家庭礼拝 2017年8月9日ルカ15章1‐10見失った羊のたとえ
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起
15章には三つの譬え話があります。今日学ぶのはその中の最初の二つの、見失った羊のたとえと失くした金貨のたとえです。来週学ぶのは放蕩息子のたとえです。これらはバラバラのたとえ話の寄せ集めではなく、三つで一つの事を語ろうとしたイエス様のたとえ話なのです。これらの話は、一つ一つが印象深く、私たちも良く知っているイエス様の譬え話です。ですが、イエス様がこの三つの譬え話を語って一つの事を教えようとしていることは、あまり知られていません。その一つの事とは何でしょうか。それは、神様が慈愛に満ちた方であって、私たちの一人をも見捨てることはなさらない方である、と言う事です。
なぜイエス様がこの譬え話を始めたかというと、15章1節にあるように、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして、イエス様に近寄って来たからです。そのことを自分達こそ正統な信仰持つものだと思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出したからです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分達もイエス様の教えを聞きたいとは思うが、このような罪人たちと一緒にいるのは耐えられない、自分達も汚れてしまうと思っていたのです。ですから、ファリサイ派や律法学者たちは、このような罪人たちはどこかに消えて行ってしまえばよい、神様はそれを喜んでくれるはずだ、そのことが分からないイエスと言う男はなんという男なのだと思っていたのです。
罪人たちに対して、神様がどのように感じておられるかという解釈に関しては、イエス様とファリサイ派や律法学者達とは、全く反対の考え方だったのです。ファリサイ派たちは、神様は罪人たちを滅ぼし去り、その後に清い神の国を作って自分たちを招いてくださると考えていました。罪人たちを神様が愛してくださると言う事を全く考え付かなかったのです。それに対して、イエス様は、神様は愛と慈しみに満ちた方であるから、どのような人をも神様は愛して慈しみをもって招いてくださる、救ってくださると考えました。ですからどのような罪人であっても、神様はそれを滅ぼそう、罰しようとしているのではなく、探し出して神様の慈しみの内に救い出そうとしていることを語ろうとして、この三つの譬え話をしたのです。イエス様のような考え方は、それまでのユダヤ教の考え方では全く考えられないことでした。とても受け入れられる考え方ではなかったのです。ですからイエス様は色々な譬え話を用いて、如何に神様は罪人を赦し、愛し、受け入れてくれているかと言うことを語ろうとしたのです。また、この時代で罪人と言うのは今の時代の犯罪者ではないことも覚えておきましょう。この時代の罪人とは貧しさや弱さのために、律法を守れない宗教的罪人が多いのです。では今日の説教の箇所から、その譬え話を聞いてみたいと思います。
承
まず最初は、イエス様が、この譬え話を語ったいきさつについて語られています。1節から3節です。
ルカ
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
ルカ
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
ルカ
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
このように、罪人たちと一緒にいるのを嫌がったファリサイ派の人々や律法学者の人々に対して、イエス様は、そうではないこの様な人々をも、神様は招いており、救ってくださるのだと語ろうとして、この譬え話をなさったのです。さらに言えば、このファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分達は罪人ではないと思っているのですが、神様の前ではこの人々も罪人であり、その事に気が付いていない人々なのだ、と言う事も言おうとしているのです。私達もこの話は、自分達もこの罪人の一人なのだという思いで聞いていくことが大切になります。最初のたとえ話は「見失った羊」のたとえです。4節から7節です。
ルカ
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカ
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
ルカ
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
ルカ
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
これは有名な迷える子羊の話で、誰でもよく知っている話ですが、これを正しく理解する人は少ないかもしれません。イエス様がこの話をしたきっかけは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様が罪人たちと一緒にいることを毛嫌いして、不平を言ったことがきっかけです。ですからイエス様はこの譬え話で言おうとしているのは、あなたたちが毛嫌いしているこの罪人たちを、神様は愛しそしてその罪から連れ戻すために、これほど目をかけ喜んでくださるのだよと言う事を言おうとして、この譬えを語っているのです。ですから、この迷える子羊とは罪の中を迷って、神様のもとから離れていった罪人と言う事なのです。私も若いころそうでしたが、この話を聞いた人の中には、こう思った人がいるはずです。「この羊飼いは間違っている。勝手に迷い出た一匹のために、残りの99匹が狼に襲われる危険があるのに、それをおいて、探しに出るのは正しい99匹のためにも、間違った行為である。」そう考えた人もいるはずです。そう考えている人は、自分は迷える羊ではなく、正しい羊であると思っているのです。ですから、自分の方が正しいのだから、羊飼いは、自分のところにいるべきであると思っているのです。ところが自分が正しいものではなく、その迷える羊であったらどうでしょうか。この羊飼いは、自分のような間違ったもののために、他の誰よりも自分を大切にしてくれて、探し求めてくれたのだ、そう思って心に大きな感謝と喜びとを感じると思うのです。神様はどんなたった一人の人をも見捨てない。それがこの譬え話のメッセージです。ですから私たちは、自分をこの迷える羊の立場に立って、この譬え話を聞かなければなりません。実は私たちは皆、この迷える羊なのです。それに気が付いていないのが、正しいと思っている99匹の羊なのです。すなわち、自分は正しいと思っている99匹をそのままにして、自分を間違えていると思った1匹を探し求めるのが、神様であると言う事なのです。悔い改めた罪人を神様はとても喜んでくださり、それを探し求めていると言う事です。
