家庭礼拝 2017年12月27日ルカ23章50‐24章12 復活する

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起 

キリスト教のすばらしさは、そのイエス様の教えが素晴らしい事だけではありません。その教えが素晴らしい事だけなら、ブッダも、マホメットも、いろいろな哲学者の教えも素晴らしいものがあり、その教えに学ぶことが出来ます。いろいろな素晴らしい教えを集約して、本当に一番良い教えを学ぶことも出来るかもしれません。ですが、キリスト教の教えの違うところは、イエス様が復活したと言う事なのです。復活したと言う事は死んで後、生き返ったのであり、その後ずっと生き続けており、今も生きて働いていると言う事です。生きていると言う事は、今の私たちと話をすることも出来るし、私たち一人一人を理解してくれることも出来るし、私たちの困っていることを助けてくれることも出来るのです。今の私たちに、直接かかわって下さることができるのです。ですから、聖書の教えが素晴らしいと言って、聖書を学ぶことばかりしていたとすればそれは、キリスト教の半分でしかありません。残りの半分は直接生きているイエス様に関わり合う事です。それは、イエス様に、祈り、懺悔し、感謝し、賛美し、礼拝するという仕方で、かかわりあうのです。それは死んだ過去の人をほめたたえるのではなく、今生きて働いてくださる方をほめたたえ、私たちの人生の上に、直接かかわっていただくと言う事なのです。 このイエス様が、今も生きて働いてくださっていると言う事を信じることができなければ、本当に生き生きとした信仰を持つ事は出来ません。それは文字に書かれた信仰を持っているにすぎないのです。

今日の聖書の箇所は、そのイエス様の復活の事が書かれています。このイエス様が復活したと言う事は四つの福音書全部に書かれています。死んだ人間が復活するなどというのは、ふつうはとても信じられないことです。4人もいれば、一人くらいはそんなことは信じられないという人がいてもおかしくないはずです。ですが、4人の福音記者は全部このイエス様の復活の事を記しており、弟子たちも全部復活のイエス様に出会っているのです。でも最初は弟子たちもすぐには信じることができず、女の人達が動揺して馬鹿な事を言っているというくらいにしか受け止めていなかったのです。でもそれを最初にまともに受け止めて、墓に見に行ったのはペトロとヨハネでした。そしてここから弟子たちの復活の信仰は始まったのです。私たちも、そんな馬鹿なことが起こるはずはないという気持ちが心のどこかにあるはずです。でも、弟子たちもみんな最初はそうだったのですから、そのことを恥じる必要はありません。たとえ自分の思いで信じることが出来なくても、イエス様は私たちに現れて下さり、信じさせてくださるのです。弟子たちは皆その様にして、イエス様の方から現れて、信じさせてもらったのです。ですから私たちも、自分で信じようとするのではなく、主よ、私に語り掛けてくださいとか、私に現れてください、とか祈っていれば、どこかでその語り掛けを聞くことができ、どこかで出会うことができるのです。ですが悲しいかな、その声がイエス様の声であることに気が付かず、その姿がイエス様であることに気が付かないことが多いのです。私たちの心がいつもイエス様との出会いを探し求めているならば、きっと毎日のように出会い、その声を聞いているに違いないのです。

さて十字架の上で死んだイエス様はその後どうなったでしょうか。普通十字架の刑で殺された罪人は、そのまま放置されて、鳥に食われ、犬に食われ、虫に食われて、最後は谷に投げ込まれるのです。もしかすると、両側にいた罪人たちはそのようになったかもしれません。ですが、イエス様は違ったのです。その死体を墓に丁重に葬ろうとしている人がいたのです。50節から53節です。

ルカ 23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、

ルカ 23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

ルカ 23:52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、

ルカ 23:53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

 イエス様を墓に埋葬しようとしていたのは、アリマタヤ出身のヨセフという善良な議員でした。この人は、イエス様の死刑の決議や行動に同意はしなかったのです。ですが、ユダヤ人たちの事を恐れて、反対もしなかったのです。同意しなかったのは心の中だけで、議会でそのように行動をすることはなかったのです。ですが、イエス様の語る神の国を待ち望んでいる一人だったのです。このアリマタヤのヨセフはピラトがイエス様を解放しようとしていたのを理解していたので、恐れずに、ピラトの所に行き、イエス様の遺体を引き渡してほしいと願い出ました。そして、その遺体を十字架から降ろして、亜麻布に包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めたというのです。遺体を包んだ亜麻布も高価なものでしたが、新しい墓を持っていたと言う事も、この人が裕福な人であることを示しています。もしかすると、自分が入る時のために用意していた新しい墓なのかもしれません。ふつうこの地方の墓は大きな横穴の中にいくつもの遺体を葬るのですが、この人は新しい墓を用意していたのです。アリマタヤのヨセフはこの新しい墓に、イエス様を葬ったのです。

