家庭礼拝 2017年8月30日ルカ16章19‐31金持ちとラザロ

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起 

 今日の譬え話は、前回までの譬え話と関連はあるのでしょうか。15章は失われた者たちを神様は探し求めているという三つの譬え話をしました。16章では不正な管理人の譬え話をしましたが、今日の金持とラザロの話はこれらと関連はあるのでしょうか。このラザロと言う名前は復活したラザロの名前でも有名ですが、これはエルアザルが縮まった語り方で「神は我が助け」と言う意味です。イエス様の譬え話で、具体的な名前が出てくる譬え話はこのラザロと言う名前だけです。

 先週の不正な管理人のたとえでは、この管理人が自分が不正をしていることを告げ口されて、主人から会計報告を出すように言われたのですが、どうせ首になるなら、今の自由になる間に、その主人の財産を使って、困っている人たちに恩を売っておこうという話でした。この抜け目ないやり方を、この主人は賢い方法だと言ってほめ、イエス様は不正にまみれた富で友達を作りなさいと言ったのです。これは、終末の時この会計報告をするために神様の前で申し開きをするときに、少しでもその罪が軽くなるように準備しておきなさい、と言う事なのです。この不正な管理人は不正な方法ながらも、その終末の時の準備をしたと言う事なのです。だからイエス様は、お金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる、と言ったのです。それはその準備の結果なのです。

 今日の話は、その準備をしなかった人の譬え話と受け取ってもいいでしょう。この16章の三つの話、不正な管理人のたとえと、律法と神の国の話と、金持ちとラザロの話は、神様から与えられたものをどのように用いるものが神の国に入ることができるかと言う事を語っているのです。不正な管理人は、自分の使っている財産は主人のものであることを知っていて、その不正を働いたのです。このラザロに対する金持ちは、私たちと同じように、そのお金は全部自分のものだから、自分の好きなように使っていいのだと思い、この惨めな人生を送っているラザロに少しの憐れみもかけてやることがなかったのです。この金持ちは決して、ラザロを追い出そうともせず、ラザロがパンを拾うことを嫌がることもしないで、一切無視していたのです。この金持ちにとって、ラザロはその辺にいる虫と同じだったのです。今日の話は、隣人に対して、良いことをした人の話ではなく、何もしなかった人の話です。

 振り返って見れば、15章は、神様とはどんな方であるかを語っており、私たち罪人を探し求めて神の国へ連れ帰ろうとしている方であることを語っています。16章の話は、人間とはどんなものであるかを語っているのです。それは人間の持っているものはすべて神様のものであり、与えられたものであるから、それを人々のために神様の御心にかなって用いているかどうかを問われる存在であると言う事なのです。

それでは、金持ちとラザロの譬え話を読んでみましょう。この話は不正な管理人の譬えを聞いて嘲笑ったファリサイ派の人々に向かって語っています。19節から21節です。

ルカ 16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ルカ 16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

ルカ 16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

これは、この金持ちとラザロがこの世に生きていた時にどんな生活をしていたかを語っています。金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた、とありますから、これは相当の金持で、こんなに贅沢な生活をできる人はそんなにいなかったのです。この人は何時も紫の衣を着ていたというのですから、きっと祭司なのです。イエス様はこの譬えの中で祭司たちの贅沢な暮らしを風刺しているのです。イエス様をあざ笑った金に執着するファリサイ派の人々もその仲間なのです。

それに対して、ラザロはできものだらけで貧しい人であり、立っている元気もなく横たわっており、その金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていたのです。これは神殿の門前で、物乞いをしてやっと生きている、貧しく病んでいる今にも死にそうな人をイメージできます。犬さえもそのできものを嘗めに来たというほど、体は半分腐っているのですが、この金持ちはその存在を全く無視しているのです。この当時は食事をするときは、手づかみで食事をつかんで食べるので、手を拭くときにパンを使って、それを拭いて捨てるのだそうです。このラザロはその捨てられるパンを食べて、おなかを満たしたいと思っていたと言う事です。これほど惨めな人生があるでしょうか。このラザロはこの時、何を思っていたのでしょうか。

