家庭礼拝 2018年2月7日テモテ第一1章12‐20 神の憐れみに対する感謝
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起
今日の聖書の箇所は、パウロが自分をどのようなものだと考えているのかが良く分かる箇所です。パウロは直接イエス様の弟子とはなることができませんでした。イエス様の十字架の前にパウロが出会った話はどこにもありません。その後の、ステファノがユダヤ人たちに捕らわれて、石打の刑で殺される時の、ユダヤ人たちの服の番をしていた時のことが使徒言行録にわずかに書かれているだけです。
その後のパウロは、このイエスの弟子たちを迫害する者の一人となって、誰よりも熱心にイエスの弟子たちを見つけては捕え、そうすることが神様に仕える正しい道だと思って歩んでいたのです。ですが、イエス様の弟子たちを追いかけてダマスコに行く途中に、パウロはイエス様に出会ったのです。その頃はまだサウロと呼ばれていたころですが、突然天からの光が彼の周りを照らして、サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聴いたのです。「主よ、あなたはどなたですかというと、「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすればあなたの為すべきことが知らされる。」という言葉を聞いたのです。この時から、パウロの改心が起こったのです。パウロはイエス様の弟子たちを迫害するものではなく、イエス様の福音を述べ伝えるものとなったのです。パウロは単にイエス様の弟子となっただけではなく、「イエス・キリストにより任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」と宣言するまでになったです。パウロはイエス様から、福音を述べ伝える使徒としての使命を与えられたというのです。
そしてパウロは、異邦人の国々を回り、イエス様の福音を述べ伝えて回るのですが、そのパウロを支えてくれる若者にテモテがいました。パウロはテモテをとても大切にし、信仰によるまことの子と、さえ呼んでいつもパウロの側でその宣教の働きの手伝いをさせていたのです。ですがこのテモテへの手紙を出した時はパウロとテモテは別々に活動することになったのです。パウロはテモテをエフェソに残して自分だけマケドニア州に出発したのです。テモテをエフェソの残したのには訳がありました。エフェソの教会はとても危険な状態にあったのです。パウロもテモテもいなくなると教会がどうなるかわからない状態だったのです。というのも教会の中に異端の教えをするものが現れ、教会をバラバラにしようとするものがいたのです。ですからパウロは、テモテがパウロの代弁者として、エフェソの教会で、正しい教えを伝えられるように、残したのです。ですが異端の教えを広めようとする者たちは強い力を持っていました。パウロはその異端との戦いに、雄々しく戦うようにとテモテを励ましているのがこの手紙なのです。
そして、パウロはテモテを励ます前に、いかに自分が神様の憐れみを受け励まされて来たかを、感謝を捧げながら、テモテに語っているのです。自分のようなものでさえ、このように憐れみを受けて強くされているのだから、テモテにもきっと神様の憐れみと強さが与えられるだろうと言う事を言おうとしています。今日の聖書の箇所は、そのパウロが、イエス様と出会う事によって、自分がどのようなものに変えられ、どのようなものとなったのかを語る場面です。私達もまた、イエス様と出会ってその様な者に変えられることを教えられる場面です。
承
では聖書から、パウロの言葉を聞いてみましょう。パウロはどのような人となったのでしょうか。12節から14節です。
1テモ
1:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
1テモ
1:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
1テモ
1:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
パウロはまず、私を強くしてくださった、と言う事をイエス様に感謝しています。パウロはイエス様と出会って強くなったのです。それまではどうであったかというと、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」と言っているのです。パウロは神様に仕え、律法を守って生きているつもりで、イエス様の弟子たちを迫害していたのですが、それは実は、神を冒涜し、迫害し、暴力を振るう者であったことに気が付いたのです。その時はパウロは信仰に自信がなかったのです。不安だったのです。自分が律法を守り切れず、神様に従いきれないことに不安を感じ弱いものとなっていたのです。それで強いものになろうとして、イエス様の弟子たちを迫害していたのですが、むしろそれはその弱さを強調するものだったのです。それがイエス様に出会って、そのような事をする必要のないこと、パウロはそのままで、赦され、救われるものである事を教えられて不安と恐れが消え、感謝と賛美に満たされるものとなったのです。それまでの罪はイエス様を知らない時に行っていたことなので、イエス様の憐みを受けて許されたと信じることが出来たのです。これがパウロの強さなのです。
それだけではなく、パウロを強くしてくださった方は、パウロをイエス様に忠実なものとみなして下さったと言うのです。この言い方には少し注意が必要です。忠実なものとしてくださったと言うのではなく忠実なものとみなして下さったと言っていることです。この事は、パウロ自身はまだ本当には忠実なものとはなり切れていないのにもかかわらず、忠実なものとみなして、イエス様の福音の宣教の務めを与えて下さったと言う事なのです。イエス様は自分を迫害するパウロを、知らずに行っていたこととして赦し、強くし、まだ不十分なものであるにもかかわらず、忠実なものとみなし、使徒として用いて、大切な使命につかせてくださった、と言う事を、感謝と感激をもって、テモテに告白しているのです。そして、今では 「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」と、その恵みの豊かさを賛美しているのです。
転
そしてパウロは、その恵みを与えて下さったキリスト・イエスをこの様に賛美するのです。15節から17節です。
1テモ 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
1テモ 1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
1テモ 1:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
パウロは最初に、「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」と語ります。この言葉は、初代教会の礼拝で、信仰告白などで唱えられた言葉でもあるようですが、イエス様自身もこの言葉を語っていることから、良く用いられる言葉となっています。良く知られている、ルカ福音書の31節と32節に「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」という言葉が、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う告白文になっているのです。ですから今の私たちの教会の礼拝でも良く聞く言葉です。特にこの牧会書簡と呼ばれる、テモテやテトスの書簡の中には良く表れる言葉です。パウロはこの言葉を語った後に、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と語るのです。聖書はこのように、自分達の悪い点や欠点を恐れもせずに公にするというところが普通の伝記や歴史書などとは違うのです。歴史の勝ち組の人達は、決して自分たちの悪いことを表には出さず、神格化するために立派な事だけを言うのですが、聖書はむしろ自分達の悪いことを語って、それでも神様は私たちを救ってくださったと、神様をほめたたえるのです。