神様がどれほど喜んでいるかというと、「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と言ったのです。神様はその罪人を慈しんで、神の国に連れ戻し、多くの人々とともに、一緒に喜びあうだろうと言う事なのです。神様は悔い改める一人の罪人をそれほどまでに喜んでくださるのです。ですから、私たちも自分が正しいと思っている99匹の羊ではなく、悔い改めて、神様を求める迷える羊であるならば、神様の方から自分を探し出して、見つけ出して、連れ戻してくださることを信じることができるのです。一方で、イエス様はファリサイ派の人達に対して、悔い改める必要のない九十九人の正しい人、と皮肉を込めて呼んで、そのたちよりも悔い改めた罪人を喜んでいることを語ったのです。
転
そして、また次の譬え話をしました。それは「無くした銀貨」のたとえ話です。この話の最初は、「あるいは、」という言葉で始まっています。これは、先ほどの迷える羊の話で理解できないならば、もう一つ譬え話をしようと言う事で語られているのです。ですからこれらは皆一つの事を言っている譬え話なのです。8節から10節です。
ルカ 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
ルカ 15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
ルカ 15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
この譬え話を理解するには、この時代の生活の事を思いやる必要があります。女の人が銀貨一枚を家の中でなくしてしまい、それを見つけるために苦労して、見つけると周りの人たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいと言ったという話です。なぜそれほどまでに銀貨一枚くらいで大騒ぎするのだろうかと思います。この当時のドラクメ銀貨1枚の価値は今で言うと500円硬貨位のものです。これは一日働いて得る賃金よりも少し多いくらいだそうです。それでも、昔は貧しかったから一生懸命探したのかなとも思うのです。ですが後、9枚あるからいいではないかとも思うのです。当時の家の中というのは相当に暗かったのです。家には小さな窓が開いているだけです。しかも床は、かわいた藁を敷いた土間なのです。ですから、小さなコインを落とせばそのわらの中に入ってしまい、しかもとても暗いので見つけ出すのが困難だったのです。ですからその一枚を見つけだすためには部屋の中にともし火をつけ、藁を片付け家の中を丁寧に掃いて、見つけだすまで念入りに探し出さなければならなかったので大変な事だったのです。きっと、この女の人は周りの人にもいろいろ相談して、その一枚の銀貨を見つけだすためにどうしたらよいのか相談したのだと思います。なぜそこまで一生懸命になってその銀貨を見つけ出そうとしているかというと、実はその銀貨は10枚で一つの価値のあるものなのです。それは10個の銀貨をつけた髪飾りで、既婚の女性のしるしであり、今で言うと結婚指輪のようなものだったのです。きっとこの女の人は、まだ結婚したばかりで、その10個の銀貨をつけた髪飾りをとても大切にしていたのだと思います。その一つの銀貨がなくなると言うのは、その髪飾りがその価値を大きく失うと言う事なのです。ですから、その銀貨一枚は、とても大きな価値を持っていたのです。ですからこの女の人は必死になってそれを探したのです。そして、ついに見つけ出しました。その女の人はとても喜んで、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう、とイエス様は言ったのです。
この譬え話も先ほどの迷える羊の話と同じなのです。失った一つの銀貨を、探し求めて、元の10個の銀貨に戻してあげることなのです。そのために神様はどれほどの労力を用いてその一個を見つけ出そうとしているのか、連れ戻そうとしているのか、神様の慈愛の深さを語ろうとしているのです。そして見つけたならば、単にそれでよかったというだけではなく、皆で喜び合うと言う事です。これは神様にとって、一人は全体であり、全体は一人を大切にすると言う事を言おうとしているのです。一緒に喜んでくれるのは、神の国の天使達です。一人の罪人が救われることは、神の国全体の喜びだというのです。
結
ファリサイ派の人々や律法学者たちが、罪人たちはいない方がいい、こんな人と交わってはいけないと、そのような人々を排除しようとしていることに対して、神様は決してそんな方ではないと言う事を言っているのです。神様は、全体のためにも、その失われたひとつを見つけ出そうと、大変な思いをして、探し出して下さっている、そして救いの内に入れようとなさっていることを語ったのです。神様にとって、誰もが失われていいものではないのです。大切な一人なのです。全体のためには一人は犠牲になっても良いとは思わないのです。一人のために神様は探し求めて下さることをここでは三つの譬え話を用いて語っているのです。それほど、イエス様は、神様の愛をみんなに理解してほしいと願ったのです。このような神様の愛は、それまでのユダヤ教の教えの中にはなかったからです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちはいつも自分は正しい側にいるものだと思っています。ですが、私たち自身が失われたものであり、あなたが探し求めて下さっているものです。そして悔い改めれば、あなたは大いに喜んでくださり、大勢の人々と共に喜んでくださる方です。私たちの思いの中には、こんな人はいなければいいのにと言うような、排除したい気持ちになることもあります。ですが神様は誰一人として、のけ者にすることなく愛し招いておられます。神様どうか、私たちもあなたの思いと一つになって、全ての人を受け入れていくことが出来ますように。あなたの慈しみを理解しあなたに感謝し、賛美する者でありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆「見失った羊」のたとえ
ルカ 15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
ルカ 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
ルカ 15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
ルカ 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカ 15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
ルカ 15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
ルカ 15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
◆「無くした銀貨」のたとえ
ルカ 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
ルカ 15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
ルカ 15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」