家庭礼拝 2017年10月25日ルカ20章27‐47 復活についての問答
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起
先週に続いて、今週もイエス様のエルサレム神殿での問答の場面です。先週は、祭司長や律法学者そして長老たちがやって来て、イエス様に問答を挑みました。最初は権威について、次に皇帝に納めるべき税金について、その間にイエス様はぶどう園と農夫のたとえを話して、律法学者や祭司長たちの姿勢を非難しました。ですが、彼らはイエス様にはかないませんでした。何とか、しっぽをつかんで捕えようとするのですが、逆にやられてしまうのです。これならばイエス様を、ぎゃふんを言わせられるだろうと準備してきた、質問でさえも反対にぎゃふんと言わされてしまうのです。そしてそれを見ていて半分喜んでいたのはサド会派の人々です。この人々はファリサイ派の人々に比べてあまり信仰的ではなく現実主義者なのです。サンヒドリンの議会の主なメンバーであり、政治に深くかかわっている人たちです。常日頃、ファリサイ派の人々が信仰を振り回すのをあまり良く思っていなかったのです。ファリサイ派の人々は律法をよく守る人々でした。聖書に書かれている律法はもとより、そこに書かれていない口伝律法と呼ばれる律法をもいろいろ決めて守っている人々だったのです。それに比べるとサド会派の人々は信仰をできるだけ軽いものにしようとし、モーセ5書の律法しか本当の律法ではないとして、それ以外の律法は無視していたのです。ファリサイ派の人々は聖霊や天使や復活を信じ、サドカイ派の人々はそのようなものは否定していたのです。要するにサドカイ派の人々と言うのは信仰を持っていない人が、形だけ信仰を持っているふりをして、一部の律法を守っていると言う感じの人々なのです。今の日本ですと、葬式仏教しか信じていない仏教徒みたいなものです。ですから、サドカイ派の人々はファリサイ派の人々が言う、復活などと言うのは子供じみた、おとぎ話だと言ってバカにしていたのです。そして、サドカイ派の人々が復活はないと言う事を言うときに使った論法が、今日のイエス様に訊ねた、復活についての問答なのです。サドカイ派の人々は、これでファリサイ派の人々と同じように、イエス様もギャフンと言わせてやろうとしていたのです。それで、今週は、先週のファリサイ派の人々に代わって、サドカイ派の人々がイエス様に質問したのです。さてどうなったでしょうか。
承
サドカイ派の人々は、得意になって、いつもファリサイ派の人々を困らせていた、復活の話をイエス様に持ち出しました。ファリサイ派の人々はこれにうまく答えられなかったので、サドカイ派の人々は復活などと言うものはないのだと言っていたのです。さてそれはどんな質問だったのでしょうか、27節から33節です。
ルカ
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
ルカ
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ルカ
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
ルカ
20:30 次男、
ルカ
20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
ルカ
20:32 最後にその女も死にました。
ルカ
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
この例題は、もし復活というものがあるとしたら、こんなとんでもないことが起こるのだからあり得ないではないかというものなのです。それはモーセの律法に基づくと兄が妻を娶って、子がないまま死んだときは弟がその兄嫁と結婚しなければならないと言う事を逆手にとって、それが7人兄弟で次々に起こったなら、復活の時には7人がその女を妻にするのでしょうかというものなのです。実際にはそのような事は行われていなかったようなのですが、モーセの律法に書かれていることとして、それを逆手に取って言っているのです。要するに、この人たちの考えは、復活した世界でもこの世と同じようなことが行われる、と言う事が前提なのです。
これに対して、イエス様の答えは、復活の世界はこの世の世界とは全く違うものであって、この世の考え方は通じないものであると言う事なのです。この世の考え方をはるかに超えているのです。イエス様はこう答えました。34節から36節です。
ルカ
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
ルカ
20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
ルカ
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
サドカイ派の人々は、復活した時にはその女は誰の妻になるのかというこの世的な質問に対し、イエス様の答えは、それはこの世のことであり、復活した人々はめとることも嫁ぐこともないし、死ぬこともない。この人々は天使のようなものであり、神の子なのだと言ったのです。すなわち、復活とは、この世の次元の話ではないと言う事なのです。この事は、イエス様はサドカイ派の人々が、物事を信仰的に考えずに、この世的な考え方でしか考えていないことを非難しているのです。そしてさらに、復活のあることを証明するために、旧約聖書のモーセの話を引き合いに出しました。これはサドカイ派の人々が、モーセの律法を根拠に復活はないと言って来たので、同じ土俵すなわちモーセの言葉を根拠に話を進めて復活はあると言っているのです。37節から40節です。
ルカ
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
ルカ
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
ルカ
20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
ルカ
20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
イエス様の根拠と言うのは、モーセが主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいることなのです。神様とは死んだものの神様ではなくて生きているものの神様なのだから、アブラハム、イサク、ヤコブもまた復活して生きており、復活した彼らの神様をモーセは呼んだのだと言ったのです。これに対して、サドカイ派の人々は何の反論もできませんでした。この復活はないという話にいつも苦しめられてきた、律法学者達の中には、このイエス様の答えを聞いて驚き、「先生、立派なお答えです」と言って賛美した人もいたのです。それでサドカイ派の人々は完全に打ちのめされて、もう何も訊ねようとはしなかったのです。
転
さて、今度は逆にイエス様がファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に質問をしました。それはメシアとは誰なのかという質問でした。ユダヤの人々はメシアはダビデの子孫として生まれ、ユダヤ人たちを異邦人の束縛から解放してくださる、政治的軍事的な王であり救い主であるという考え方でした。ところが、イエス様はメシアとはそのような小さな枠におさまる、従来の王様のようなものではない、と言う事を言っているのです。41節から44節です。
