家庭礼拝 2018年1月10日ルカ24章13‐35エマオで現れる

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起 

今日の聖書の箇所は、絵画などにも描かれている有名な箇所です。ですがそれを詳しく語っているのはルカ福音書だけです。今日はそのルカ福音書のエマオでイエス様が現れたことだけを取り上げて学んでみようと思っています。ではほかの共観福音書には書かれていないのかというと、マルコによる福音書にわずかに書かれているのです。それはマルコ16章の12節と13節のたった二節に書かれている出来事です。ルカでは22節にわたって書かれていますので、非常に短いです。何と書かれているか短い箇所なので読んでみましょう。こう書かれています。「そののち、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人達に知らせたが、彼らは二人の言う事を信じなかった。」という記述だけなのです。マルコではその二人の名前は書かれていませんが、ルカではその一人がクレオパと言う人であることが書かれています。そして、マルコでは二人が田舎の方へ歩いて行く途中で出会ったことが書かれていますが、ルカ福音書ではそれがエルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩いていたことが書かれています。そしてイエス様についても、マルコでは、「イエスが別の姿でご自分を現された」とだけ書かれていますが、ルカではそのイエス様が語った言葉や、食事をするときの様子や、イエス様であることに気が付いたことや、二人の弟子たちの思いがどのように変わっていったのかを詳しく書いています。この二人はイエス様に出会ったことを急いでエルサレムに戻って弟子たちに伝えるのですが、マルコでは、「彼らは二人の言う事を信じなかった。」と書いていますが、ルカ福音書では、既にイエス様は復活してペトロに現れたと言う事が話題になっており、そこに二人がイエス様に出会った話をして、その事を分かち合うことが出来たことを語っています。

ルカは、この福音書を書くときに、いろいろと調べて書いたと言っています。そして、この二人にも訪ねて、その時の話を詳しく聞いたのかもしれません。その人とはクレオパかもしれません。そうでなければ、どうしてこれほど生き生きとその時の状況を言い表すことができるでしょうか。きっとその二人は、イエス様との出会いをいつまでもはっきりと覚えていて、燃えるような心でルカに語ったのだと思います。そしてルカはそれを受け止めて共に信じたのだと思います。ですが、マルコに書かれている弟子たちは、その話はとても信じられないと思って、この二人の話は、ほとんど無視されていたのでしょう。というのも、クレオパというのは他のどこにも出てこない、表には現れない一般の信仰者だったからです。この様にルカはこの話を特別の思い入れで書いています。というのもイエス様が最初にその姿を現したのは、この名もない普通の信仰者にだったからなのかもしれません。

四つの福音書に、イエス様が共通に現れてくる場面は、弟子たちが集まって、いるとき、イエス様が現れて、弟子たちを派遣する箇所となります。今日の聖書の箇所で特に大切なのはイエス様が語った言葉です。このイエス様の復活の事を信じることができずに落胆してエマオに帰っていく二人の弟子に言ったことは、私の語ったことを信じなさい、と言ったのではなく、丁寧に聖書を解き明かして聖書を信じなさい、そこにすべて書かれている、と言った事です。すなわち、何よりも聖書に書かれていることを信じることができなければ、たとえイエス様と出会っても信じることができない、見逃してしまうと言う事です。このような事を前置きとして心に納めて、今日の聖書の学びをしてみましょう。

