家庭礼拝 2017年8月2日ルカ14章25‐35弟子の条件

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 今日のイエス様の話は、弟子たちに対してでも、ファリサイ派の人々に対してでもなくイエス様について来た群衆に対して話をしています。この時イエス様はもうすぐエルサレムに入ろうとしています。イエス様がエルサレムに入られるというのは、十字架の上で死ぬだろうと言う事です。この事はイエス様は覚悟して、エルサレムに入られるのです。ところが大勢の群集がイエス様に従ってきました。イエス様の教えや行うことに共感して、自分もイエスの弟子だと思って従ってきているのです。もうすぐイエス様が、エルサレムに入って、神の国の王となられた時には自分もイエス様の弟子として、その王国に居たいと思ってついてきているのです。そのこと自体は間違いではないのですが、ここでイエス様は厳しい事を言っているのです。それはただイエス様についてきているだけでは、イエス様の弟子になる事は出来ないと言う事です。イエス様の弟子になるために支払わなければならない犠牲を覚悟しなければ、イエス様に従う弟子となる事は出来ないと言う事です。それはどんな犠牲でしょうか、どんな覚悟でしょうか。それが今日の聖書が語っていることです。

 この話は、マタイによる福音書でも語られていますが、語られている場面が違います。マタイによる福音書では12人の弟子を派遣するときの心構えとしていろいろなことが語られるのですが、その中の一つの心構えとして語られているのです。いずれにしても、厳しいこの時代にイエス様の弟子として生きることにはそれなりの覚悟が必要だったのです。それを今日は学んでいきたいと思います。

イエス様の神の国がもうすぐ実現するのではないかと思って従ってきた多くの群集がいましたが、イエス様はその群衆に対して、こう語り出したのです。25節から27節です。

ルカ 14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

ルカ 14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

ルカ 14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

 この言葉を語ったイエス様と、群衆の間には、恐ろしいほどの認識のギャップがあったのです。イエス様は死のうとしているし、12弟子達にも何度もその事を教えてきました。ですが、神の国が来ると信じて従って来た群衆は、何かお祭りでもあるようなそんな浮ついた気持ちでイエス様に従って来る人々がいたのです。ですからイエス様は、これから起こる厳しい現実を予感させるようなことを語って、その群衆の心を引き締めようとしたのです。そしてこう言ったのです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」この言葉は、イエス様に従おうとするならば、それを第一にして、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命さえも捨てる覚悟で来なければならない、と言っているのです。その覚悟がなければ私の弟子ではありえないと言っているのです。さらにそれに釘を刺すように、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とさえ言ったのです。自分の十字架を背負うと言うのは、先ほどの自分の命さえも捨てる覚悟というのと同じです。それほどの覚悟がなければ、イエス様の弟子ではありえないと言っているのです。どうしてこれほど厳しく言ったのでしょうか。それはもちろん、これから起こることを念頭に置いているのであり、もしそれが起こった時に、この言葉を思い起こして、イエス様に従ってくるものがあるようにという願いでもあったと思うのです。

 イエス様はこの事を分かりやすく話すために二つの譬え話をしました。それは塔を建てようとする人の話と、戦いに行こうとする王の話です。これらはどれも、そのことを実現するためにはどれだけの犠牲を払わなければならないのかと言う事を覚悟して、そのことを実施しなければならないと言う事を言おうとしているのです。その覚悟が無ければ、最初からやらない方がいいと言う事なのです。では最初の譬えを見てみましょう。28節から30節です。

ルカ 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルカ 14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

ルカ 14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

 これはどんな塔かわかりませんが、立派な塔を建てようとしているようです。葡萄畑の見張りの塔だという話もありますが、それよりは立派な塔の話のような気がします。ですからその塔を作り上げるのに必要な費用を十分に考え計算して進めないと、大変なことになりますよと言うのです。其れは土台を築いただけで、費用がなくなり、完成することが出来なくなって人々から笑われ嘲られるだろうと言うのです。

 これはイエス様に従うときに、払わなければならない犠牲を考えないで、イエス様に従って行こうとすると、その困難な犠牲が降りかかってくると、すぐにその覚悟が萎えてしまって、イエス様の弟子であることを諦めて、人々から笑われるものとなるだろうと言う事を言っているのです。イエス様に従うときはその時に払わなければならない犠牲をよく考え覚悟して従ってきなさいと言っているのです。これはイエス様自身の覚悟をも語っているのです。

