。パウロは、信心の秘められた真理は確かに偉大ですと言って、信仰のすばらしさをたたえた後で、当時の賛美歌に語られる言葉を引用するのです。それは、「/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。」という言葉です。多分当時のクリスチャンは、皆この賛美歌を知っており、その言葉の意味も知っていたのだと思います。その言葉には、キリストはすなわち救い主は肉となってこの世にあらわれて下さった。そして、その霊が神様の御心にかなう義なるものとされました。そして、この世に来られる前にもこの世に来られてからも天使たちに見守られてきました。そして、キリストの語る救いの福音は、異邦人の間で述べ伝えられて、今では世界中で信じられるようになりました。キリストは、十字架で死にましたが、神様の栄光の内に天に上られたのです。と言う意味の賛美歌を歌っていたのです。パウロは信心の秘められた真理とは、この讃美歌の言葉の中にあることを語っており、キリストがどのような方であり、自分達がその方に従って生きるものである事を、神の家では、この讃美歌をしっかりと覚えつつ生きることを教えているのです。

 エフェソの教会は、混乱し始めていましたが、パウロはテモテに教会をしっかりとした組織にするために、監督にはどのような人を選び、奉仕者にはどのような人を選んだらよいのかを語りました。もし間違った人が指導者として教会を運営するようになれば、教会は崩壊すると思ったからです。パウロが心配している異端者たちとはグノーシス主義者と呼ばれる、ギリシャの先進的な知識を取り込んだ教えで、複雑高度な教理で、信仰者を惑わしていたのです。ですから、パウロは、教会の監督者や奉仕者に選ばれる人はそのような、知識や能力にたけた人ではなく、人格と信仰に深い人を選ぶようにとテモテに勧めているのです。この様にして、教会は少しずつその組織の形を整えていくのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちは、教会生活にあって、非の打ち所の無いものとなって、節制、分別、礼儀、親切、教えることに優れていて、家庭を良く治め、教会の内外で評判の良い、長く信仰を守っている人となることを求められています。それは教会の中だけでなく、家庭においても教会外の生活においてもしっかりとした評判の良いものとなる必要があるのです。そのような品性を求められています。この様なものに自分は成れないかもしれないと思うのではなく、あなたの御力により頼み、祈りつつ、あなたの求める人格と信仰とに導いてください。あなたの恵みと導きとがありますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇テモテへの手紙一)>>

1テモ 3:1 この言葉は真実です。

◆監督の資格

「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」

1テモ 3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。

1テモ 3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、

1テモ 3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。

1テモ 3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

1テモ 3:6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。

1テモ 3:7 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

◆奉仕者の資格

1テモ 3:8 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、

1テモ 3:9 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。

1テモ 3:10 この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。

1テモ 3:11 婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

1テモ 3:12 奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。

1テモ 3:13 というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

◆信心の秘められた真理

1テモ 3:14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

1テモ 3:15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

1テモ 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。