家庭礼拝 2018年1月31日テモテ第一1章1‐11異なる教えについての警告
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起
一年3カ月近くかかったルカ福音書が終わって、今日からテモテへの手紙が始まります。テモテへの手紙、Ⅰ、Ⅱと続けて、テトスへの手紙まで続けてやります。パウロの手紙が、ほとんど各教会にあてて書いた手紙ですが、このテモテとテトスへの手紙は個人にあてた手紙となります。それでも新約聖書の中に入れられたというのは、パウロの手紙だからというのではなく、その内容が、福音的であり、教会全体にとって、クリスチャン全員にとって、学ぶべき大切な内容があるからです。要するに個人的なものではなく普遍的な内容を持っているのです。
一方で、この手紙はパウロが書いたのではないと言われています。というのもこの三つの手紙は他のパウロの手紙とは用語や文体が明らかに違っていて、イエス様の時代から2~3代後の、2世紀初めに書かれたものではないかと言われています。そうするとこれは偽物の手紙と言う事になりますが、当時は実はそのような事はごく自然に行われていたのです。偉大な人や、自分の先生に成り代わって、手紙や本を書くと言う事はこの当時は良く行われていたことで、読む方もそのことが分かって読んでいるというのです。
それではなぜこの筆者はパウロとテモテの名をかたって、何を語ろうとしたのでしょうか。テモテというのはもともとガリラヤ生まれで、母はユダヤ人ですが、父はギリシャ人です。パウロはテモテをいつもそばにおいて、彼のために大切な仕事をさせていました。旅をするときにも何時も同行し、何かあった場合にはテモテをいろいろな教会に派遣して、パウロの手足として考えを伝えたりしていたのです。その様なパウロとテモテの関係なので、ほぼ一心同体と言っても良い関係なのです。ですから、パウロはテモテをユダヤ人として働けるように、割礼を受けさせました。パウロ自身はその事にはこだわっていなかったのですが、ユダヤ人たちを安心させるために、テモテにユダヤ人としての割礼を受けさせたのです。
この手紙は、読んでみると個人的な事はあまりかかれていないのです。むしろその当時の教会の置かれた様々な問題についてどのように対処したらよいかを書いてあるのです。そのことをテモテに諭すように書かれているのです。ですからこれらの書簡は牧会書簡とも呼ばれています。教会で信仰を持った人々にどのように信仰を導いて行ったらよいかを牧会的な立場で語っているからです。この時代は、初代教会の再臨を待つ熱い信仰の時代が終わり、2台目3代目になって、いろいろな考えを持つ信仰者が現れてきた時代なのです。その中には異端と目される教えを語る人たちも出てきました。その様な間違った教えに対して、どのように対処すべきかを語っているのがこの牧会書簡です。ある意味で、本来はその異端的な人々に直接攻撃的な文章で書くことも出来た筆者が、直接攻撃するのではなく、弟子のテモテにこういう考えは間違っていますよ、このようにしなさいと弟子を諭すようなことで異端者を間接的に批判しているとも考えられます。というのも、その異端者とは外にいる人々ではなく、同じ教会の中にあって異端となっている人たちなので、教会を分裂させることなく、うまく指導していく必要があったのです。
私はこの手紙の事を思うと、親鸞が語った言葉を弟子の唯円が書き留めた、歎異抄という本の事を思い出します。やはり世代が変わり始めるといろいろと違った考えや勝手な考え方をする弟子たちが出てくるもので、そのような異端的な考えを嘆いていると言った書き方をしているのが歎異抄です。そして嘆いていると言った格好をしながら、正しい教えを導こうという方法は、このパウロがテモテに教えさとすようにして、実は間違った考えを持つ人々を教えさとしているというのとよく似ているのです。
と言う事で、今日から学ぶテモテへの手紙は、ある程度信仰を理解し始めた信仰者が、素朴な信仰では物足りなくて、いろいろと自己流の信仰や、知的で格好い信仰に行きたがるのを、正しい信仰へと導くことを目的としているのです。
承
この手紙の書き出しはパウロの手紙がいつもそうであるように、挨拶から入ります。1節と2節です。
1テモ
1:1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1テモ
1:2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
パウロの手紙の何時もの書き出しですが、パウロは自分の事を使徒だと言っています。使徒というのは普通イエス様の直接の弟子だった、11弟子の事を言うのですが、なぜパウロは自分の事を使徒だというのでしょうか。それはこの手紙にも書いてあるように、「キリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」なのです。パウロはイエス様が直接パウロに現れて、使徒として任命したのです。それで自ら使徒パウロと語っているのです。これがパウロとは何者なのかという問に対する答えなのです。パウロは使徒なのです。すなわち、イエス様に直接任命され、派遣されて、イエス様の福音を述べ伝える使徒なのです。
そして相手のテモテとは誰でしょうか。それは「信仰によるまことの子」と語られています。パウロにとってはテモテはまことの子なのです。それは肉体的なまことの子ではなく、信仰によるまことの子、パウロが生み育てたまことの子なのだと言う事なのです。そしてそのテモテに、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」と祝福しました。パウロの祝福は他の手紙では、いつも「恵みと平和があるように、」と書くのが普通でした。ところがこの手紙にはさらに憐みという言葉が追加されているのです。この様な事は他の手紙ではなかったので、この手紙がパウロの手紙ではないのではないかと言われるゆえんなのです。ですが、この手紙が全く別の人が書いたのかと言う事に関しては、もともとあったパウロのいくつかの短い手紙を後の時代の人が、編纂して、一つのテモテへの手紙としてまとめ、読みやすくしたのではないのかという説もあるのです。
その様な疑問はあるにしても、この手紙が、パウロの思いを代弁して、書かれた、パウロ的な福音の手紙であることを人々は受け入れたのです。
転
さて、このパウロの手紙は挨拶が終わるといきなり本題にかかります。3節から5節です。
1テモ 1:3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
1テモ 1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
1テモ 1:5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