 次のたとえは、戦いに行こうとする王様の話です。31節から33節です。

ルカ 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

ルカ 14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

ルカ 14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 この王様にも覚悟が必要でした。そのためには敵の数がどのくらいおり、味方の数がどのくらいであるかをしっかりと確認して、それで戦いに勝つことができるかどうかを考えると言う事です。そして、もし敵が2万の兵を率いてきて、自分の兵が一万しかいないならば、勝ち目はないものと考えて、敵が近づかないうちに、使節を送って和を求めるだろうと言います。つまり、そのような戦いを成し遂げるためには、綿密な計算と計画の上に立って、勝てる精算の上で実施しなければならないと言う事です。

 イエス様に従うための、綿密な計算と計画とは、自分の持ち物を何もかも捨てなければならないかもしれないと言う事を考えると言う事です。イエス様に従うためには、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命をも捨てないといけないかもしれないと言う事を、計算して覚悟して、イエス様に従うものでなければ、本当にイエス様に従う事は出来ないと言う事です。それを捨てきれない人は、結局イエス様に従うか、家族を取るかというジレンマに陥って、イエス様に従えなくなるかもしれないと言う事なのです。そして挫折すれば、惨めな事になるのです。

 ルカはこれらの譬えの話のほかにもう一つの譬えをここに入れておきました。それは「塩気の無くなった塩」のたとえです。マタイにもマルコにもこの喩えは語られていますが、ルカではこの弟子の条件の中で語られています。イエス様の弟子であることの本質について語っているのです。その本質とは、イエス様のために払う犠牲を覚悟する者、イエス様を第一とするものと言う事です。34節と35節です。

ルカ 14:34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。

ルカ 14:35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 イエス様は、イエスの弟子すなわちクリスチャンは塩のようなものだと譬えています。それはこの世にあって、少量でも人の生活に不可欠なものであり、食べ物の味付けをするのに必要なものであり、食べ物が腐ったりすることから、守ってくれるものであるからです。さらにイエス様は、肥料としても使っているらしいことを語っています。塩に塩気があるならば、そのようにいろいろな事に役に立つが、決して目立つことはなく、陰で大きな働きをしているようなものなのです。ですがその塩に塩気がなくなったらどうでしょう。それは何の役にも立たない砂のようなものであり、外に投げ捨てられるだけだろうと言うのです。それと同じように、クリスチャンが、全てを捨ててでもイエス様に従う覚悟がなければ、すぐに塩気を失って、外に投げ捨てられてしまうだろうと言う事を言っているのです。イエス様に従うと言うのは、それほどの覚悟と決意の必要な事なのです。

 今日の聖書の箇所は、短い話でしたが、イエス様の語ろうとしていることはただ一つです。イエス様に従い、イエス様の弟子になろうとするものは、全てを投げ捨てででも、自分の命を捨ててでも、イエス様に従う覚悟がなければならないというものです。そうでないと塩気を失った塩のように、外に投げ捨てられるだろうと言うのです。

 イエス様はこれからエルサレムに向かい、十字架を覚悟して進んでいきます。イエス様に従っていれば何かいいことがありそうだと浮かれた気持ちで従っている人々には、これからとてもショッキングな事が起こるのです。ですからイエス様はその人々に、本当にイエス様の弟子となるためにはどのような覚悟が必要なのかをここで語ったのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。今日のイエス様の語った言葉は、私たちにはとても厳しいものがあります。とても自分の力でできることではありません。家族を捨て、自分の命さえも捨てる覚悟は、簡単にできるものではありません。ですが憐み深い神様、どうか聖霊の導きによって、その時には、イエス様のみ言葉に従うことが出来ますように導いてください。自分の力によってではなく、ただあなたの憐れみによって、み言葉に従うことが出来ますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆弟子の条件

ルカ 14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

ルカ 14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

ルカ 14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

ルカ 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルカ 14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

ルカ 14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

ルカ 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

ルカ 14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

ルカ 14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

◆塩気のなくなった塩

ルカ 14:34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。

ルカ 14:35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」