家庭礼拝 2017年12月20日ルカ23章26‐49 十字架につけられる

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起 

キリスト教と言えば十字架です。なぜ十字架なのかを知らない人も沢山います。知っていたとしても、なぜ十字架で死んだのかを答えられる人は、クリスチャン以外にはあまりいないでしょう。十字架をファッションの小道具としか思っていない人もいると思います。ですが、イエス様が十字架で死んで、神とあがめられるようになったと言う事くらいは知っている人はたくさんいるかもしれません。十字架で死んだ人は昔からたくさんいます。それは死刑の道具だからです。できるだけ長く苦しめて、見せしめとして、恐怖を感じさせるものとして、昔から存在しました。ふつうは24時間くらいで死ぬことが多いようですが、一週間も生き延びる人もいたのです。それは十字架にかけられる方法によって、違ったようです。十字架で死ぬのは、失血して死ぬのではなく、最後は自分の体重を支えきれなくなって、呼吸困難になって死ぬようです。ですから十字架で、体重を支えられるように仕掛けをしてある場合は結構生き続けることがあるのです。

十字架刑で死刑にされた人はたくさんいるのに、イエス様だけが神とあがめられ、これほど多くの人に影響を与えたのは何故でしょうか。ほかの人を救うために自分の命を投げ出して、貼り付けの刑になった人は日本にもいました。農民の窮状を訴えて、貼り付けになった佐倉の惣五郎は自分だけでなく家族も皆殺されました。でもイエス様のように、まことの神と称えられることはありませんでした。もともとユダヤ教では、ただ一人の神を信じる信仰ですから、その独り子の神を信じる信仰が生まれる土台はないのです。それにもかかわらず、人々のイエス様を思う思いは、神なるイエス・キリストへの信仰へと進んでいったのです。それは、イエス様の死が、ものすごい衝撃を人々にもたらし、聖霊の導きのままに、信じるに至った信仰ではないかと思います。それは決して考えてわかる信仰ではなかったような気がします。まず、イエス様は、本当に神の子だったという信じる思いがあって、そこからいろいろな教えが導かれたのだと思います。今日はそのイエス様が十字架で死なれる場面です。いったいどのような死に方をしたのか、そこで人々はどのような衝撃を受けたのかを私たちも信仰をもって聞き取って行きたいと思うのです。

イエス様は過ぎ越しの食事をした次の日には、十字架を背負わされて、市内を引き回されていました。26節と27節です。

ルカ 23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

ルカ 23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。

イエス様は鞭うたれたり、眠ることも出来なかったりしたために、体力を失い、その十字架を背負って歩くことができなくなりました。すると、イエス様を囲んでいた四人のローマ兵の一人が、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、その十字架を無理やり背負わせて、イエス様の後からついてくるように命じられたのです。キレネというのはアフリカの今で言うとトリポリというところです。地中海を挟んで、ギリシャと反対側にあるアフリカの町ですからとても遠い所から来たと言う事です。この過越しの祭りのために来たのだろうと言う事も言われているのですが、別の説では、田舎から出てきたシモンというのは、エルサレムの郊外からやって来たシモンというくらいの意味であって、その郊外に家族で住んでいたのではないかと言う事です。それがたまたま同じ郊外の刑場に行くイエス様の行列に出会ってローマ兵に呼び止められたのではないかと言う事です。確かに、もしわざわざキレネから、過ぎ越しの祭りに来て、このような死刑囚の十字架を背負わされたら、憤慨して帰って行ったと思われるのですが、実はこの息子達は有力なクリスチャンとなって、聖書に現れてくるのです。マルコによる福音書15:21節には「アレキサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から通りかかったので」と書かれているように、教会ではよく知られた人の父親だったのです。また、パウロの手紙には「主にあって選ばれた、ルフォスと、彼の母とによろしく」(ローマ16:13)と書かれていて、その母親も、教会ではよく知られていたし、ルフォスは主にあって選ばれた人と呼ばれるほど、優れた人だったのだと思います。このように、イエス様の十字架を背負ったキレネ人シモンは、そのあと大きな影響をイエス様から与えられ、その家族も皆イエス様を信じる者となったのです。それほどの衝撃を受けたのです。

その十字架を担いでいくシモンとよろめいて歩くイエス様の後には、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」と書かれています。これは必ずしもイエス様の弟子というわけではなく、イエス様の死を憐れに思う同情者が、信仰者でなくても沢山いたと言う事です。特に女性は自分たちの身につまされて、嘆き悲しんで、その後に従ったのです。

