家庭礼拝 2017年9月6日ルカ17章1‐19許し、信仰、奉仕
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起
ここのところ、イエス様の話がずっと続いています。その話の流れを少し振り返って見ましょう。前回も言いましたが、15章では見失った羊の話や、放蕩息子の話をあげて、神様とは、罪のために神様から離れていったものを、何時も探し回り、また辛抱強く帰ってくるのを待ってくださる神様であると言う事を学びました。そして、16章では、不正な管理人の話や、金持ちとラザロの話から、私たち人間とは、その持っているすべてのものが神様から与えられたもので成り立っているのであって、自分だけのものと思っていると大きな罪に陥るとの話を聞きました。
すなわち、15章では神様とはどんな方か、16章では、人間とは何者か、を学んだのですが、17章で語ろうとしているのはどんなことでしょうか。それは、信仰者とは何か、を語っているのです。いわば信仰者としての心構えと言っても良いかもしれません。そして、今日は、その中で、二つの小見出しの部分、一つは、許し、信仰、奉仕という小見出しと、二つ目は、重い皮膚病を患っている十人の人をいやす話とを学びます。最初の小見出しの、許し、信仰、奉仕の所では、幾つかの教訓がバラバラに語られているように思われますが、それぞれにつながりのある話であることに注意して読んでいきましょう。そしてまた、今日の話は、15章、16章の話を受けて、弟子たちに対して、信仰者とはどのようなものであるかを、語って弟子訓練をしているのだと言う事を思い起こしながら読んでいきましょう。今はイエス様たちはエルサレムに向かう途中です。もう時間はなくなってきたのです。ですから、イエス様は弟子たちに大切なことをしっかり伝えておこうという気持ちで語っているのです。
承
まず最初にイエス様は弟子たちに、つまずきの話をしました。ここで語られるつまずきとは、私たちが語るような、単なる小さな失敗の事ではありません。その様に理解するとその後の話との脈絡がなくなってしまうのです。ここで語られているつまずきとは、罪への誘惑、の事です。すなわち、放蕩息子が父の元を離れて、自由に放蕩したいと思うような誘惑にかられることです。この様に、この17章も、15章16章とつながりがあるのです。では、1節と2節です。
ルカ
17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
ルカ
17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
ここでイエス様が語っているのは、罪への誘惑にかられるのはしょうがない、と認めているのです。罪への誘惑はなくなるわけではないのです。私たちはその誘惑にかられた時に、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と誘惑に流されないように、神様にお願いして守っていただくのです。それが信仰なのです。ですがイエス様がここで言っているのは、その罪への誘惑をもたらす人の事です。その様な人は不幸だと言うのです。罪への誘惑をもたらす人と言うのは、エデンの園での蛇であり、果実をアダムに食べさせようとした、エバであるのです。その様に罪への誘惑に引きずり込もうとするものは、首にひきうすをかけられて、海に投げ込まれてしまう方がましである、とイエス様は言いました。すなわち、罪を犯すことよりも、誘惑して罪を犯させるものの方が、ずっと罪が重いと言う事を言っているのです。
そして、イエス様は弟子たちに、このように教え諭したのです。3節と4節です。
ルカ
17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
ルカ
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
イエス様の考えの中には、その躓きをもたらすものとは、罪への誘惑をするものだけではなく、その罪を見ていながら知らんふりをしているものも含まれているように思われます。ですから弟子たちに、あなたたちも気をつけなさいと言って、もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい、と言ったのです。その罪に陥ってはいけないとはっきり言いなさいと言っているのです。そして、もしその罪を悔い改めたならば、罰したり、何時までも怨んだりしないで、許してやりなさいと言いました。イエス様が言おうとした大切なことは、信仰者とは赦すものである、と言う事なのです。そして隣人が罪に陥ることから救い出してやることなのです。
イエス様は、どのようにその罪を赦していけばいいのかと言う事を具体的に語っています。イエス様はこう言いました。4節です。
ルカ
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
イエス様は、一日に7回も罪を犯しても、謝って来たならば、全て赦してあげなさいと言っているのです。7と言うのは完全数ですから、7回赦すと言うのは、完全に許すと言う事なのです。実は、当時のユダヤ教の教師の教えに、3回赦すものは完全な人間であるという、諺があるのだそうです。イエス様の教えはその倍以上の事なのです。さらにペトロがイエス様に訊ねた時には、7の70倍許しなさいとさえ言っているのです。それほど、信仰者にとって赦すことは大切な事なのです。クリスチャンに有っては、許さないクリスチャンはあり得ないのです。恨みを懐いているものはクリスチャンではないのです。しかしこれはとても難しい事です。この赦すことができないことを知った時、私たちは自分の罪深さを、心から知るのです。自分の力で許すことができない憐れな人間であることを知るのです。
弟子たちがこのイエス様の許しなさいと言う言葉を聞いた時、自分達の信仰ではとてもこのように一日に7回も許すことなどできるはずがないと思ったはずなのです。それは今聞いている私達にも当てはまる事なのです。それで、弟子たちはイエス様に質問したのです。5節と6節です。
ルカ
17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
ルカ
17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
