家庭礼拝 2017年11月29日ルカ22章39‐53 オリーブ山で祈る

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起 

今日はオリーブ山が、主要な舞台です。オリーブ山はエルサレムの神殿の下にあるキドロンの谷を上るとオリーブ山になります。エルサレムと言うのは三方が谷に囲まれた狭い場所で、要塞のようになっていました。その中は密集した家と神殿とヘロデの宮殿と大祭司の屋敷や総督の官邸がありましたが、狭い場所なので、大きな庭園などはもてませんでした。それで金持ちなどはその庭園をオリーブ山の中に作り、その一つが今日登場するゲッセマネの園です。オリーブ山には昔からオリーブが育っていました。オリーブの木はイスラエルを代表する木で、一度根を張ればめったなことでは枯れることはありませんでした。そして実がなればそのオリーブからオリーブオイルを取ることが出来ました。今日登場するオリーブ山のゲッセマネの園とはもともとゲッセマネすなわちオリーブの油を搾る機械のあった場所、という意味ですが、ここは農園と言うよりも庭園になっていたようです。イエス様は、ここの場所に出入りする許可を持ち主から取ってあり、度々ここに来て静かな時を過ごしていたようです。多分このゲッセマネの園は最後の晩餐をした家の主人の持ち物ではないかと思われます。この過越しの晩も、イエス様は晩餐が終わった後で、この場所に来る予定になっていました。ユダはそのことをすでに祭司長たちに知らせてあったのです。そしてイエス様が、血の汗を滴らせて祈りをささげたのち、ローマの兵士と祭司長たちの下役たちに捕らえられるのです。

さて、聖書に戻ると、イエス様たちは、晩餐が終わると、オリーブ山に移られました。39節と40節です。

ルカ 22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。

ルカ 22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

 イエス様たちはいつものようにオリーブ山に来たというのですから、ここには毎晩のように来ていたのかもしれません。ここは群衆を避けるにはいいところだったのかもしれません。でもルカ福音書では、ここがゲッセマネの園であるとは書かれていません。ヨハネ福音書では、キドロンの谷の向こう側にある園と書いてありますがゲッセマネとは書かれていません。ここがゲッセマネの園であると書いてあるのはマタイとマルコです。ですからイエス様たちは、山の中のオリーブ畑に入ったのではなく、庭園のゲッセマネの園に入られたのです。そこでイエス様が、弟子たちに言った言葉は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」という言葉です。この場合の誘惑と言うのは、何かしたいという誘惑ではないと思います。むしろ、サタンによる誘惑、不安や恐れに引きずり込むような誘惑なのではないかと思います。イエス様自身もそのような不安や恐れをこの時に感じていたのです。ですから、そのような時には、祈りなさいと教えているのです。私たちも、恐れや不安に捕らわれた時に、一番確かな味方は、祈る事なのです。このゲッセマネの園は、祈るのにふさわしい場所だったのです。そして、イエス様自身も祈り始めたのです。41節から44節です。

ルカ 22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

ルカ 22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔

ルカ 22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

ルカ 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕

 イエス様は、ご自分が祈るために弟子達から少し離れて、石を投げて届くほどの所ですから、5mとか10m離れた場所でひざまずいて、一人で祈られたようです。マタイとマルコによる福音書では、ペトロとヤコブ、ヨハネを伴っていて、「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と言って、また少し離れて一人で祈ったようです。不思議なのはヨハネによる福音書です。この時一番近くにいたヨハネはこの事を一番印象的に覚えているはずなのですが、ヨハネによる福音書ではこの事を書いてはいないのです。ゲッセマネの園でいきなり兵隊や下役たちと出会うのです。この苦しみ悶えるイエス様の事を、言い表したくなかったのでしょうか。

