家庭礼拝 2018年2月14日テモテ第一2章1‐14 祈りに関する教え

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起 

今日の聖書の箇所には、私たちクリスチャンがなすべき大切なことが書かれています。それは祈りについてです。キリスト教は祈りの宗教であるとさえ言われています。それに対して仏教などは瞑想の宗教であると言われます。祈りには祈る相手が必要です。それは神様です。キリスト教にはただ一人の神様がいます。そのただ一人の神様に対して祈ります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はそれぞれ同じただ一人の神様を信じていますが、他の宗教はほとんどが多神教です。いろいろな神様がいて、神様同士が喧嘩をしたりするので、祈る方はどちらの顔も立てなくてはならないので、いろいろ気を使って祈らなければならないし、願いを叶えていただくためには、たくさんの神様に祈る必要が出てきます。ですがキリスト教はただ一人の神様だけに祈るのです。それに対して仏教は、神様というものを考えていません。宇宙の真理というものを考えているのです。それを悟った人が仏であり、その悟りを開くために、瞑想するのです。ですから仏教では、本来は祈らないのです。でもお寺でも、和尚さんでも念仏を唱えて祈っているではないかというと思いますが、それは、浄土宗や、浄土真宗に代表される、阿弥陀仏に帰依して祈ると言う事をしているのです。阿弥陀仏がすべての人を救おうとして、成仏されたのだから、その阿弥陀仏の慈悲にすがって、私たちも救っていただこうという考えなのです。その慈悲にすがることが祈りとなって、いつの間にか御利益宗教的な面も出てきたのですが、阿弥陀仏は神ではなく、悟りを開いた人間なのです。すなわち仏です。

今日の聖書の箇所の大切なのは、キリスト教が祈ることを大切な事として教えているのですが、問題はどのように祈るかと言う事です。私たちはどのような祈りをしているでしょうか。多分家族のことや知り合いの事など身近な人のために祈り、自分の困難を取り除いてくれるように祈ることをしているのではないでしょうか。自分の嫌いな人のためや、会社の上司や、意地悪な先輩や、国の政治家のために祈ることはあまりしないのではないでしょうか。むしろ、旧約聖書の祈りの真似をして、あの憎い人を滅ぼしてください、とか、遠ざけてくださいと言う祈りさえするのではないでしょうか。今日の聖書の箇所の大切な事は、クリスチャンの祈りはそうであってはならないと言う事なのです。結論から言うと、全ての人のために、クリスチャンでない人のためにも、敵のためにも、いつもその人達に良いことを祈りなさいと言う事を教えているのです。ですからクリスチャンは喧嘩はしないのです。その代り祈るのです。苦しめられても復讐しないのです。その代り祈るのです。無関心にならないのです、全ての人のために善いことが起こるようにと祈るのです。この様にすべての人のために祈りをささげることがクリスチャンの務めであり、クリスチャンの働きなのです。ですから、私は伝道が出来ないとか、私は人に教えたり信仰を広めたりすることができないと言って嘆く必要はないのです。私たちの一番大切な事は、そのような力のない、弱いものである事を認めて、神様に祈りをささげることなのです。パウロは、私は弱い時ほど強いと言いましたが、弱いと認めた時、神様に祈りをささげることによって強くされるのです。神様の力が降りてくるのです。ですから弱いことを誇り、出来ないことを誇り、貧しいことを誇り、苦しいことを誇りつつ、神様に祈りをささげることはクリスチャンの大切な仕事なのです。私たちは何も出来ないと言って嘆く必要はありません。立派な信仰者ではないと言って落胆する必要はないのです。それを本当に受け入れて、祈る者にこそ真の力が与えられるのです。そして、祈るものを神様は受け入れて下さり、強くしてくださるのです。ではその事を教えているパウロがテモテに語る言葉に耳を傾けてみましょう。

今日の聖書の箇所は「そこで、」という言葉から始まっていますが、その前にパウロは何を言っていたのでしょうか。それは、教会の中で、異端的な事を語る人々に対し、テモテに雄々しく戦いなさい、と言う事を言った後の言葉に続く言葉です。2章の1節から3節です。

1テモ 2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

1テモ 2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。

1テモ 2:3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。

パウロの語ったことはとても不思議です。その信仰において間違ったことを語っている人々と戦うために、まず第一に行うことは「願いと祈りと取り成しと感謝を、全ての人々のためにささげること」だと言っているのです。それは、教会の仲間の人々だけではなく、敵として戦おうとしている人々のためにも、執り成しの祈りをし、感謝の祈りをしなさいと言う事なのです。すなわち、敵と戦う時に、敵を抹殺しようとするのではなく、その敵のために救いの執成しの祈りをし、叶えられたら感謝の祈りをしなさい、と言う事を言っているのです。それがテモテの戦いなのだというのです。すなわち、教会で異端的な教えを宣べ、神様を冒涜するようなことを言っている人たちに対して、どうかこの人たちが、神様によって、正しい信仰が与えられますようにと祈りなさいと言う事なのです。