イエス様がなくなったのは午後の3時過ぎです。すなわち、13日の金曜日、午後3時です。次の日は安息日なので、何もすることができません。イエス様のためにしてやれる時間はわずかなのです。というのも次の日とは夕方の6時からその安息日が始まるのです。この3時間の間に、アリマタヤのヨセフはピラトに掛け合い、許可をもらい、十字架から降ろし、亜麻布を買いに行き、イエス様の遺体を亜麻布に包んで、墓に葬ったのです。その時、イエス様に従って来た女の人達が、一緒について行ったのです。54節から56節です。

ルカ 23:54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。

ルカ 23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、

ルカ 23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。

 ふつうは墓に葬る前に、香料や香油を体に塗って、臭くならないようにするのです。ですがもう時間がなかったので、そのまま亜麻布に包んで墓に納めたのです。そのとき、イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、

家に帰って、香料と香油を準備した、と書かれています。香料と香油は時間がないために用意が出来ず、埋葬してから用意したのです。マタイとマルコによる福音書では、遺体をおさめた場所に、マグダラのマリアとヨセの母マリアとがいて、その場所を見つめていたと書かれています。ガリラヤから来た婦人たちとはこの二人の事のようです。

ヨハネによる福音書では、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を取り下ろした時に、かつてある夜、イエス様のもとに来て教えを聞いたことのあるニコデモも、没薬と沈香(じんこう)を混ぜたものを百リトラばかり持ってきた、と書かれています。そしてユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだというのです。イエス様の教えに共感し、イエス様の埋葬を手伝った人がほかにもいたのです。そしてその墓というのは、イエス様の十字架の刑のあったところには園があって、そこに新しい墓があったので、近いのでそこにイエスをおさめたと書かれています。共同の墓のようでもあり、没薬,香料はすでにイエス様の亜麻布の中に入れてあったようです。

 さて、イエス様の埋葬は済みましたが、女の人達は香料をイエス様に塗らなくてはと思い、それを準備し、安息日が終わってから翌日の朝墓に行きました。安息日は金曜日の夕方6時から土曜日の夕方6時までですが、もう夜が近いので、日曜日の明け方に墓に行ったと言う事なのです。

婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ後、次の日の明け方墓に行きました。1節から3節です。。

ルカ 24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

ルカ 24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、

ルカ 24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

 香料を持って行ったのはマグダラのマリアとヨセの母マリアなのでしょう。ですが、行ってみると墓の入り口をふさいでいた石が墓の脇に転がしてあり、中に入ってもイエス様の遺体が見当たらなかったのです。このイエス様の遺体がなくなっていたことに関しては、福音書によっていろいろな書き方がされています。マタイによる福音書では、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行くと大きな地震が起こって、主の天使が石を脇に転がしたと書かれています。その時いた番兵は、恐ろしさのあまり震え上がり死人のようになったと言います。マルコによる福音書では、マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメの3人が、安息日の終わった夜に、香料を買い、次の日の朝早く、墓に行きました。その時、誰が墓の入口からあの石を転がしてくれるでしょうかと話し合っていったというのです。ところがついてみると、石は既に転がしてあり、墓の中には白い衣を着た天使が座っていたというのです。ヨハネによる福音書では、マグダラのマリアだけが墓に行き、石が取り除けてあるのを見て、イエス様の遺体がないのに気が付き、すぐにペトロとヨハネの所に知らせに行くのです。この様にそれぞれ違った書き方をしているのですが、ルカはどうなのでしょうか。4節から8節です。

ルカ 24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

ルカ 24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

ルカ 24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

ルカ 24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

ルカ 24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

 婦人たちが墓についてみると、石は転がしてあり、墓は空っぽでした。途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の天使がそばに現れたのです。婦人たちは恐れて地に顔を伏せました。すると二人の天使はこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」婦人たちはその天使に、墓が空になっているのはイエス様が復活なさったからだと言われたのです。マタイも、マルコも、ルカでも墓は空になっており、そこに天使がいて、イエス様は復活されたと言う事を婦人たちに告げたと語っています。すなわちイエス様の復活を信じた最初は婦人たちなのです。そしてそれを告げたのは天使なのです。ところがヨハネ福音書だけは違います。墓を見に行ったのはマグダラのマリアであり、墓が空になっていることをペトロとヨハネに告げたのです。ペトロとヨハネは急いで墓まで駆け付け、空になった墓を覗いてみたのです。するとそこにはイエス様を包んでいた亜麻布が丸めておいてあったのです。そこでイエス様の遺体がなくなっていることは信じたのですが、イエス様が死者の中から復活することになっていると言う事を、二人はまだ理解していなかった、とヨハネの福音書は伝えています。それほど復活を信じるのは難しいのです。