弟子たちは、こう考えたのです。私たちの信仰は少ないから許すことができないのだ。もっと信仰が与えられれば、信仰が強められれば、きっと許すことができるようになるだろう、そう思ったのです。それでイエス様に、私どもの信仰を増してください、とお願いしたのです。ところがイエス様は、信仰とは小さいとか大きいとかではない、有るか無いかだと言ったのです。すなわち量の問題ではなく質の問題だと言ったのです。そして、もし辛子種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせと言っても、言う事を聞くだろうと言ったのです。辛子種とは、一番小さいもののたとえです。そして桑の木とは大きいもののたとえです。それはほんのちょっとの信じる信仰があれば、どんな大きなことでもできるだろう、というのです。それが出来ないのは信仰が少ないのではなくて、信仰がないのだと言う事を、イエス様は言おうとしたのです。そして小さくても良いから本当の信仰を持ちなさいと弟子たちに教えたのです。
これでイエス様は二つの教えをしました。一つ目は赦しなさい、二つ目は本当の信仰を持ちなさい、です。それでは三つめは何でしょうか。小見出しでは奉仕となっていますが、むしろ神様に対して得意になってはいけない、と言う事を言おうとしてます。すなわちどんなに神様の命令を守ったとしても、それで得意になって、神様から何か貰えるだろうと期待してはいけないと言っているのです。この過ちを犯しているのがファリサイ派の人々なのです。律法と言う戒めを沢山しっかり守れば、きっと神様から、大きな報いが与えられるだろうと思っていたのです。そして自分たちが一番その律法をよく守っていると誇り、他の人達を見下していたのです。ところがそうではないことを、イエス様は語りました。7節から10節です。
ルカ
17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
ルカ
17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
ルカ
17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
ルカ
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
この譬えの中で、主人とは神様の事で、僕とは人間の事です。人間が、神様の命じたことを果たしたからと言って、神様は人間に感謝するだろうかと言う事なのです。私はこんなに立派に律法を守っているのですから、神様、私を天国に入れてください、と言ったような要求をするな、と言っているのです。そうではなくて、しなければならないことをしただけですと言いなさいと言っているのです。私たちは神様に恩着せがましいことを言う権利はないのです。良いことをしたからと言って、何かを要求できるわけではないのです。神様に対して、もっと謙遜になりなさいとイエス様は教えているのです。
ここでの三つの信仰者としての大切な教えは、実はファリサイ派の人々を念頭に置いて言っているような気がします。躓きをもたらすものとは、ファリサイ派の人々の教えであり、許しなさいとは、罪人を赦さないファリサイ人の様になってはいけないと言う事であり、命じられたことを果たして得意になっているファリサイ派の人々の様にではなく、謙遜に、しなければならないことをしただけです、と言うものとなりなさいと言う事を言っているのだと思います。
転
そして、やっと場面は代わって、イエス様がエルサレムに向かう途中のガリラヤから、サマリアに入る国境の近くでの話に変わります。10章で、マルタとマリアの話が出てきたので、もうエルサレムが近いのかと思いましたが、まだサマリアの国境近くにいたのです。サマリア人とユダヤ人は仲が悪く、ユダヤ人はサマリア人の事を罪人とか汚れたものとかと思っていました。ですから一緒にいることは普通なかったのです。この出来事はその時起りました。11節から13節です。
ルカ 17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
ルカ 17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
ルカ 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
イエス様がエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた、というのはちょっと意味が分かりかねるのですが、サマリアとガリラヤの国境沿いを歩いたと言う事だと思います。当時はサマリアにガリラヤから入るのは出来なかったのです。なぜならば、サマリア人は旅人がサマリアからエルサレムに向かうのをとても嫌っていたからです。その反対に、エルサレムから下ってガリラヤに抜けることには寛容だったのです。サマリア人にはエルサレム神殿に対する、敵愾心があったのです。ですから、イエス様たちもサマリアには入らずに、その国境沿いの道を歩いてサマリアを迂回していたのだと思います。そしてある村に入ると重い皮膚病を患っている10人の人が出迎え遠くの方に立ち止まっていたというのです。この病気の人達は普通の人達に近づくことは許されていなかったのです。ですから遠くに離れて、イエス様に呼びかけようと思って、待っていたのです。そして、イエス様が来られたので、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。この人々はイエス様にいやす力があることを聞いて知っていたのです。
するとイエス様はどうしたでしょうか。14節から16節です。
ルカ 17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
ルカ 17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
ルカ 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
この重い皮膚病を患った10人の内大半はユダヤ人だったと思います。そしてその中にサマリア人もいたのです。普通ユダヤ人とサマリア人は一緒になることはありませんでした。サマリア人は罪人であり汚れていると思われていたからです。ところが重い皮膚病を患った人たちも、罪人であり汚れていると思われたので、もうユダヤ人もサマリア人も同じになって一緒にいたのです。その人たちの呼びかけに応じてイエス様はその重い皮膚病の人達に近づき、その病気の人達を見てやったのです。イエス様がどれだけ近づいたのかはわかりませんが、その人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言ったのです。これはその重い皮膚病が治った時に、その事のお墨付きをいただくために祭司に見てもらって、治ったことを保証してもらうことになっていたからです。この10人の人々はまだ直っていませんでしたが、イエス様がそのように祭司に見せなさいと言ったと言う事は、祭司に見せた時には治っていると信じることができるのです。中には半信半疑だった人もいたはずです、中にはすっかり信じてもう治ったようなものだと思った人もいたのです。この10人の人達は、祭司の所へ行く途中で、体がいやされ、清くされたことに気が付きました。きっとみんな喜んだと思います。そして祭司の所に行ったと思います。その中の一人の人は、自分がいやされたことを知って、大声で神を賛美しながらイエス様の所に戻って来たのです。そして、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人だったと書かれています。普段は軽蔑されているサマリア人にも神を信じ感謝と賛美に溢れている人々は多くいたのです。
