家庭礼拝 2017年8月16日ルカ15章11‐32放蕩息子のたとえ

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起 

 今日は新約聖書の中でも、もっとも有名な放蕩息子の譬えの話です。この譬え話がこれほど多くの人に知られるようになったのには理由があります。それは慈愛に満ちた父親と、ぐうたら息子の関係と言うだけではなく、この譬え話には福音が豊かに語られているからです。福音とは善き知らせ、それは天の父なる神様は、罪ある私たちを赦して受け入れて下さっているという知らせです。

 この話は、放蕩息子が主人公のような気がしますが、実は父親が主人公なのです。ですから小見出しを放蕩息子のたとえとするよりは、愛に満ちた父の話とか、許し受け入れて下さる父の話とかとした方がいいのです。そしてここには放蕩息子のほかに、もう一人優等生の兄の話も書かれているのです。この話がなければ、この譬え話は成り立たないのです。ここで、放蕩息子と言われているのは、実は神様に対して罪を犯しつつ、悔い改めようとする私たちなのです。そして、もう一人の優等生の兄と言うのは、義務的に良いことをしているだけの愛情に欠けた、ファリサイ人たちを指しているのです。このたとえばなしでは、神様は、このような罪人に対しても、ファリサイ人たちの様な厳しい宗教家に対してもどのような態度で接しているかが良く分かる話なのです。

 この譬え話をするきっかけは、先週も言いましたが、ファリサイ人たちの一言でした。そこから発生して、イエス様は見失った羊のたとえと、失くした銀貨のたとえと、今日話をする放蕩息子の譬えの話を三つするのです。ですからそれぞれに話す目的は一つの事ですが、よく見ると少しずつ微妙に力点をずらしているのが分かります。この三つの話は、どれも失ったものが帰ってくる話です。最初の、見失った羊のたとえでは、羊が愚かなために、羊飼いから離れてしまって見失ってしまったという話です。二つ目の銀貨の話は、無生物ですから、自分から離れていくと言う事はないのです。ですから、自分の意志ではなく、何か他の原因で、他の力が働いて、本来あるべきところから離れて行ってしまった、という話です。三つめはこの放蕩息子ですが、自分の意志で、本来あるべきところから離れて行って失われてしまうという話なのです。この三つのレベルが、巧まずして、述べられているところにこの話の不思議さがあります。

 見失った羊の話は、マタイによる福音書にも書かれていますが、失くした銀貨のたとえと、今日の放蕩息子の話は、ルカ福音書だけに書かれている譬え話です。これだけ印象深い話が、ルカだけにしか書かれていないというのは不思議な気もします。ルカは、神様が失った人間を探し求めていることを、多くの人に知らせたかったのだと思います。そしてイエス様もその事を伝えるために、これらの譬え話をしてくれたのです。

それでは放蕩息子の話を始めましょう。まず、11節と12節です。

ルカ 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

ルカ 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

とんでもない息子もいたもので、まだ父親が元気なのに、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言ったのです。こんな親不孝な息子なら、財産なら分けてあげなくてもいいではないかと思いますが、この時代のユダヤの法律では違っていたのです。息子に財産をあげないと言う事は出来なかったのです。もしその人が死んだなら、長男には3分の2、次男には3分の1を分けてあげなければならないというのが法律でした。でもそれは死んでからの話ですから生きている間に分けてあげる必要はないのです。ですが、この父親は、息子の自由意思を重んじたのです。私たち人間の自由意思を重んじて下さる神様のように、神様から離れる自由をも受け入れてくれるのです。ですから、この父親は、息子が二人いたので、それぞれに、死んでから与えるべき財産を、法律に基づいて与えたのです。そうすると、この息子はどうしたでしょうか。13節と14節です。