これほどの貧富の違いでこの世に生きていたものが、死んでしまってあの世に行った時どうなるだろうと言うのがこの話の本題です。そして話は、あの世の話になります。22節です。

ルカ 16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

二人とも死んだのですが、なんとラザロは、天使たちに導かれて、宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれたというのです。これは天国の上席にいると言う事です。金持ちも死んで葬られたのですが、どうなったのでしょうか。やはり天国のアブラハムの所に行けたのでしょうか。

 さてこの金持ちが、死んで目を覚まして気が付くと、陰府に落ちており、そこで苦しんでいたのです。23節と24節です。

ルカ 16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

ルカ 16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 この金持ちは、陰府での苦しさのあまり目をあげてみると、はるかかなたに、宴席でアブラハムと共に居るラザロが見えたというのです。そこでこの金持ちは、父アブラハムよ、私を憐れんでくださいと大きな声で叫びました。なぜならば、この陰府の世界は炎の中にもだえ苦しむような世界であり、この苦しみから解放されるために少しの水でいいから飲みたいと思ったのです。それで、昔のように、上から目線で、ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください、と言ったのです。

 これはこの世での生活と、あの世での生活とでは全く違うことを語っています。この世でラザロはできものだらけで炎症をして、その体は火に焼かれるような苦しみに有ったのです。一方金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て快適に暮らしていたのです。それが死んでからは、ラザロはアブラハムの側の宴席に座って満たされており、金持ちは陰府で炎の中にもだえ苦しんでいたのです。この世にいた時、ラザロは食卓から落ちるものでもいいからお腹を見たしたいという空腹にありました。この金持ちは毎日贅沢に遊び暮らし、ぜいたくな食事をしていたのです。ところが死んでからは、ラザロはアブラハムの宴席で満たされており、金持ちは指から垂れる水でもいいから飲ませてくださいと願っているのです。このように、この世の生活が、あの世でも同じように続くものでないことが語られています。むしろ反対の事が起こるのです。

 金持ちがアブラハムに助けてくださいと助けを求めた時に、アブラハムはこう答えたのです。25節と26節です。

ルカ 16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

ルカ 16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 アブラハムが言ったことは、生きている間に良いものをもらったものは、死んだ後、もだえ苦しむことになり、生きているときに悪いものをもらっていたものは、死んだ後、慰められる、と言う事でした。でも、この金持ちの男は、何も悪いことはしていません。ラザロに対して、追い返したりしなかったし、パンを拾うことも認めていたのです。いったいこの金持ちの男の人はどうすれば良かったのでしょうか。この金持ちの男は、自分の財産を神様から与えられたものと考えず、全て自分のもので自分が好きなように使えばいいのだという考えのまま、死んでしまったのです。ですから神様の前に出た時に、申し開きが出来ないのです。もしこの金持ちの男に、このままでは神様に裁かれるという思いがあったなら、不正な管理人が行ったように、その財産、もともとは神様のものなのですが、それを貧しい人や苦しんでいる人のために使って、神様に申し開きをする準備をしたかもしれないのです。これがこの金持ちと不正な管理人の違いなのです。すなわち、この金持ちは、自分以外の事には何の思いやりも持つことができなかったと言う事です。不正な管理人の方が、まだ、周りの困っている人々の事を考える思いがあったと言う事です。それが、本当の思いやりや慈しみでなくとも、そうすることは神様に受け入れられることなのです。それが出来るかどうかというところに大きな開きがあるとアブラハムは言いました。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」と言ったのです。