すると、イエス様はその嘆き悲しむ女の人達の方を振り向いてこう言ったのです。28節から32節です。

ルカ 23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。

ルカ 23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

ルカ 23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。

ルカ 23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

ルカ 23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

 イエス様は、このような状況の下でも、自分の事ではなく泣いている女の人達を思いやりました。イエス様が後ろについてきた婦人たちに語ったのは、「自分の死などは大したことではない。これから起こる恐ろしいことに比べれば、まだましな方だ。だから私のために泣くよりも、自分と子供たちのために泣け。その時には、子供を持たなかった女の方が幸せだったと思う日が来るから。」というものでした。それほど、これから起こる事の方がつらい事なのだと言う事を言っているのです。そして、その時にはあまりの辛さに、山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める、というのです。その苦しさから逃れるために、早く死なせてくれと言う事なのです。そして、『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。と言いました。『生の木』とは、神様を信じて生きるものであり、『枯れた木』とは、神様を信じることなく生きているものの事です。生の木でさえもこのような苦しみの中で叫ぶほどなのに、信仰の無い枯れた木のユダヤ人たちはいったいどうなるのだろうかと言う事です。

十字架を背負って歩いていたのはイエス様たちだけではありませんでした。ほかに二人の犯罪人が一緒に処刑されるために、引かれてきたのです。これはイエス様が特別の犯罪者ではなく、他の一般の犯罪者と同じ犯罪者なのだと言う事を示すためでした。すなわち本来バラバと一緒に処刑されるべき犯罪者たちなのです。それをイエス様が、バラバの代わりに、処刑されることになったのです。

 イエス様は、市内を引き回されて、ついに処刑場にやってきました。33節と34節です。

ルカ 23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

ルカ 23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

 処刑場はエルサレムの市街地の外にある、されこうべと呼ばれる小高い丘でした。そこでイエス様は十字架につけられたのです。一人は右に一人は左にイエス様は真ん中に十字架につけられたのです。その時、イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言ったというのです。この言葉は、神の子イエス様を殺そうとしていたユダヤ人全体の罪に対して言ったのか、それとも目の前で、人の命の事などなんとも思わず、くじを引いて、イエス様の服などを分け合っている人々を見て、言ったのかはわかりません。いずれにしても、人間がイエス様に下そうとしている罪を赦してくださいと神様に願ったのです。これがいま十字架で死のうとしている人の言葉だったのです。イエス様は、最後まで自分の事ではなく、人々の救いのために祈られたのです。

 それにもかかわらず、周りにいる人々のとった行動は、十字架の上で苦しんでいるイエス様を嘲るという行動でした。35節から39節です。

ルカ 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ルカ 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、

ルカ 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

ルカ 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 イエス様の周りにいる人々は皆イエス様を嘲ったのです。民衆は立って見つめていましたが、それは見世物を見るように見ていたのです。議員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言って嘲りました。兵士たちも同じように、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言いました。ユダヤの議員たちは、メシアなら救ってみろと言い、ローマの兵士たちは、王なら救ってみろと言っているのです。それぞれ嘲る方向が自分たちの都合のいいように言っているのです。さらには十字架上の犯罪人でさえも「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ったのです。三者三様の言い方ですが、共通しているのは自分を救ってみろと言っているのです。それはイエス様が多くの人々を救ってきたことを知っている証しであり、その力を自分を救う事には使えないのかと挑発しているのです。イエス様は最後まで自分のためにはその奇跡の力を用いることはしなかったのです。

 このように四面楚歌の中で嘲られていたイエス様を一人の人が弁護したのです。それはイエス様の弟子達でしょうか。そうではないのです。それはもう一人の十字架の上で苦しんでいる男でした。40節から43節です。

ルカ 23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

ルカ 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

ルカ 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

ルカ 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 イエス様をののしった十字架の男は、自分も苦しかったのです。その苦しみから逃れたいために、イエス様に、自分自身と我々を救ってみろと言ったのです。自分たちをも救ってみろと言ってののしったのです。ところがもう一人の十字架につけられている男はそれをたしなめたのです。そして、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。この二人の違いはどこから出てきているのでしょうか。それは神様を恐れるかどうかなのです。イエス様をののしった男は、神様などは信じないで、自分さえ救われればいいという思いで言っているのです。ですがたしなめた男は、自分のやったことの報いを受けているので、苦しむのは当然だと、その苦しみを神様からの報いとして受け取っているのです。ですからその神様からの報いとしての苦しみを認めない、もう一人の男をたしなめたのです。そしてこの人はイエス様が何も悪いことをしていないのに十字架につけられたのを知っているのです。しかもイエス様は、神の御国に帰っていくことも知っていたのです。ですから、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。ここから救ってくださいと言ったのではなく、ただ私を思い出してください、と言ったのです。自分は罪のために、呪われて地獄に落ちるのだが、せめてイエス様に思い出していただければ嬉しいですと言ったのです。するとイエス様はこう言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。自分は地獄に落ちるしかない罪人であると思っていたのに、イエス様が、今日私と一緒に天国にいると言ってくれたのです。この男の人は肉体は死んでも魂は救われたのです。この人は自分の罪をイエス様の前に告白したのです。ですから救われたのです。これはペトロと同じなのです。そしてもう一人の肉体を救おうとした罪人は、ユダと同じなのです。イエス様の右と左の罪人は、罪を告白した罪人と、罪を罪とも思わない罪人なのです。