パウロは、王たちや全ての高官のためにも祈りを捧げなさいと言っています。今テモテのいるところはエフェソですから、異邦人の土地にいるのです。当然その国の王たちや高官たちは異邦人であって、異邦の神々を信じている人々です。しかも弱い人や貧しい人のために祈ることはあっても自分よりもずっと強い権力のあるもののために祈るなどと言う事は、普通はしないものなのです。パウロはそのような、王たちや全ての高官たちのためにも祈りなさいと言いました。それはなぜかというと、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」と言う事なのです。王や高官の様なこの世の権力者たちもまた、神様に用いられ、命じられなければできない働きなのです。それが自分たちに気に入らないからと言って、敵対するのではなく、神様に用いられている人々として受け入れ、その人々の働きのために善いことを祈る生活をするならば、敵対関係ではなく、平穏で落ち着いた生活を送ることができるのです。総てのものが神様のもとにあることを信じながら生きることができるのです。ですからパウロは、そのようにすることが、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです、と語っているのです。

 そしてパウロは、神様とイエス様がどのような方であるかをテモテに語ります。4節から6節です。

1テモ 2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

1テモ 2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

1テモ 2:6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

 ここで、パウロは神様の事について大切な事を教えます。それは旧約の教えと決定的に異なることです。それは神様が、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる、と言う事を教えているのです。それまでのユダヤ人たちは、神様はユダヤ人だけのための神様であり、異邦人たちは皆滅びてしまえばよいと考えていました。ですからすべての人々が救われるなどと言う事は、全く考えられないのです。ですがパウロは、神様はすべての人が救われ真理を知るようになることを望んでおられるというのです。ですから私たちは、敵対する者に対してもその救いを願い、全ての人のために祈ることを望まれているのです。クリスチャンとは、どのような相手であってもその人の救いを願い、祈る人々なのです。

そしてパウロはこう言いました。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」神は唯一であるというのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の教えであり一神教と呼ばれています。日本の神様のように、八百万の神ではないのです。多神教の場合大抵それは、自然崇拝、先祖崇拝に繋がっています。そこには絶対的な神は存在せず、その中に強い神と弱い神がいるだけです。ギリシャ神話のゼウスは強い神様なのです。パウロはまず、神は唯一である、という基本原則をはっきり述べて、次に、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです、と言います。神様は人間と比べるとあまりに清い方なので人間に直接出会う事は出来ないと考えられているのです。ですからその仲立ちとするものが現れるのです。旧約聖書ではそれが天使として現れます。神様の意向を天使が伝え、私たちの願いも天使が神様に取り成して下さるのです。そしてその天使には数限りないくらいの段階があって、目的や状況によってそれをとりなす仲介者の天使は違ってくるのです。ですが、キリスト教においては、神様と人間の間の仲介者はキリスト・イエス様ただ一人であるというのです。私たちは、イエス様を通して神様に願い求め、イエス様を通して、神様のみ心を知るのです。そしてこの仲介者のイエス様は、すべての人の贖いとして御自身を献げられたと語りました。それは、イエス様が神様との仲介者であることを証しするものであるというのです。すなわち、イエス様はご自分が神様の仲介者であることを証しするために、十字架で命を捧げたと言う事です。

 パウロはテモテに、神様とはどんな方か、イエス様とはどんな方かを語った後、自分が何者なのかそしてあなた方はどうすべきかを語り始めました。まず、パウロについてと男の人についてです。7節8節です。

1テモ 2:7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

1テモ 2:8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

 パウロは自分の事を、イエス様を証しするため、そしてイエス様の証しする神様の事を伝えるために宣教者また使徒として任命されたのだと言いました。任命したのはイエス様です。そして、特に異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのだというのです。この事に関して、私は真実を語っており偽りは言っていませんと告白しています。

