家庭礼拝 2017年8月23日ルカ16章1‐18不正な管理人のたとえ
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起
今日の聖書の箇所はとても分かりにくい箇所です。何故かと言えば、イエス様が不正を喜び不正を勧めているようにも解釈できるし、全体の話の運びがどうも理解しにくいのです。この譬え話と、結論である、神と富とに仕えることはできない、という話とどのように結びつくのかが良く分からないのです。ですが、視点を変えて、むしろイエス様が言おうとしているのは、私たちが、神様のもの、すなわち、自分の時間や、お金や、財産や、能力を神様から、しっかり管理するようにと与えられたものであり、決して自分のものではないと言う事を念頭においてこの譬え話を理解すると分かりやすいのではないかと思います。
私達は、普通、自分のものは自分のものと考えて、自分が自由に使ってよいものと考えて、それをどう使おうと誰からも文句を言われる筋合いはないと考えています。今日の話はその前提が違うのです。自分のものは神様から与えられたもの、だから神様の御心にかなうように使わなければならないと言う事なのです。
この視点に立って、この譬え話を読むと、いろいろな言葉が別の言葉に変換されます。主人の財産を無駄遣いしているというのは、神様から与えられた、時間や、能力や、財産や、健康を、神様の御心にかなわないような無駄な使い方をしていると言う事です。これは普通、自分のためにしか使っていないと言う事です。そういわれると、私たちも、この管理人と同じように、自分のものは自分のものとして、神様のものを無駄遣いしていることが分かります。
この主人が会計報告を出しなさいと言いましたが、この会計報告と言うのは、私たちの人生の清算をすること、死んだときに神様の前で、果たして神様に忠実であったかどうかを申し開きをしなければならないところと考えるのです。
主人に借りのある人とは誰の事でしょうか。それはいつも神様に願い事をして、神様から恵みを与えられている人です。多くは貧しい人や困っている人が多い事でしょう。この管理人はそのように、神様に願い事をして生きているような人に利益を与えて、自分の味方につけて、この危機を乗り越えようとしているのです。
不正にまみれた富とは何でしょうか。これを私たちの常識のイメージで、違法な事をやって手にいれた富、と考えると、まるでイエス様が違法な事を進めているように思われてしまうのです。これはそうではないでしょう。不正にまみれた富とは、単に、神様の事を考えて得た富ではなく、単純に利己的な思いで得た富、自分の事だけを考えて得た富と言う事ではないでしょうか。それは神様から見れば、不正にまみれた富なのです。私たちの感覚では、決して不正にまみれているようには思わないのですが、御心にかなわない富なのです。
一応前提条件と、言葉の基本的な解釈をこの様に見ながらこの話を聞いていくと分かりやすいのではないかと思います。
承
では、不正な管理人のたとえに入ります。先週までの、三つの失ったものが帰ってくる譬えの話は、罪人たちを排除しようとするファリサイ派の人々に対して語られました。ですが、今日の不正な管理人のたとえは、弟子たちに対して語られていることに注意しましょう。まず話の出だしはこうなのです。1節です。
ルカ
16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
ある金持ちとは、神様の事です。一人の管理人とは、私たちの事です。すなわち、神様から、神様のものである、時間や、健康や、財産や、能力を託されている者達です。その管理人に対して主人に告げ口をする人がいました。神様に告げ口をするものとはサタンの事です。どのように告げ口をしたかというと、主人の財産を無駄遣いしている、と告げ口したのです。管理人とは神様の財産を神様に代わって、神様の御心にかなうように管理し、使用する人の事ですから、その人が主人の財産を無駄遣いしている、というのは神様のためではなく、自分のためにだけ使っている、と言う事なのです。そうしたら神様はどうしたでしょうか。2節です。
ルカ
16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
この様に言ったのです。会計報告を出しなさい。無駄遣いしているなら管理を任せておくわけにはいかない、と言ったのです。管理人をやめさせられると言う事はどういう事でしょうか。これはこの世での命がなくなる、使える時間も、体も、富も、力も何もかもなくなってしまうと言う事です。その判断をするために会計報告を出しなさいと言ったのです。それは、その人の人生が終わった時の、神様から受けたものと、それをどのように使ったのかを示す報告書です。この管理人は自分のために無駄遣いしていたのです。ですからもう管理人をやめさせられると覚悟しました。ここからが、この話の不思議な展開が始まるのです。この管理人はいったいどうしたのでしょうか。3節から7節です。
ルカ
16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
ルカ
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
ルカ
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
ルカ
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
ルカ
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