ルカによる福音書では、イエス様は弟子達から少し離れて、一人で祈ったのです。イエス様も不安と恐れでいっぱいだったのです。ここから逃げ出したいという誘惑でいっぱいだったのです。その誘惑にに陥らないようにするために祈ったのです。それは苦しみ悶えながら、汗が血の滴るように地面に落ちたと言います。これを見ていたのは、きっとヨハネなのです。ペトロは眠っていたのです。汗が血の滴るようにとありますから、汗が絶え間なく滴り落ちていたのだと思います。それほど苦しんで祈っていたのです。私たちの祈りに、このような祈りがあったでしょうか。私たちが、不安や恐れや誘惑に陥るのではないかと思った時、私たちはこのイエス様の祈りを思い起こして、真剣に祈ることを教えられています。その様にイエス様が祈っているとき、天使が天から現れて、イエス様を力づけた、とも書かれています。祈りは天からの力が与えられるのです。祈りは励ましが与えられるのです。

イエス様はどのように祈ったのでしょうか。それは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ったのです。イエス様は、この杯を私から取り除けてください、と祈ったのです。これは十字架の死を与えないでくださいと祈ったという事です。イエス様でさえもそれは恐ろしい事で、避けたいと思っていたのです。逃げたいと思っていたのです。ですが、それは自分の思いとして、この杯を私から取り除けてくださいと言ったのではなく、御心ならば、取り除けてください、と言ったのです。イエス様は自分の願いは願いとして正直に祈り、でも私の願いではなく、御心のままに行ってください、と祈ったのです。イエス様の心は自分の願いと、神様に対する信頼の間で揺れ動いていたのです。それを、自分の願いではなく、神様の御心がなりますようにと必死で祈ったのです。そしてその祈りは勝利を得るのです。神様に対する、完全な信頼へと移るのです。中途半端な気持ちでいる時が一番不安なのです。ですが、神様が自分たちにとって一番良いことをして下さるという信頼の上に動かざる確信を得た時、不安も恐れもなくなるのです。

イエス様は祈り終わって、弟子たちの所に戻りました。どうなっていたでしょうか、45節と46節です。

ルカ 22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

ルカ 22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

 この弟子たちというのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの事だと思います。彼らは眠っていたのですが、それは悲しみの果てに眠り込んでいたのです。イエス様が死ぬかもしれないという思いが、イエス様の祈りを聞いていて、真実のように思われて、悲しみのために疲れ果ててしまって、眠ったというよりも、ぐったりしてしまったと言った方が良いのではないかと思います。イエス様は、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と言いましたが、この悲しみの果てにぐったりしてしまうと言う事も、不安と恐れの誘惑に陥る事と同じなのです。だから、そのような誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさいと言ったのです。恐れや不安や悲しみのために何も出来なくなるというのは、そのような誘惑に陥ることです。その様な時に一番大切なのは、気持ちをしっかり持って祈り続けることだとイエス様は言っているのです。

マタイとマルコでは、イエス様は3度弟子たちの所に戻って来て、まだ眠っているのかと言いました。そして、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言ったのです。イエス様が繰り返し3度も、目を覚まして祈っていなさいと言っても、弟子たちはそれを続けることができなかったのです。それほど体は悲しみと苦しみのために疲れ果てていたのです。

 イエス様が弟子たちにそのような話をしていた時に、イエス様を捕えようと集まって来た群衆がイエス様の前に現れました。47節と48節です。

ルカ 22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。

ルカ 22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。

 兵隊たちと下役たちを手引きしてやってきたユダは、この人がイエス様だと分かるように、イエス様に接吻をしようとしました。これは、弟子が先生に対して敬愛の念を示すための接吻でしたが、その実際は裏切りの接吻となったのです。それでイエス様は、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われたのです。ユダの裏切りにはいろいろな理由が言われています。ユダ自信はイエス様を裏切ったつもりでなく、イエス様が自分の考えているような行動に出て、立ち上がって下さると思っていたようです。ですがそれが裏切りなのです。イエス様を自分の思い通りに、働かせようと思うことが裏切りなのです。神様を自分の思い通りにしようとする祈りも同じ裏切りなのです。ですから、私たちの祈りも、最後は「どうか御心のままになりますように」という言葉が必要なのです。自分の思いではなく、神様の思いに従うことが大切なのです。