今日の聖書の箇所は一つの短編小説のようになっています。書き出しは、13節から16節です。

ルカ 24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

ルカ 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

ルカ 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

ルカ 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

1スタディオンは、約185mなので60スタディオンは約11.1㎞です。エルサレムからはかなり近い村と言えます。この二人は、イエス様がなくなって、希望を失い、田舎に戻ろうとしていたのかもしれません。ですがその事を二人は話し合いながら、イエス様が罪のない人だったこと、ユダヤ人たちのやった卑劣な事、墓にはイエス様の遺体がなくなっていたことなどを、いろいろと推測したりして、話しながら、エマオに向かって歩いていたのです。イエス様の死はこの二人にとってもとても残念な事だったのです。するとその話を二人でしながら歩いているときに、一人の人が近づいてきて、一緒に歩き始めたというのです。この時点ではその人がイエス様であることは二人はまだ気が付いていません。ある説では、二人は西にあるエマオに向かって歩いていたので、西日を浴びてまぶしくてよく見えなかったからだと言う事を書いていますが、食事の時も気がついていないので、そればかりではないようです。それよりも大切な事は、二人がイエス様の事を話していた時に、イエス様の方から近づいて来られたと言う事です。イエス様は私たちが呼び寄せなくても、イエス様の方から近づいて来られる方なのです。私達が二人で祈る時にも同じようなことが起こっているのです。私たちの思いがイエス様に向かって居るとき、イエス様は現れてくださいます。ですが、私たちに信仰なないと、私たちはそれに気が付かずにいることが多いのです。

そしてイエス様は二人にこう訊ねたのです。17節と18節です。

ルカ 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

ルカ 24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

 イエス様は二人の旅人に加わって一緒に歩いていたのですが、その間話されている二人の話題について尋ねたのです。この時代は夜になると強盗などが出るので、旅人が一緒になって歩くと言う事が良くあったのだと思います。イエス様は二人が話していることは良く分かっていたのです。ですが、あなたたちはなぜイエスの復活を信じないかと、切り出すのではなく、その話は何のことですかと、訊ねたのです。自分で気が付くようにさせているのです。すると、クレオパという男の方が、得意になって、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と言いました。そのことはもう誰でも知っていることで、大騒ぎになっていたのです。ですから、あなただけ知らなかったのですかと驚いているのです。

すると二人はその事件について、詳しく語り出したのです。19節から24節です。

ルカ 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

ルカ 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

ルカ 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

ルカ 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

ルカ 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

ルカ 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 二人はその話というのは、ナザレのイエスの事だと詳しく語り出しました。その方は力ある予言者だったこと、祭司長たちや議員たちが、その方を十字架につけてしまったこと、その方こそイスラエルを解放してくださる方と望みをかけていたこと、そして死んでから今日で三日目になったことなどを話したのです。そして、その日に仲間の婦人たちが墓に行くと、遺体がなくなっており、天使達が『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間のものが墓に行ったのですが、やはり遺体はなかったと言う事を語りました。

この時点でも二人は、もう一人の人がイエス様だとは気が付いていません。この二人は、既に墓が空っぽになっていることを知らされているのです。ですからよほど急激に、このイエス様の墓が空っぽになっていたという話は広まっていたのだと思います。ですが、イエス様が復活されたと信じたのはこの墓で天使にあった婦人たちだけなのです。さてこの話を聞いてイエス様はどう言ったでしょうか。

 イエス様はこう言われたのです。25節から27節です。

ルカ 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

ルカ 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

ルカ 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 イエス様は、嘆かれました。なぜならば、イエス様の出来事は預言者たちが言ったことが実現したのだと言う事を信じることも理解することも出来ず、どうしてこのような苦しみを受けたのかも、預言者たちの言ったとおりの事であることを信ずることができなかったからです。それはイエス様をメシアとして理解することができなかったと言う事です。それでイエス様は、私を信じなさい、私はメシアであると言ったでしょうか。そうではないのです。どうしたかというと、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのです。すなわち、イエス様がメシアであることを理解するためには、旧約聖書全体に予言されている事柄から理解しなければならないと言う事なのです。それが出来れば、なぜイエス様が、このような苦しみを受けて栄光に入るのかが理解できると言う事なのです。ここに私たちが旧約聖書を学ぶ理由があるのです。イエス様を知るには新約聖書さえあればよいと考える人もいるかもしれません。ですが、イエス様自身が、イエス様のメシアであることを理解するには旧約聖書全体から理解しなさいと教えて下さっているのですから、旧約聖書をしっかりと学ぶことが大切なのです。