ルカ 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

ルカ 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

 この下の息子の思いは、父親のもとから離れたかったのです。そして、思いっきり自分のしたいようにしたいと思っていたのです。そのことが良いか悪いかは関係なく、何もかもから自由になって、やりたい放題やりたかったのです。それは父親のもとにいたのではできなかったのです。なぜそのように思ったのかはわかりません。人の心の奥底には、みんな思っている願望かもしれません。人間はどうせ皆いつか死ぬのだ、だから生きている間に一度くらいは思いっきり自分の好きなようにしたいと思ったのかもしれません。それで、その息子は遺産として受け取った財産を全部お金に替えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くしました。やるだけやったらもう死んでもいいくらいの気持ちでいたのかもしれません。そんな生活を続けていれば、持っていた財産もいつか尽きてしまうことくらいは分かっていたはずです。そしてその財産は使い果たされたのです。何もかも使い果たした時その地方に飢饉が起こったと言います。それはその地方よりもその息子自信がひどい飢饉となってしまったのです。彼は食べるのにも困り始めました。そこで彼はどうしたでしょうか。15節と16節です。

ルカ 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

ルカ 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

 彼は食べるものにも困って、その地方に住むある人の所に身を寄せたと言います。彼は放蕩の生活をしていたのですから、その知り合いという人も放蕩の仲間で、羽振りの良い時には一緒に遊んでいたのかもしれません。ですが食べるのにも困ったときに、身を寄せる場所がそこしかなくなっていたのです。その人は、その放蕩息子を畑にやって豚の世話をさせたと言います。この豚の世話をするというのはユダヤ人にとっては、とても汚らわしい仕事だったのです。良く知られているように、ユダヤ人は豚の肉は汚れたものとして食べることはありません。それどころか豚に近づくことさえ汚れるとされていたのです。それなのにその豚の世話をするしか仕事がなかったのです。それでもお腹を満たすことができなかったのです。この地方の豚の世話と言うのは日本の豚の世話とは違います。羊飼いが羊の世話をするように、豚飼いというものがいて、豚の放牧の世話をしているのです。当然この地方は異邦人の土地なのです。この豚はその畑になっているイナゴマメを食べて大きくなっていくのです。この息子はその豚の食べるイナゴマメでもいいから食べたいと思ったほどだというのです。

 この息子は、心も体も極限まで追い詰められたところで、ハッと我に返ったのです。そしてこう思ったのです。17節から19節です。

ルカ 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

ルカ 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

ルカ 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 この息子は父親の元を離れて、罪にまみれ、罪の中で死のうとしているときに我に返ったのです。即ち、今まで彼は自分を見失っていたのです。自分を見失うものは、神様をも見失うのです。そして自分だけを正しいとするのです。ところが、我に返ったものは、神様を見出し、自分の過ちにも気が付くのです。この息子は我に返ってこう言ったのです。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 この息子は心から悔い改めたのです。そして父のもとに帰ろうとしたのです。その父のもとには平安があったのです。不自由だと思って飛び出したのですが、そこには、何物にも代えがたい平安があったのです。その事に気が付いて、自分の犯した罪の大きさに気が付きました。それで父のもとに帰ってこう言おうと決心したのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。この息子は、もう息子でなくても良い、雇人の奴隷の一人にしてもらえればいい、それでも、父のもとには大いなる平安と喜びがあると気が付いてそう思ったのです。