イエス様はこの一人の人が戻って来てイエス様の足元にひれ伏して感謝したので、他の人達はどうしたのだろうと思ったのです。17節から19節です。
ルカ 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
ルカ 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
ルカ 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
イエス様は、戻ってきて感謝したのが外国人のサマリア人しかいなかったのに失望しました。願うときには、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言っていたはずなのに、願いが叶うと感謝することをすっかり忘れてしまうのです。これも私たちも犯しがちな過ちです。むしろ願いがかなえられた時に、感謝することが大切なのです。イエス様はこの戻ってきたサマリア人に、特別の祝福を与えました。そしてこう言ったのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この事は、10人はイエス様によって体の癒しが与えられたけれども、この戻ってきた人は、イエス様によって、霊的な救いをも与えられたのです。あなたの信仰があなたを救ったというのは、体だけではなく罪も許され、霊的にも救われたと言う事なのです。ですから感謝をささげることはとても大切な事なのです。
結
今日の聖書の箇所では、許しなさいと言う事を教えられました。どんなに罪を犯しても悔い改めたならば許しなさいと言われました。でもそれはできないと思う人に対しては、からしだね一粒ほどの信仰があれば何でもできるとも言いました。自分の力では許すことが出来なくても、信仰さえあれば、神様の力によって許すことができることを私たちに教えてくれたのです。そしてクリスチャンとはそのように信仰によって許すことの出来る人たちの事であることを教えてくれたのです。
もう一つの教えは、願いが叶えられたら感謝しなさい、と言う事です。自分の願いさえ叶えばいいと思うような恩知らずになってはいけないと言う事です。感謝することは、願いがかなえられたほかに、私たちが霊的にも救われる道を備えて下さるのです。あなたの信仰があなたを救ったと言われるものとなっていくのです。今日はこの二つの事を学びました。どれも私たちの信仰にとって不可欠なものなのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは赦せない時に自分の罪深さを思うものです。自分の力ではどうしようもなく、許せない時があるからです。ですが、私たちが信仰をもって神様の力で許すものとなる時、私たちは救われます。どうか自分の力で許すものではなく、ただ信仰によって許すものとなることが出来ますように。そしてもう一つ感謝しなさいと言う事を教えられました。私たちはいつも祈っておりますが、恩知らずな祈りです。願い事ばかりで感謝することを忘れています。心では感謝しているのだと言い訳をして、本当の感謝を捧げようとはしていませんでした。ですがイエス様は感謝をささげたものには、もっと霊的な賜物をも与えられることを教えてくださいました。神様どうか私たちが、目先の救いだけではなく、信仰によって霊的な救いも与えられるように導いてください。感謝し賛美するものとさせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆赦し、信仰、奉仕
ルカ 17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
ルカ 17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
ルカ 17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
ルカ 17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカ 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
ルカ 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
ルカ 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
ルカ 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
ルカ 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
ルカ 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
◆重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
ルカ 17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
ルカ 17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
ルカ 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
ルカ 17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
ルカ 17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
ルカ 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
ルカ 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
ルカ 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
ルカ 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」