この譬え話では、この管理人は仕事を取り上げられたらどうしようかと悩んでいます。他の仕事で生きていける自信はないようです。そこで一生懸命に考えた結果、いい考えが浮かびました。それは、管理の仕事を辞めさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだという考えでした。そうすれば、そのような人たちの家に居候して、暮らしていけるだろうという考えなのです。ですが、どうしたら迎えてくれるのでしょうか。それは、自分の主人に対して、借りがある人たちの借りを、軽くしてやれば、きっと喜んでくれて、自分が仕事を首になっても、迎えてくれるだろうと考えたのです。そして、まだ自分が管理者として自由にできる間に、その人たちの証文をその人たちと一緒に書き直して、その借りを軽くしてやったのです。借りを軽くしてもらった人たちは喜び感謝したと思います。この事はいったいどのように解釈したらよいのでしょうか。この管理人は、まだ自由でした。今の私たちと同じです。そして神様のものを勝手に使って、神様に対して負債のあるものの負債を軽くしてやり、助けてやったと言う事になります。すなわち、例えば、信仰的でない方法で集めたお金を使って、信仰的でない方法で、困っている人たちを助け、たとえ神様から見放されたとしても、自分を見放さない友達を作ったと言う事になります。このような事をした管理人を、その主人はいったいどのように罰するのでしょうか。8節と9節です。
ルカ
16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
ルカ
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ここで、8節を語っているのは、この譬えの主人です。この主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのです。それは、不正にまみれた富、すなわちこの主人の財産を勝手に使って、友達を作り、困ったときに自分を迎い入れてもらえるようにしたからなのです。この主人は、管理人が首になった後どうするのだろうと心配していたのかもしれません。それを、そんな心配するどころか、勝手に財産を使って、友達を作って、迎い入れられるようにしていたのです。このように抜け目なく、自分の自由と主人の財産を使って、利己的な目的ではあるが、負債のある人たちを助けたと言う事を、この主人は呆れて褒めたのです。
そして、この譬えの後で、9節を語っているのはイエス様です。イエス様はこの譬えの管理人のように、不正にまみれた富ででも友達を作りなさいと言っているのです。そうすれば、困ったときには、その友達によって平安が与えられるからと言っているのです。ここで誤解しやすいのは不正にまみれた富と言う言葉です。それは人のものを勝手に使った、泥棒をして得たような富と受け取ってしまいます。ですがそうではないのです。この富は、神様の富です。人のものではないのです。神様のものを使ってするのなら、いくらでも使って、友達を作りなさい。友達に良い事をしてあげなさいと言う事です。神様のものとは、この世で私たちに与えられた、時間や、お金や、体力や、能力です。その様なものを使って、利己的な目的であっても、仲間を助けてあげるならば、神様はそのことをほめてくれると言う事です。その様な神様に与えらえられたものを、自分のものと誤解して、自分勝手に使ったとしても、それが隣人のためになる事ならば、それは神様の喜ぶことであると言う事です。
そしてイエス様はその結論のように、天国とこの世の事について語ります。10節から13節で語られる、小さなこと、大きなこと、とか、不正にまみれた富、本当に価値あるもの、とか、他人のものと、あなた方のもの、とかは皆、この世の事と天国の事を対比させて語っているのです。その様な意味のある言葉だと言う事を心において、10節から13節を読んでみましょう。
ルカ
16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
ルカ
16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
ルカ
16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
ルカ
16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここで言われているのは、この世の事に忠実なものは、天国の事にも忠実である。と言う事や、この世の富に忠実でなければ、誰があなた方に天国の富をまかせるだろうかということです。この不正な管理人は、天国の富の管理に関しては不正を行ったのですが、この世の富の使い方には正しいものがあったのです。それは隣人を助けたと言う事なのです。そして、最終的には、あなた方は、神と富とに仕えることはできないと結論付けています。それは神に仕える者は富みを憎み、富に仕える者は神を憎むようになるからです。それでは、この不正な管理人はどちらに仕えたのでしょうか。この不正な管理人は、この富が神様のものであることを知っていたのです。決して自分のものにしようとしたのではないのです。ですから、その富を自分のものにしなくても隣人に分け与えてやれば、いつか自分にもいいことが帰って来ると考えたのです。すなわちこの管理人は決して富に仕えたのではなく、その富が神様のものであることをしっかり認識していたと言う事なのです。そのうえで人々に施し、自分にもその恵みが回ってくることを期待したのです。そしてその抜け目のないやり方を、その主人は褒めたと言う事なのです。
転
イエス様がこのような話を弟子たちにしていたのですが、ファリサイ派の人々もその話を聞いていて、イエス様をあざ笑いました。それは何故でしょうか。14節と15節です。
ルカ 16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
ルカ 16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
それは、イエス様の話を聞いていたのが、お金に執着するファリサイ派の人々だったからです。イエス様が、神と富とに仕えることはできないと言ったことに対し、このファリサイ派の人々は自分達は神様にも仕え、富も沢山ある、これは神様から祝福されているからだ、と考えていたからです。ですから、神と富とに同時に仕えることはできないと言ったことをあざ笑ったのです。するとイエス様は、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」と言ったのです。このファリサイ派の人々は、自分達は神様に仕えつつ、お金も沢山ある、と自分の正しいことを見せびらかしていたのです。ですがイエス様は、神様はあなたたちの心をご存知である、と言いました。このファリサイ派の人々はお金に執着していて、神様を軽んじていることを、神様はご存知であると言っているのです。そして人に尊ばれるものは、神様には忌み嫌われる、と言いました。先ほどの譬えの時の話と同じなのです。