ルカ福音書に戻りますと婦人たちは天使に「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言われたことを思い出して、イエス様は復活なさったのだと信じたのです。

それからどうしたかと言う事は、9節から12節に書いてあります。

ルカ 24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

ルカ 24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

ルカ 24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

ルカ 24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 婦人たちは、墓から帰って11人の弟子たちと他の人達に一部始終を知らせた、とあります。そして、やっとその婦人たちとは誰かを話します。それはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちとあります。この様に、ルカ福音書では墓に行った婦人たちが大勢いたことを語っています。全部の福音書に共通なのは、マグダラのマリアだけは必ず入っているのです。ヨハネ福音書のようにマグダラのマリア一人だけの場合もあれば、マタイ福音書のように二人の場合もあれば、マルコ福音書のように三人の場合もあるのです。ですが、ルカ福音書ではそれらの人々以外に、一緒にいた他の婦人達もいたというから5-6人はいたのかもしれません。多分これは、時間的経過を正しく告げず、誰が行ったのかをまとめて書いているせいかもしれません。この場面を時間的経過を追っていくと、まず地震が起こり石の扉が開き、番兵が驚いて祭司長の所にイエス様の遺体がないことを報告に行き、そのあとマグダラのマリアが来てその墓を見て驚き、パウロに報告に行き、パウロとヨハネが走って墓にやってきました。その後にマリアや他の婦人たちがやって来て空の墓を見て驚き、弟子たちに知らせたと言う事ではないでしょうか。いずれにしても、一番最初の発見者は朝早く暗いうちに来たマグダラのマリアなのです。そして、皆が見たのは空になった墓の中なのです。婦人たちが話したことを、弟子たちはたわごとのように思われたので信じなかったと言います。ただペトロだけは墓に走って墓の中を覗いたのです。この出来事によって、弟子達や婦人たちはイエス様が復活なさったことを信じたのですが。すぐに信じたのではなさそうです。最初の内はただ驚きであり、そのあと段々に、イエス様が復活なさったのだと信じるようになったのです。

 イエス様は復活なさいました。ですが、弟子たちはすぐに信じるようになったわけではありませんでした。そのあとイエス様は弟子たちの前に何度か現れ、言葉を交わすうちに信じるものに変えられていったのです。ですがそこには聖霊の導きがあったでしょう。婦人たちの見た天使は聖霊であり、その心にイエス様の復活を信じる思いが導かれたのです。イエス様の復活は、聖霊によって、そのことを告げられ、イエス様に出会って信じることができるようになったのです。ですから、復活は無理に信じるものではなくて、信じる者に変えられることこそ大切なのです。神様を愛し、イエス様を愛する者は、信じる者に変えていただくことができるのです。そしてイエス様の復活を信じる者は、今も生きていて、私たちに話しかけ、助け、導いてくださっていることを信じるのです。生きて私たちを見守って下さっていることを信じるのです。ですから私たちは、イエス様に祈り、感謝し、賛美するのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様が復活なさったという衝撃的な出来事を知らされました。ですが、それはあまりにも理解不能な事なのでなかなか信じる事は出来ません。ですがそれを信じさせてくださるのは聖霊であり、イエス様です。どうか私たちも復活なさって私たちに語り掛けて下さるイエス様に出会うことが出来ますように。その御声と御姿を見逃すことなく捕えていくことが出来ますように。そして今も生きておられるイエス様に、祈り、感謝し、賛美を捧げることが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆墓に葬られる

ルカ 23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、

ルカ 23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

ルカ 23:52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、

ルカ 23:53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

ルカ 23:54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。

ルカ 23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、

ルカ 23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。

◆復活する

婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

ルカ 24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

ルカ 24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、

ルカ 24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

ルカ 24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

ルカ 24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

ルカ 24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

ルカ 24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

ルカ 24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

ルカ 24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

ルカ 24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

ルカ 24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

ルカ 24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。