家庭礼拝 2017年9月20日ルカ18章1‐17 やもめと裁判官のたとえ
賛美歌483わが主イエスよひたすら聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌492み神をたたえる心こそは
起
今日の聖書の箇所には、三つの小見出しがあります。一つ目は◆「やもめと裁判官」のたとえ、二つ目は◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえで、この二つはルカ福音書だけに書かれている譬えです。そして三つめは◆子供を祝福する話です。これはマタイにもマルコにも書かれています。
これらの話は比較的よく知られた話なので、最初の話では辛抱強く祈りなさい、二つ目の話ではファリサイ派の人の様に高ぶってはいけない、三つめは、イエス様は子供をも受け入れて下さる、と言ったような型通りの受け止め方をしていて、イエス様がこれらの中で何を語ろうとしていたのか、あまり分からないままこの譬えを受け取っているような気がします。
これらの話がなされたのは、17章のイエス様の終末予言で、ノアの時代のように、ロトの時代のように神様に従わないものが、滅んでいくことを激しい言葉で語った後なのです。これを聞いた弟子たちや一般の人たちは、一体自分たちはどのようにしたらよいのだろうかと途方に暮れるような感じをしたのかもしれません。その時イエス様は、そのような思いを感じ取り、その時に必要な事は祈りであると言う事を語ろうとして、今日の聖書の言葉となるのです。ですから、これらの譬えを単独で知っているのと、この終末の話との関連で知っているのではその重みがずっと違ってくるのです。しかも、ここで語られる祈りとは、私たちがふつう思い描く、自分達の願い事を語るような祈りではないのです。それは神様に対する叫びに等しい祈りなのです。イエス様のゲッセマネでの祈りや、十字架上での祈りに似たものです。私たちが、終末を迎えて、自分達にはもうどうしようもないと感じられるときの、必死の祈りであり叫びなのです。
今日の三つの小見出しの話の主人公は、社会的に、とても弱い立場におかれた人たちの話です。その中でも代表的なのはやもめです。第一の話に出てくるやもめは、頼る人もなく、頼れるお金もなく、悪いものから身を守る術を失っている、そのような立場の人です。第二の話に出てくるのは、社会的には、罪人として、ユダヤ人との交わりを絶たれ、軽蔑されて生きている、徴税人です。第三の話は、自分では全く生きるすべを持たない乳飲み子です。イエス様は、このように弱い立場の人を前面に立たせて、祈りとは何か、謙遜とは何かを語ろうとしているのです。
承
では、最初の◆「やもめと裁判官」のたとえです。1節から3節です。
ルカ
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
ルカ
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
ルカ
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
この話の導入部です。イエス様は終末予言の滅びの話をした後、人々が途方に暮れている様子なのに気が付いて、終末の時に大切な事を教えました。この話は主には弟子たちに、そして周りにいる群衆に対して話をしています。それは、その様な終末の出来事が現れても気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えているのです。そして語った譬え話は、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官、とやもめの話です。この裁判官はユダヤ人ではありません。ユダヤ人ならば裁判には掛けずに、長老の所に行って、相談するはずなのです。しかもこの裁判官は神を畏れず、人を人とも思わない人なのです。裁判官であるにもかかわらず、無慈悲で、利己的で傲慢な人間なのです。そこに一人のやもめが、その裁判官の所に来て、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言ったのです。当時やもめと言うのは、弱い立場のものの代表者です。誰も守ってくれる人がなく経済的にも貧しい人が多かったのです。ですからそれに付け込んで、不法な無理強いをする者たちが多かったのです。このやもめは、この裁判官に、相手の不法を裁いて守ってくれるようにと願ったのです。当然の願いです。いったいこの裁判官はどうしたでしょうか。4節から5節です。
ルカ
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
ルカ
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
この様な裁判官と言うのは公平な裁判をしようなどとは考えていないのです。自分の得になる事ならやるけれども得にもならないことには、指一本動かそうとしないのです。ですから多くの場合、裁判官を金で買収して、自分に有利に裁判を行うと言う事が一般的に行われていたのです。やもめは貧乏ですから、この裁判官にわいろを贈るような事は出来なかったのです。ですから、この裁判官はやもめが訴え出ても、しばらくの間は取り合おうとしなかったのです。ところがその裁判官はその考えを変えました。なぜならば、そのやもめの女の人はひっきりなしにやって来ては、訴え出て、自分の仕事や、自分の休息の時や、自分の睡眠時間を奪っていくからです。それでその裁判官は、そのやもめに同情してではなく、そんなことはどうでもいいが、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろうと考えたのです。自分が楽になるために裁判をしようとしたのです。きわめて利己的な動機でそうするのですが、そうすれば、もう訴えに来なくなり、静かに休むことが出来るだろうからと思ったのです。そうしてこのやもめのために裁判を開くのです。