 それでその息子は、その異邦人の地を発って、父親のもとに帰ったのですが、父親はどのように迎えてくれたでしょうか。20節から24節です。

ルカ 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

ルカ 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

ルカ 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

ルカ 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

ルカ 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 この父親は、このような理不尽な事をした息子をずっと待っていたのです。勝手な事ばかりする息子は、もう知らないとも、自業自得だと思わず、いつか必ず、思い返して帰ってくるだろうと待っていたのです。帰ってくるのが分かっていたかのようです。その帰ってくるのが何時なのかわからなかったので、いつ帰ってくるか、いつ帰ってくるかと待っていたのです。そこに息子の姿が現れたので、まだ遠くに離れていたのに、息子を見つけて、ボロボロになり、疲れ果てている息子を憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。息子は、前々から言おうとした言葉を語りました。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』と言ったのです。そしてこの後語ろうとした、『雇い人の一人にしてください』という言葉を言う前に、父親はその言葉をさえぎって、僕たちにこう言ったのです。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』ここで語られている、良い服、指輪、履物とは奴隷や僕たちの身に着けるものではありません。この父親は立派にこの息子を自分の息子として受け入れたのです。しかも指輪とはこの当時ハンコのような意味も持っていて、その家の決済をする承認を与える権威を意味していることもあるのです。この父親は帰ってきた息子に喜んで、肥えた子牛を屠って、お祝いをしようと言ったのです。なぜならば、父親にとって、この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだというのです。ここにこの譬え話の三つめの失われたものが帰ってくる話が完結したのです。この子は死んでいたというのは、罪に死んでいたという意味です。肉体的な命は続いていてもその心は罪に死んでいたのが生き返ったというのです。神様は、その失われていたものが帰ってきたときにはこれほど喜んでくださると言う事を、語っているのです。この事で、イエス様は、イエス様の周りに集まってくる罪人をも、神様はこれほど喜んでくださっているのだと言う事を語っているのです。

 普通ならばこれで話が終わりそうなのですが、大事なのはこれからです。ずっと父と共に家を守ってきた兄が畑から帰って来たのです。そして、家が異様ににぎやかなのに気が付きました。兄はどうしたでしょうか。この兄が、罪人たちを非難したファリサイ派の人達を表していることを思い起こしながら読んでみましょう。25節から28節です。

ルカ 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

ルカ 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

ルカ 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

ルカ 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

 兄が畑から戻ってくると、家では音楽や踊りなどで宴会のざわめきが聞こえてきたので驚きました。そして僕に、これはいったい何事かと尋ねると、弟さんが帰ってきたので、お父さんが子牛を屠ってお祝いをしていることを告げました。すると兄は喜ぶどころか怒って家に入ろうとはしなかったのです。どうしてでしょうか。このお兄さんはこの弟の事を罪人だと軽蔑し怨んでいたのです。むしろどこかで野垂れ死にすれば自業自得だと思っていたのです。それなのにお父さんがお祝いしているので、とても腹が立ったのです。自分はこんなにまじめに仕事をしているのに、どうして放蕩をしていた弟のためにこんなにお祝いをするのだと、怒っていたのです。すると、その事を聞いた父親が出てきてその兄をなだめたのです。いったいどう言ってなだめたのでしょうか。29節から32節です。

ルカ 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、小山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ルカ 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

ルカ 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

ルカ 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 父親がなだめる前に、まず兄が父親に文句を言ったのです。どうしてこんなに怒っているのかを訴えたのです。その訴えは、『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』と言ったのです。この兄は父親に対して文句も言わずにずっと仕えていたというのです。友達と宴会するのに、子山羊一匹すらくれなくても文句も言わずに我慢してきたというのです。それなのに、あの弟が、娼婦どもと一緒にあなたの財産を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠ってお祝いするのですかと、非難したのです。この兄の非難には一理があります。私達にはこの訴えに共感するところがあるのです。なぜならば、私たちの考えもこの兄と同じような思いがあるからです。自分の方が正しいことをしているはずだ、弟は罪人で、野垂れ死にしてもおかしくないではないか。それなのにお父さんはどうして、弟の方にそんなに喜んでお祝いをするのだと、その父親の行動を理解できないのです。