 このアブラハムの言葉を聞いて、この金持ちの男は、自分がしていたことがどれほど大きな罪であるかに気が付いたのです。それは、自分には有り余るお金があるのに、それを困っている人、苦しんでいる人のために用いなかった、そのような人の痛みに気が付かなかったと言う事です。この金持ちの男は、そのように苦しんでいる人々を見ても何もしなかったのです。何もしないことは律法的には罪ではないのです。ですが、イエス様の教えでは、苦しんでいる隣人に対して何もしないことは罪なのです。無視することは罪なのです。あなたの隣人を愛しなさいと言うのが、新しい掟だからです。良きサマリア人の話のように、隣人に対して手を差し伸べなさいと言うのがイエス様の教えです。この金持ちの男はその事に気が付いたのかもしれません。アブラハムに対して、自分の兄弟達にこの大切なことを伝えて、このような場所に来ることの無いように知らせてくださいとアブラハムにお願いしたのです。27節から31節です。

ルカ 16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

ルカ 16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

ルカ 16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

ルカ 16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

ルカ 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

 ところがアブラハムの答えは、モーセと予言者の言葉に聞きなさい、と言う事でした。モーセと予言者の言葉に聞くとは、旧約聖書の言葉に聞くと言う事です。その旧約聖書の言葉があるのだから、それに聞けばいいとアブラハムは言ったのです。ところがこの金持ちの男は、それだけではだめです、死んだものが生き返って兄弟に話してくれれば、そのような大きな奇跡を伴って教えてくれれば、きっと信じて悔い改めるでしょうと言ったのです。死んだラザロが生き返って話をすれば驚いて信じるでしょうと言うのです。するとアブラハムは既にある旧約聖書の言葉に聞き従わないのならば、いくら死者が生き返って、その事を話してもその言うことを聞き入れはしないだろうと言ったのです。

 これは律法学者やファリサイ派の人々が、イエス様がどれほどの奇跡を示してもイエス様が神様の使いであることを信じなかったのと同じなのです。既にある聖書の言葉を信じない者にはどんな奇跡の出来事も言葉も信じさせる事は出来ないのです。私達もまた、聖書の言葉が信じられないならば、イエス様が目の前に現れて奇跡をおこなっても、そのイエス様の奇跡を信じる事は出来ないし、その方がイエス様であることも信じないのです。まず最初に聖書の言葉に聞きなさいと言う事なのです。そして、自分の持っているものは皆神様のものであって、御心にかなうように用いなさいと言う事なのです。

 この金持ちの人は、何も悪いことをしていないように見えたのですが、本人も罪を犯しているとは思っていなかったのですが、重大な罪を犯していたのです。それは、自分の有り余る富を、自分が楽しむためだけに用い、神様のものとして神様の御心にかなう用い方をしなかったのです。どんなに貧しい人や苦しんでいる人がいても、その人たちに心を配ることをしませんでした。共に苦しむことはありませんでした。完全に無視していたのです。この金持ちの罪は、苦しんでいる隣人のために何もしなかった罪に問われたのです。その罪は、正しさに対して、乗り越えることの出来な深い淵の向こうにあったのです。この罪は自分から気が付かない限り知ることができないのです。それは聖書に聞くことによって知ることができるのですが、聖書に聞かないものはどんな奇跡で知らせようとしても決して信じることはできないと、イエス様は語っているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちの罪をお許しください。何もしなかった罪をお許しください。苦しんでいる人々、困っている人々に冷淡であった罪をお許しください。私たちの持っているものをそのような人々のために用いなかった罪をお許しください。私たちの持っているものはみなあなたのものであり、そのもてるものをあなたにお返しするように、隣人のために用いていくことが出来ますように。イエス様の教えてくださいました、隣人を愛することを実践できますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆金持ちとラザロ

ルカ 16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ルカ 16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

ルカ 16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

ルカ 16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

ルカ 16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

ルカ 16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

ルカ 16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

ルカ 16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

ルカ 16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

ルカ 16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

ルカ 16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

ルカ 16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

ルカ 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」