 三人の旅人はエマオに近づいたのですが、イエス様はいったいどうしたでしょうか。28節から32節です。

ルカ 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

ルカ 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

ルカ 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

ルカ 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

ルカ 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 この二人は、エマオに家がありそこに帰ってきたのです。イエス様は二人に分かれて、なおも先へ行こうとされました。きっとガリラヤに向かっていたのだと思います。すると二人はもう夕方ですから一緒にお泊り下さいと言って、イエス様を無理に引き留めたと書いてあります。その食事の席に着いた時、イエス様は、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。あの5千人の食事の時を彷彿とさせる仕草です。そして最後の晩餐の時にやった仕草です。普通はこんなことをして、パンを裂いて相手に渡すなどと言う事はしないので、二人はすぐに、それがイエス様だと分かったというのです。それまでは全く気が付いていなかったのですが、そのパンを裂いて渡す時に二人の目が開けたというのです。ですから私たちも、聖餐式のパンを受け取る時、心の目が開けて、そこにイエス様がいらっしゃることが分かるかもしれないのです。イエス様はそのあと姿が見えなくなりました。二人はその方がイエス様であることを確信しました。イエス様がよみがえったことを確信したのです。そしてその証拠に、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言ったのです。この事は、私たちが礼拝の説教を聞いているとき、その心が燃えていたならば、そこにはイエス様がいらっしゃった、復活のイエス様が現れたと信じていいのです。私たちはこの言葉の中に、礼拝説教を聞くときの燃える思いと聖餐式の時に心の目が開かれる思いとを教えられているのです。

 二人はそのような思いが与えられて、イエス様が復活したと信じたのです。するとそのことを誰かに伝えたくてたまらなくなったのです。33節から35節です。

ルカ 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

ルカ 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

ルカ 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 二人はイエス様が復活なさったことを知らせたくて、すぐにエルサレムに戻りました。もう夜になっていたと思いますが、その11㎞を急いで戻ったのです。エルサレムにつくと、11人の弟子たちと、その仲間たちが集まっていました。そして、イエス様が復活して、シモンに現れたことを話していたのです。エマオから戻った二人も、イエス様の復活の事を話したのです。それはイエス様の方からやって来て、聖書の解き明かしをして下さり、食事の時にパンを裂いてお渡しになったことから、それがイエス様であることを確信したと言う事を話したのです。そしてその事を聞いて弟子たちは仲間のものと喜び合ったのだと思います。この二人は、イエス様に出会ったことを誰かに伝えたくて、すぐにエルサレムに向かいました。イエス様に出会うというのは、このように誰かに伝えたくなるのです。それが本当の伝道なのです。

 このエマオの途上に起こった出来事は、イエス様の復活を伝える話として、ひろく知られています。そしてそこには私たちが礼拝や聖餐式の時にイエス様と出会えるときのことが、生き生きと語られているのです。イエス様が復活なさらなければ、私たちの信仰はこれほどまでに生き生きとしたものにはならないのです。イエス様は今も生きて、私たちに出会ってくださいます。出会った人はその喜びに満たされて、誰かに伝えずにいられなくなるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、あなたが3日目に甦って、二人の弟子に現れたことを学びました。それは最初は信じられないことで、気が付くことすら出来ないことでした。ですが、あなたが生きておられることが聖餐式や礼拝説教の中で気が付かされ、目が開かれることを教えられました。神様どうか、あなたが私たちの心を開き目を開かせてくださって、イエス様の復活を感謝して歩むものとさせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆エマオで現れる

ルカ 24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

ルカ 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

ルカ 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

ルカ 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

ルカ 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

ルカ 24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

ルカ 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

ルカ 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

ルカ 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

ルカ 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

ルカ 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

ルカ 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

ルカ 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

ルカ 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

ルカ 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

ルカ 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

ルカ 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

ルカ 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

ルカ 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

ルカ 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

ルカ 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

ルカ 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

ルカ 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。