こう書かれていますが、それはパウロが旅に出る前に、テモテに頼んでおいたことを実行するようにと言う事でした。その頼んでおいたことというのは、いつもはパウロと一緒に行動するテモテに、エフェソの教会に留まって、ある人々にこの様に命じなさい、指導しなさいと言うことなのです。その人々というのは、信仰に関して、異なる教えを説いたり、作り話や切りの無い系図に心を奪われたりしている人々で、そのような事をしないように命じなさいと言う事でした。ユダヤ人はとても系図にこだわる民族なのです。自分が誰の子孫なのかをとても大切にしているのです。そのために、いかにも本物らしく語るために作り話をしたり、人の事を色々詮索したりして、本来の信仰から外れて行ってしまう人々がいたのです。むしろこれらの人々はユダヤ教では普通の人々だったのですが、新しいイエス・キリストによる信仰が与えられた今は、そのような事にこだわるのはむしろ信仰による神の救いの計画の実現に逆らうものであることを悟らなければならないと言う事なのです。そして、パウロの語っていることは、「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すもの」であることを教えていきなさい、とテモテを通して教会に語り掛けているのです。そして私たちが目指すものも、この「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛」なのです。
パウロの言うある人々というのは、その愛を目指すものとはならずにそこからそれて行ってしまっている人々だとと言いました。6節と7節です
1テモ 1:6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
1テモ 1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
この様に、そのある人々は愛を目指さず、無益な議論に夢中になり、自分の言っていることも主張していることも理解していないのに、さも難しい事を知っていると思い込んで、律法の教師でありたいとさえ思っていると、パウロは非難しています。ユダヤ教もそうでしたが、難しい律法の話や解釈を知っているという人は先生という尊敬されるべき人とみなされたため、競って、自分の方が良く知っているし偉いと言う事を主張しようとしていたのです。そのためには、難しい系図の話やそれに伴ういろいろな物語を作り話として語って、知らないものを軽蔑したり、教師のように傲慢にふるまったりしていたのです。ですがそれは正しい信仰の道からは外れた姿だったのです。
そしてパウロはテモテに、律法についてこう語りました。8節から11節です。
1テモ 1:8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
1テモ 1:9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1テモ 1:10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
1テモ 1:11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。
ユダヤ教は律法の宗教であり、こうしなければならないという戒律に縛られています。一方基督教は恵みの宗教であり、福音によって、自由が与えられています。ですが、キリスト教はユダヤ教から生まれたので、その過渡期にはいろいろな混乱があったのです。律法に関しても律法を守らなければならないという人々と、律法は守らなくても良いという人々がいたのです。パウロはどう考えていたかといえば、「律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています」と言っています。律法は正しく用いることが大切なのです。ユダヤ教の律法は、その律法を守れば救われると思っていました。そして人間よりも律法を優先したのです。ですがパウロは、「律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。」と考えているのです。人間は正しく生きているならば律法に縛られる必要はないのです。不法を犯すものや罪を犯すものが、その間違いに気が付くために用いられるべきものであって、その間違いに気が付いたならば、悔い改めて、神様の許しと恵みに委ねればいいと言う事なのです。それまでは律法に対して間違いを犯していたならば、自分の力でそれを修正しなければならなかったのです。ですが、福音の教えは、自分の力ではなく、神様に依り頼み、その恵みによって新しく生きるものとなりなさいと言う事なのです。パウロはその福音を述べ伝えるために、神様に用いられ、神様から使徒として、派遣されているのだと言う事なのです。
結
このテモテへの手紙は、個人的な手紙ではありません。パウロという、教会の指導的な立場を代表する人から、テモテという、その指導者に仕える、忠実な働き人を代表する人々のために、その福音の意味を解き明かす、指導書となっているのです。ですから、この手紙が本当はパウロによって書かれたものではなくとも、教会の大切な牧会的教科書として、用いられてきたのです。
そこで語られたのは、まず第一に、愛を目指す、福音に帰りなさい、系図や作り話の様な知識に惑わされてはいけないと言う事でした。世代を超えていくと、もともとの教えに物足りなくなり、本来の教えを失って、違った方向に行こうとする人々を戒めたものです。教会はこのような躓きを何度も繰り返しながら、正しい信仰を保って行ったのです。私たちの信仰も、虚栄のための信仰とならないように、注意しなければなりません。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは信仰に慣れると、いろいろと自分勝手な解釈をしようとする誘惑にかられます。このキリスト教はそのような誘惑や、異端との戦いを経て、正しい信仰を守ってきたすばらしい信仰です。どうか私たちもその信仰と福音の恵みによって、生かされていきますように。正しい信仰を守っていくことが出来ますように導いてください。
今日からテモテへの手紙を始めましたが、残りの福音書の手紙をも全部やり通すことが出来ますように。あなたがいつも守り導いてくださっていますことに感謝いたします。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇テモテへの手紙一)>>
◆挨拶
1テモ
1:1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1テモ
1:2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
◆異なる教えについての警告
1テモ
1:3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
1テモ
1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
1テモ
1:5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
1テモ
1:6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
1テモ
1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
1テモ
1:8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
1テモ
1:9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1テモ
1:10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
1テモ
1:11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。