ルカ 20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
ルカ 20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
ルカ 20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
ルカ 20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
ダビデが詩篇で言っているのは、こう言う事なのです。『神様は、私の主にこのように言いました。「私があなたの敵を、全て鎮圧するときまで、私の右の座についていなさい。」と。』ダビデ自身は、メシアが自分の子孫だとは思っていないのです。自分よりもずっと大きな、神のような存在だと思っているのです。それなのにどうして人々は、メシアはダビデの子だ、というのか、と尋ねているのです。イエス様は、メシアがダビデの子であることを否定しているわけではありません。ですが、ダビデの語っている言葉から、メシアは単なる、ダビデの子孫ではなく、その前から存在する、大いなる方であると言う事なのです。そのことを分かって、メシアと言う言葉を使っているかと言う事なのです。メシアは、肉体的な血統に属するものではなく、信仰の世界の異次元の世界におられる方であると言う事なのです。これは先ほどの復活の問答と同じような話なのです。その表される世界がもともと違うのです。
このような話をしているとき、イエス様は弟子たちに対して、律法学者に気をつけなさいと言う話をしました。どうしてでしょうか。45節から47節です。
ルカ 20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
ルカ 20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
ルカ 20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
ここは神殿の広場なので、律法学者たちが、長い衣を着て歩き回り、広場でいろいろな人に挨拶されて、偉ぶっていたり、見せかけの長い祈りをしていたりしたのが見えたのではないでしょうか。その様な律法学者の姿を見て、イエス様は弟子たちに律法学者に気をつけなさいと言ったのです。それは律法学者の様に見せかけだけの信仰者になってはいけないと言う事です。又は信仰を売り物にし、宗教的権威を振り回して、やもめのような弱い立場の人を食い物にするようなことをする人々の影響を受けてはいけないと言ったのです。それほど、当時の宗教的指導者たちは堕落していたのです。神殿と人間の魂はもっともっと清められなければならなかったのです。イエス様は、このような人たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになると、警告しているのです。
結
イエス様は神殿で、いろいろな人々の問答の挑戦を受けました。イエス様はその一つ一つに、逃げることなく誠実に答えていきました。ですが、律法学者たちの見せかけの信仰と不誠実には、非難せざるをなかったのです。彼らの問題を指摘し、正しい答えをすればするほどイエス様は、その命を狙われるようになりました。ですがイエス様はこの神殿で、神様とはどんな方か、権威とはどういうものか、復活はあるのか、メシアとはどんな方なのかなど、信仰の核心について語って行ったのです。そしてその事は私たちに、歩むべき信仰の道を示しているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様は、信仰の在り方について、いろいろと私たちに教えてくださいました。それはご自分の命を懸けて、私たちに残して下さった言葉です。私たちが見せかけだけの信仰に陥らないように、正しい信仰とはどんなものかを教えて下さったのです。神様、どうか私たちもこの正しい信仰を受け継ぎ、次の世代に残していくことが出来ますように導いてください。私たちにはできることには限りがあるかもしれません。できないこともあるかもしれません。ですがあなたが共に居て下さって、導いてくださるのなら、私たちには何でも可能です。どうかあなたに委ねて、正しい信仰の道を歩んで行くことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆復活についての問答
ルカ 20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
ルカ 20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ルカ 20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
ルカ 20:30 次男、
ルカ 20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
ルカ 20:32 最後にその女も死にました。
ルカ 20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
ルカ 20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
ルカ 20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
ルカ 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
ルカ 20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
ルカ 20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
ルカ 20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
ルカ 20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
◆ダビデの子についての問答
ルカ 20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
ルカ 20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
ルカ 20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
ルカ 20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
◆律法学者を非難する
ルカ 20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
ルカ 20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
ルカ 20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」