 イエス様は最後にどのようにして死んだのでしょうか。44節から46節です。

 ルカ 23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

ルカ 23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

ルカ 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 イエス様は市中を引き回された後、午前の9時頃十字架につけられました。そして昼の12時ころから全地は暗くなったと言います。それが3時ころまで続いて、太陽は光を失っていたというのですから、よほど暗くなったと思います。イエス様は、光として形容される人でもありますから、その命が消える様子が、その暗さからうかがえます。そして神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたと言います。神殿の垂れ幕とは、至聖所の垂れ幕で、そこには神様が居られる場所で、大祭司しか入ることの出来ない場所です。その垂れ幕が真ん中から真っ二つに裂けたというのですから、神様がそこから外の世界に行かれたと言う事です。それは、神様がユダヤ人だけの神様から、世界中の信じる人々の神様になったと言う事です。それはイエス様の命を生贄としてささげることから実現した神様の救いのことなのです。イエス様は6時間ほどで、十字架の上で息を引き取られました。これは普通は24時間ほどかかると言われることからすると、ずいぶんと早いのです。ですがイエス様はその時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られたのです。イエス様は十字架の刑で命を取られたのではなく、自らその命を神様の御手に委ねて、亡くなったのです。

 そのイエス様の亡くなる姿を見ていた人たちは、いったいどんな思いでいたでしょうか。47節から49節です。

ルカ 23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

ルカ 23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

ルカ 23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

 まずイエス様の近くで、その姿を見ていた百人隊長が反応しました。その最後の姿に感動したのです。そして、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神様を賛美したのです。この百人隊長はイエス様の神様を信じる人ではありません。異邦人なのです。それなのに、イエス様の姿から、本当に、この人は正しい人だったと、感銘を受けたのです。そして、このような人を導いたその神様を信じ賛美したのです。この百人隊長は言葉によってではなく、そのイエス様の死にゆく姿によって、信仰者に変えられたのです。同じように十字架を背負ったクレネ人シモンもまたこの時信仰者に変えられたかもしれません。

 見物に集まっていた群衆も皆、最初の内はののしっていたのかもしれませんが、イエス様が神様に忠実に従って死んでいった姿を見て、自分達の過ちに気が付き、胸を打ちながら帰って行ったのです。強い後悔の念があったと思います。イエス様を知っている人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは遠くに立って、これらの事を見ていました。近くでは見ていられなかったのだと思います。何もできない自分たちを嘆いていたのだと思います。弟子たちもきっとこの、イエスを知っていたすべての人達、の中に含まれているのだと思います。そうでなくては、このイエス様の十字架の様子を、このように聖書に詳しく書き表す事は出来なかったはずです。

 イエス様の十字架での死は、多くの人々に、心からの悔い改めをもたらしました。自分たちがしている罪に気が付かされました。そしてイエス様が神様に対して正しい方であることを知らされました。それは神様を信じていない、百人隊長をも神様を賛美するものに変える力がありました。そして、この後も弟子たちの心に大きな変化を生じさせ、イエス様がなくなった後からも多くの出来事を生じさせていくのです。イエス様は、この世の罪を清める生贄として、亡くなりました。幕屋の内にいた神様は、幕屋を破って、全人類の救いへと向かわれました。私たちはこの事によってこの新しい契約によって救いが与えられています。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様の十字架での死について教えられました。その死は一人一人の内にある罪を清め救うためにささげられたイエス様の命です。この尊い命のゆえに私たちは信じる信仰を与えられました。神様、どうか私たちがこの信仰によって生かされ、イエス様の愛と慈しみに委ねていくことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆十字架につけられる

ルカ 23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

ルカ 23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。

ルカ 23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。

ルカ 23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

ルカ 23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。

ルカ 23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

ルカ 23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

ルカ 23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

ルカ 23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

ルカ 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ルカ 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、

ルカ 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

ルカ 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

ルカ 23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

ルカ 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

ルカ 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

ルカ 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

◆イエスの死

ルカ 23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

ルカ 23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

ルカ 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

ルカ 23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

ルカ 23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

ルカ 23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。