パウロが、わたしは、その罪人の中で最たる者です、と語った背景には、自分が罪人であったことを決して忘れず、そのことを思い起こしつつ、そしてそのことを赦されたことを思い起こしつつ、神様に仕えていったことを思います。罪を赦されるというのは、もうその事を忘れて思い出さないようにすることではなくて、自分の罪を思い、赦されたことを思って、感謝して生きていくと言う事なのです。
パウロは自分が罪許されたことの中に、神様が与えて下さった使命を感じました。そのことがこの言葉となっています。「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」イエス様とパウロの関係、それは限りない忍耐をお示しになるイエス様と、イエス様を信じて永遠の命を得ようとしているパウロ、の関係が、福音を聞く人々の手本となるようになるために、自分は生かされているという使命を感じていたと言う事なのです。そこには、自分のようなものでさえもこのように許されて、用いられているという感謝の気持ちが表れているのです。
そしてパウロの言葉は神様に対するこのような賛美となります。それは、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」という賛美になったのです。
このように、パウロは如何に神様に許され、用いられるようになったかをテモテに語り、現実の問題について、テモテが勇気をもって、神様に強められ、神様に用いられて奉仕することができるようにと語るのです。18節から20節です。
1テモ 1:18 わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、
1テモ 1:19 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
1テモ 1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。
まず最初にパウロはこのように語ります。「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」これは牧師などが正式に任命される時に行われる、按手の言葉であると言われています。按手とは手を置いて、任命と祝福とを与える儀式ですが、まさにこの時、パウロはテモテに按手を行って、テモテがエフェソの教会で、雄々しく戦っていけるようにと、祈っているのです。それほど、エフェソの教会での異端との戦いは困難なものを含んでいたのです。テモテへの按手は、預言によってなされているのだから、その予言に力を得て、雄々しく戦いなさいと言っているのです。その戦いは信仰と正しい良心とをもって行いなさいと言っています。信仰だけでなく正しい良心を持つことも大切であることを語っています。もし信仰的に行っていると思いながらも、良心に後ろめたさを感じるならば、それは何かが間違っているのです。狂信的な信仰者が、人を殺したり、盗んだり、放火したりするならば、信仰的に行っていると思っても良心に、咎めを感じるでしょう。その時は立ち止まって考えなさいと言う事です。
というのもある人々は正しい良心を捨てて、その信仰が挫折してしまった人々がいるからです。その人々の名前を実名を挙げて語っています。その人はヒメナイとアレクサンドロと言いました。この人たちは信仰を持っていると言いながら、神様を冒涜していたのです。すなわち異端の教えに浸っていたのです。パウロはこのような人々は正しい良心を捨てたために、信仰を忘れてしまったのだと考えているのです。人の言う事を真に受けるだけでは正しい良心は働きません。自分の良心に照らし合わせて、正しいものを見抜いていくことも大切なのです。パウロは、ヒメナイとアレクサンドロをサタンに引き渡したと言います。これはどういう事でしょうか。これは教会を破門したと言う事です。どのように指導しても、悔い改めようとしない人々は破門されたのです。教会は神の国であり、この世の世界はサタンが支配する国です。その神の国から追い出して、サタンの国に引き渡すことが、破門であり、サタンに引き渡すことであったのです。もともとの信仰が正しく受け継がれず、自分達の勝手な解釈や、その当時流行している考え方に基づいて、信仰を正しく理解しないものとの戦いを、教会はその後もずっと続けていたのです。その時に、このテモテのように按手されて、その使命を果たす人々が任命されていったのです。
結
パウロは、イエス様と出会って変えられました。パウロは自分が強くなった、忠実なものとなった、罪がなくなった、とは言いませんでした。すべて神様によってなされたことであり、イエス・キリストが私を強くしてくださった、忠実なものとみなして下さった、憐みを受けるものとなったと、神様の恵みを語っているのです。その神様の恵みを豊かに受けたものが、今度はテモテに、按手を与え、新しい使命のもとに、雄々しく戦うようにと命じているのです。信仰はこのようにして正しく受け継がれてきました。そして、自分勝手な解釈をするものはそこから、はじき出され、世の思いのままになっていくのです。パウロはすべての事が、神様によって行われることを、不思議な事として、感謝し、賛美しているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様とパウロが出会った時、そこに大きな変化が起こりました。迫害するものが述べ伝えるものとなりました。これは神様が行ったことで、私たちには不思議な事です。ですが私達もイエス様に出会うとき、そのような改心が行われ、自分の罪を悔い改め、その罪を思いつつも、神様を賛美して生きるものとされます。この様にパウロを改心させてくださった神様を賛美します。どうかこの世にあって、あなたの御国が支配するものとなりますように。御国に生きるものでありますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇テモテへの手紙一)>>
◆神の憐れみに対する感謝
1テモ 1:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
1テモ 1:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
1テモ 1:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
1テモ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
1テモ 1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
1テモ
1:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
1テモ 1:18 わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、
1テモ 1:19 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
1テモ
1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。