この兄はどこが間違っていたのでしょうか。この譬え話はもともと、罪人を非難したファリサイ派の人々に向けて語られた話です。この兄は、罪人となり娼婦と一緒に財産を食いつぶした弟を赦せませんでした。自分だってそうしたかったのに我慢して、父親に従って来たのです。この兄が父親に従って来たのはその義務感からです。そしてそれが自分の方が正しいという思いとなっているのです。ファリサイ派の人々が、律法を守り、その信仰に従って我慢して生活しているのも、決して神様を愛しているからではなく、義務感からなのです。あの人は正しい人だと思われるために、また自分自身も正しい人間だと思いたいために我慢して従っているだけなのです。だから、罪人を見ると、自分達は正しいがあの人たちは間違っている。だから神様からも呪われて、地獄に落ちるに違いないと、同情のかけらも持たないのです。この兄が間違っているのは、父親に対しても弟に対しても思いやりある愛情を持たず、理解しようとしなかったばかりか、受け入れてもいないことなのです。それはただ義務感で生きているだけなのです。ファリサイ人たちが、律法の義務感だけで生きており、罪人を極端に嫌っているのと同じなのです。ですが神様はそのような方ではないと言おうとしているのがこの譬え話です。ファリサイ派の人々は神様に従っているようだが、神様は彼らの思っているような、そのような方ではないと言っているのです。

イエス様はこの父親の言葉を通して、神様はどのような方であると言っているのでしょうか。父親はこう言ったのです。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』この父親は、この文句を言った兄に対しても非難は一切しませんでした。そして、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部御前のものだ、と言ったのです。この父親は、兄に対しても、弟に対しても、その言い分を受け入れているのです。そしてそれぞれ、どのように生きていたとしても、私はあなたたちを受け入れる、と言っているのです。ですから、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言ったのです。このお父さんにとっては罪を犯したかどうかは問題ではなかったのです。そのことを非難するつもりはないのです。この兄すらも罪を犯しているのに気が付いていないけれども、この父は受け入れているのです。この父にとって、死んでいたと思っていたのに生き返った、いなくなったと思っていたのに帰って来た、と言う事だけが嬉しくて嬉しくてたまらないのです。この父親はそのすべてを受け入れて許して下さる方なのです。それが福音なのです。この父親の思いこそ、神様の思いだと、イエス様はファリサイ派の人々に告げているのです。

 今日は放蕩息子の譬えを聞いて、天の父なる神様が、いかに慈愛に満ちた方であり、私たちの罪を赦し受け入れて下さる方であるかを知りました。ですが、それは、自分が間違っていた、罪を犯していたと悔い改める気持ちになった時、初めてそのことが理解できます。この兄やファリサイ派の人々のように、自分の方が正しい、自分には言い分があると思っている人にはこの神様の御心を理解するのは難しいのです。自分の至らなさを悔い改め、神様の前にへりくだって悔い改めるものでありますようにと祈ります。

 三つの譬え話を聞きましたが、どれも天の父が、失われた人々が戻ってくるのを、どれほどの深い愛情をもって待ち望んでいるのかを聞くことが出来ました。自分こそが正しいなどと主張する必要はどこにもないのです。私たちはただ、自分の罪をお許しください、というだけでいいのです。そうすれば神様は無条件に許し受け入れて下さって、私たちは平安の内にいることができるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、今日の聖書の学びに感謝いたします。いろいろな事情の中で、今日の日の学びが出来ましたことに感謝いたします。私たちはいつも自分ことは正しいと言い張ろうとしますが、むしろ神様は、自分は間違っていたと、悔い改めることを今か今かと待ち望んでくださっています。その事を覚えることが出来ますように。この放蕩息子を待つように、あなたが御国で私たちの帰るのを待っていてくださることを思います。どうか私たちの思いが、どのような状況にあっても我に返り、あなたの御国の事を思い起こすことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆「放蕩息子」のたとえ

ルカ 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

ルカ 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

ルカ 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

ルカ 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

ルカ 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

ルカ 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

ルカ 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

ルカ 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

ルカ 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

ルカ 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

ルカ 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

ルカ 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

ルカ 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

ルカ 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ルカ 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

ルカ 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

ルカ 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

ルカ 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

ルカ 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ルカ 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

ルカ 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

ルカ 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」