この譬えを語った後、イエス様はこう言われました。6節から8節です。
ルカ
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
ルカ
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
ルカ
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
この不正な裁判官は、自分に利益がないと分かると、やもめの裁判を受ける正当な権利を無視していたにもかかわらず、しつこくやもめの人が訴え出てくると、うるさくてかなわないという理由で、このやもめの要求を聞いてやるのです。この様な不正な裁判官でさえ、しつこく願い求めてくると、それに根負けして、それを聞き入れてくれるのだから、ましてや神様が、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに彼らを放っておかれることがあろうか、と言ったのです。イエス様は、神様は粘り強く、叫び求め祈って来る人々を放って置かれることはない事を言ったのです。神様は必ず、速やかにその祈りを聞いて裁いてくださると言うのです。ですがイエス様の気がかりは、神様がその祈りを聞いてくれるかと言う事よりも、そのような、熱心な信仰をもって、神様に願い求めるものがいるだろうかと言う事なのです。問題は聞いてくれない神様にではなく、信仰をもって祈り求めない人間の側にあることを言っているのです。だから真実な信仰をもって、神様に叫び祈り求めなさいと言っているのです。そうすれば叶えられると言っているのです。
この熱心に祈り求めなさいと言う譬え話は前にも聞いたことがあるような気がします。それは、ルカ11章5節から8節の所で、真夜中に来た旅行中の友達のために、夜中にパンを借りに来た人が、執拗に頼んでパンを借りることが出来たという話によく似ています。その時はイエス様が、「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」という有名な言葉を残してくれました。この時の場面も、弟子たちがイエス様に祈ることを教えてくださいと願って主の祈りを教えてもらった後なのです。ですからこれらの事は皆、熱心に祈ることの大切さを語っているのです。私達がどのような場面に出会っても絶えず真剣に祈り求めなさい、というのがイエス様のメッセージなのです。
転
イエス様が、この祈りの事を弟子たちに語っているときに、それをあざ笑うかのように見ている人々がいました。その人々とはファリサイ派の人々です。この人々は自分たちは正しい人間だから、そんな祈りをしなくても、神様に救われるに違いないと考えている人々だったのです。そんな祈りに頼ろうとする罪人たちを蔑んでいるようです。その様な人々に対して、イエス様は、もう一つの祈りの譬えを語ったのです。9節と10節です。
ルカ 18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
ルカ 18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
この自分は正しい人間だと己惚れて、他人を見下している人々と言うのはファリサイ派の人々です。その人々に対して、イエス様は神殿で祈る二人の人のたとえを語ったのです。その一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人の祈りはこうでした。11節と12節です。
ルカ 18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
ルカ 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
この祈りは祈りなのでしょうか。このファリサイ派の人は、自分がどんなに素晴らしい人間であったかを神様に自己申告しているのです。自分は信仰の優等生だと言っているのです。だから天国に入れてくださいと言っているのです。しかも隣で徴税人が祈っているのを聞きながら、自分は声を出さずに、取り澄まして、自分がこの徴税人のようなものでないことを感謝しますと、蔑んでいるのです。イエス様はこのようなものは祈りではないと言っているのです。先ほどの不正な裁判の話の中の、やもめのように必死で、訴えかけるような祈りが本当の祈りだと言っているのです。そして、次にはこの徴税人の祈りを語りました。13節と14節です。
ルカ 18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカ 18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
この徴税人は蔑まれていることを知り、遠くに離れ、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈ったのです。むしろ神様に対して叫んだのです。自分は罪人であることを認め、その心にある苦しみを神様に打ち明けて、私を憐れんでくださいと、へりくだって願い求めたのです。イエス様はこの二人を比較して、神様によって義とされたのはこの徴税人であって、ファリサイ派の人ではないと言いました。なぜならば、神様は高ぶる者を低くされ、へりくだるものを高められるからであるというのです。イエス様の求める祈りはこのような祈りです。心の底から悔い改めて、神様に願い求める祈りです。イエス様は、どのような状況の中にあってもそのような信仰をもって神様に願い求めなさい、そうすれば神様は速やかにその祈りを聞いてくださると言っているのです。そしてそのために大切なのはへりくだった思いであることも語っているのです。そのへりくだった思いの大切なことを語るために次の◆子供を祝福する、話へと続きます。15節から17節です。
ルカ 18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
ルカ 18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