 その時弟子たちはイエス様の周りにいました。49節から51節です。

ルカ 22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。

ルカ 22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

ルカ 22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。

 ここの場面は、4つの福音書それぞれが、いろいろな事を書いています。共通しているのは弟子のひとりが剣で切り付けて、手下の右の耳を切り落としたと言う事です。剣で切り落としたのが誰かは、マタイもマルコにもルカにも書かれていません。ですが、ヨハネでは、それがペトロであり、切り落とされた手下はマルコスという名であることも書かれています。剣を持っていたのはペトロだったのです。イエス様たちは剣を2本持っていましたが、それはペトロとヤコブだったかもしれません。

 その時イエス様が、「やめなさい。もうそれでいい」と止めたのは、全ての福音書に書かれています。ですが、ルカだけに書かれていることがあります。それは、イエス様が、その耳に触れて癒された、という言葉です。いかにも医者のルカらしい記述です。イエス様は敵の手下の者にも癒しを与えたのです。

 そしてイエス様は捕えに来たその群衆にこう言われたのです。52節と53節です。

ルカ 22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。

ルカ 22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 ルカ福音書では、その捕えに来た人たちは祭司長、神殿守衛長、長老たちとその手下たちであると書いています。マタイとマルコでは群衆と書いてありますが、誰であるかはわかりません。ヨハネによる福音書では、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たち、と書かれています。当時の状況からすると、多分ヨハネによる福音書が一番正確なのではないかと思います。祭司長や長老たちがこの夜のゲッセマネに来るとは思えないからです。イエス様は、捕えに来た人々に、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と言いました。イエス様を捕えるチャンスは昼間いくらでもあったのです。ですが、イエス様を喜んでいる群衆が暴動に至るのを恐れて捕まえることができず、夜静まって誰もいないとことを見計らってやってきたので、まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってきたのかと言ったのです。昼間の時は、神様の時であり、この闇の時があなたたちの時すなわちサタンの支配する時だと言っているのです。でもこのような話をしている間に、弟子たちはイエス様のもとを逃げ去っていたのです。その事はここには書かれていません。この事を書いているのはマルコによる福音書だけです。そこには「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とはっきり書かれています。イエス様が、自分だけ捕まればいいように計らったところもあるのです。

 今日の聖書の箇所では、人間がいかに弱いものかを思い知らされます。そしてそのような弱い人間を支えてくれるのは祈りだけだと言う事も教えられました。イエス様でさえ、誘惑に陥り、不安と苦しみと悲しみに引きずり込まれそうになっていたのです。ですが祈りによって、「御心のままに行ってください」という祈りが勝ったのです。それは神様への信頼がまさったと言う事です。神様がどんなことがあっても、自分を愛してくださる方だという固い信頼に立つことが出来たと言う事です。その時その誘惑から解き放たれ、恐れと不安からも解き放たれたのです。私たちが祈ることをしないで不安に捕らわれているのは、眠っていることと同じです。私たちの為すべきことはただひたすらに御心に委ねることができますようにと祈る事なのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様が、ゲッセマネで苦しみ悶えながらも神様に祈り、神様の御心がなるようにと祈りました。そのことによって、私たちに与えられるイエス様の犠牲が成立しました。この祈りがなければ、救い主イエス・キリストは生まれなかったのです。この祈りによって、私たちは救われているのです。イエス様は、ご自分が犠牲になって、十字架にあげられれば、人々の罪が許され、救われるという神様との契約が成就することを実行したのです。それがイエス様のぶどう酒です。「この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である」と言った新しい契約に入れられました。私たちはこの事を信じることによってその契約に入り救われています。神様、どうか私たちがこのイエス様の苦しみを通して救われていることを信じて生きていくことが出来ますように。私たちの力は何もいりません。ただイエス様の犠牲と祈りとによって救われていることに感謝いたします。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

 

◆オリーブ山で祈る

ルカ 22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。

ルカ 22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

ルカ 22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

ルカ 22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔

ルカ 22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

ルカ 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕

ルカ 22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

ルカ 22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

◆裏切られる

ルカ 22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。

ルカ 22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。

ルカ 22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。

ルカ 22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

ルカ 22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。

ルカ 22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。

ルカ 22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」