そして突然、イエス様は、神の国が新約の世界になることを語り出すのです。旧約の世界とは律法と預言者の時代です。新約の世界とは恵みとイエス・キリストの時代すなわち福音の時代です。その新約の時代に今変わろうとしていることを語るのです。16節から18節です。
ルカ
16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
ルカ
16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
ルカ
16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
イエス様は、その旧約の時代はヨハネの時までであると語りました。それ以後は新約の時代であり、神の国の福音が告げ知らされている、と言いました。そして誰もがそこに入ろうとしていることを語ったのです。ファリサイ派の人々のように、律法にこだわっている人々には、その時代が終わることを告げたのです。ですが、その律法がなくなるわけではないこともイエス様は言いました。それはなくなるわけでなく、さらに高い恵みの訪れへと移っていくと言う事なのです。
そして、又突然離縁と姦通の話が始まりました。なぜこの話がここに入るのでしょうか。これははっきりとはわかりませんが、福音の時代が来たとしても、旧約の教えを現す妻を離縁して、他の女、すなわち新約を取ることは間違っている、それは姦淫と同じだと言う事を言っているのではないかと思います。新約の時代が来ても、旧約の教えを離縁することなく、福音の時代に入って行かなければならないことを言っているのではないかと思います。
結
今日の譬えの話は、私たちの持っているものすべてが、神様から与えられた、神様のものを忠実に管理するようにと与えられたものである、と言う事が前提になっています。私たちの、時間も、健康も、力も、能力も、財産も、全て神様から与えられたものであって、自分のものであると思ってそれを使うならば、それは神様のものを無駄遣いしていることになるのです。でもこの管理人の賢かったことは、その財産は神様のものであって自分のものではないことははっきりと認識していたのです。ですから自分のものとすることなく、負債のあるものの負債を軽くしてやる方法で、その主人の財産をうまく利用したのです。私たちは他の人のためにならば、神様の財産をうまく使うことができるのです。自分のものでなくとも、神様はそれを喜んでくださるのです。たとえそれが利己的な目的でなされていても、人の負債を軽くしてやるためにすることには神様は受け入れて下さるのです。もう時代は変わったのです、旧約の時代から新約の時代に代わりました。律法と予言者の時代から、恵みと福音の時代に代わったのです。こうしなければいけないという束縛から解放されて、与えられた恵みに感謝する時へと移ったのです。この恵みに感謝していきたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたに与えられた多くのものに感謝いたします。このような私たちの、時間や、健康や、力や、能力や、財産を無駄にすることなく、あなたの御心にかなって用いることが出来ますように。自分のものだと思って、利己的な用い方をして無駄にすることがありませんように。たとえ、無駄遣いしてしまっても、永遠の住まいに迎い入れられるように、人々のためにあなたの恵みを用いていくことが出来ますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆「不正な管理人」のたとえ
ルカ 16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
ルカ 16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
ルカ 16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
ルカ 16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
ルカ 16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
ルカ 16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
ルカ 16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
ルカ 16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
ルカ 16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ルカ 16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
ルカ 16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
ルカ 16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
ルカ 16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
◆律法と神の国
ルカ 16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
ルカ 16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
ルカ 16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
ルカ 16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
ルカ 16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」