ルカ 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここでは乳飲み子は主人公になります。生まれて間もない乳飲み子を偉い先生に祝福してもらうことは当時としてはよくあったことです。それで、イエス様の評判を聞いて、イエス様に触れていただき、祝福してもらうために乳飲み子を連れてきた人たちがいました。ところが弟子たちは、これを見て叱ったとあります。なぜ叱ったかと言えば、イエス様に気を使ったのです。イエス様が病人の癒しや、宣教の旅で疲れていると思って、そんな乳飲み子までもがイエス様を煩わせてはいけないと考えたのです。ところがイエス様は、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言ったのです。乳飲み子は弱いものです。誰かが助けてくれなければ生きていくことはできません。その様に弱いものなのに、神の国はこのような者たちのものであると言いました。先ほどのファリサイ派の人と徴税人のたとえでは、へりくだる者でなければ、神様に受け入れられないと言う事を学びました。乳飲み子はまさに、自分の力で生きる事は出来ず、ただ生かされていることを受け入れるものです。その様にへりくだって、ただ恵みを受け取り受け入れるものこそ、神の国に入る人であると言う事なのです。私たち大人は、自分の力で何とかしようと思いすぎなのです。ファリサイ派の人々は、自分の努力で律法を守り、神様に受け入れてもらおうと努力し、そしてそれを自己申告して、救われようとしました。その様なものが神の国に入るのではないと言う事です。むしろ、徴税人のように、自分の無力を感じ、ただ神様に憐れんでくださいと願い、乳飲み子のように、自分の力でどうこうするなど全く考えず、ただ与えられたものを喜んで受け入れるものこそ神の国にふさわしいと言う事なのです。その意味ではファリサイ派の人々は全く間違った努力をしていたのであり、私達もまた同じ過ちを犯そうとしているのかもしれません。私たちに必要なのは、ただ神様の御力により頼んで、自分に頼ろうとしている思いを捨て去ることなのかもしれません。
結
今日は祈りについて教えられました。祈りは主の祈りがイエス様から与えられておりますが、今日の祈りの教えは、心の底から叫ぶように神様に訴える祈りです。私たちが終末の恐ろしい出来事にあって自分の無力を感じ途方にくれた時、イエス様は、祈りなさい神様に叫び求めなさいと教えて下さったのです。自分の無力を感じただ神様の憐れみを信じて願い求めなさいと教えて下さったのです。そうすれば神様は私たちを神の国へと救われるだろうと言う事なのです。そのために必要なのは謙遜です。幼子の様に謙遜なものとなることが神の国へ至る道なのです。それは自分の力でできることではなく、ただ神様に委ねることなのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私達は自分の力でどうしようもなくなった時、ただあなたにより頼みあなたの憐れみを信じて、祈り叫び求めることが許されています。私達が本当に悔い改め、へりくだった思いであなたに願い求めるならば、あなたはその祈りを速やかに聞いてくださるとの約束があります。これは私たちの最後の砦です。私達にはそれが与えられております。神様、私たちがどんな時でもあなたのもとにある希望を失うことなく、最期の時まで祈り求めていくことが出来ますように導いてください。私たちの信仰がどうかあなたに受け入れられるものでありますように。御心にかなうものでありますように、導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆「やもめと裁判官」のたとえ
ルカ 18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
ルカ 18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
ルカ 18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
ルカ 18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
ルカ 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
ルカ 18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
ルカ 18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
ルカ 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
ルカ 18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
ルカ 18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
ルカ 18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
ルカ 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ルカ 18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカ 18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
◆子供を祝福する
ルカ 18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
ルカ 18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
ルカ 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」