 パウロはさらに、使徒としてイエス様に任命された自分が、あなたたち男性に望むことは、男は怒らず争わず、清い手をあげてどこででも祈ることですと言いました。これはパウロが私たち信仰者一人一人に望んでいることです。それは清い手をあげてどこででも祈ることだというのです。この時代のユダヤ人たちは、立ったまま手のひらを前に出して、その手をあげて祈るという形をとっていました。座って祈ったりひざまづいて祈ったり、指を組んで祈ったりするのは、キリスト教になってからです。この手は神様に向かって差し出すので、水で浄められた清い手を上げたのです。パウロはクリスチャンならば、怒らず、争わず、どこででも祈りなさいと言っているのです。クリスチャンは怒りたいとき祈り、争いそうになった時に祈る人なのです。それほどクリスチャンにとって、祈ることは大切な事なのです。その祈りは、自分の為の祈りでもなく相手を無視するための祈りでもなく、相手を救うための祈りなのです。クリスチャンとはいつでもどこでも祈り続ける人たちなのです。パウロはこのように男性のためには一言だけ、一節だけで、「いつでもどこでも祈りなさい、」と言う事を教えましたが、女性に対してはとても長い、戒めを与えています。9節から15節までの7節です。

1テモ 2:9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。

1テモ 2:10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。

1テモ 2:11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。

1テモ 2:12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。

1テモ 2:13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。

1テモ 2:14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

1テモ 2:15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

 この当時、教会には女性の数が増えてきたのです。この当時の社会は大人になった男性だけが一人前の人間とされてきました。女、子供、奴隷、家畜は皆同じように、その家の主人の持ち物財産として扱われてきました。ですから、女性であっても一人の人間として扱ってくれる教会に女性たちはひかれたのです。それは富んでいるものも貧しいものも皆同じでした。今の教会でも女性が多い傾向にありますが、当時の教会でも女性たちはイエス様が女性を差別しないで受け入れてくれることを思って、教会に集まってきたのです。そして女性たちは教会内でも段々と力を強めていき、発言力も強くなってきたと思われます。その様な女性たちにパウロは当時の生活習慣も考慮に入れて、女性にふさわしい行動について特に教会でのありかたについて語っているのです。ここの文章では特に教会と言う事は書かれていませんが、これは教会の中でのありかたを語っているのです。

 パウロはこう言っているのです。女性は教会では、第一に、つつましい身なりをししなさい、第二に静かに従順に学び続けなさい、第三に教える人になってはいけない。つまり男性の上に立ってはいけない。と言う事を語ったのです。今から考えると、かなり封建的な教えと言えますが、当時の社会の習慣から言って、それが秩序を生むものでした。男性が偉い、女性が偉くないと言う事ではなく、女性は男性の次に来るように、神様からつくられているという秩序の問題でした。パウロは、創世記を引き合いに出して、人間はまず、アダムが最初につくられ、その次にエバが作られたと言ってその順番を言いました。そして次にアダムは騙されなかったが、エバは蛇に騙さて、罪を犯した、と言って、その罪に陥りやすい事を言いました。だから、パウロは男性が先であり、女性はそれに従うべきであると言っているのです。ですが女性にもよいことがあると言います。それは、女性は「信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」と言って、子を産むことの祝福を語っているのです。

 パウロは、テモテに教会が秩序を失いかけていることを語り、その秩序を整えるために戦いなさいと語りました。でもその戦いは祈りによる戦いでした。いつでもどこでも祈りなさい、全ての人のために祈り感謝を捧げなさい、と言う事、それがテモテの戦いなのです。そして教会の男性たちに対しては、男は怒らず、争わず、清い手をあげてどこでも祈ることができるようにと願い、女性たちには貞淑に男性に仕え、教会で目立つことをしてはならないと教えたのです。その様にして、なんとか教会の秩序を取り戻すために、テモテに良き働きをするようにと、励ましているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、今日の聖書から、私たちに委ねられている大きな働きは祈ることであることを教えられました。それは自分のために祈るだけでなく、全ての人のために祈る、執り成しの祈りでした。自分の身内や気に入った人のために祈るだけではなく、権力者や敵対する者、異邦人のようなもののためにも執り成しの祈りをささげることがクリスチャンの大きな務めであることを教えられました。私たちは祈ることによって成長するのかもしれません。その祈りは執り成しの祈りです。執り成しの祈りをささげることによって、私たちはイエス様に近づくことができ、イエス様に似たものとなっていき成長していくのだと思います。この御言葉に従って、多くの祈りがささげられますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇テモテへの手紙一)>>

◆祈りに関する教え

1テモ 2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

1テモ 2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。

1テモ 2:3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。

1テモ 2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

1テモ 2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

1テモ 2:6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

1テモ 2:7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

1テモ 2:8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

1テモ 2:9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。

1テモ 2:10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。

1テモ 2:11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。

1テモ 2:12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。

1テモ 2:13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。

1テモ 2:14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

1テモ 2:15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

1テモ 3:1 この言葉は真実です。