家庭礼拝 2017年6月14日ルカ11章33‐54ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する

賛美歌390主は教会の基となり聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌392主の強い御腕よ

 

起 

 今日の聖書の箇所の、「ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する」という小見出しの所は、イエス様の激しい怒りと敵意を感じます。ファリサイ派の人々が、折角イエス様を食事に招待して、仲良くしようとしているのに、どうしてイエス様はこれほどの怒りと敵意をむき出しにしているのでしょうか。ここの箇所だけ読むと、イエス様もこれはやりすぎではないですか、と思いたくなるのです。

 ことの発端はイエス様たちがファリサイ派の人の食事の招待を受けた時に、食事の前に手を洗って身を清めなかったことによるのです。これはユダヤ人たちの中では律法を守る事として、大切な行いだったのです。ですからイエス様が手を洗わなかったことをこのファリサイ派の人は不審に思ったのです。イエス様を非難したわけではなく、どうしてなんだろうと思っただけなのです。ところがイエス様は、そのようにファリサイ派の人が思っただけで、激しく非難し始めました。そしてファリサイ派の人々は不幸だ、不幸だといわば罵ったのです。

 それを聞いていた別の律法の専門家も、これはちょっと言いすぎではありませんかという感じで、「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります。」と言って、穏やかにたしなめようとしたのです。そうするとイエス様の攻撃は、この律法の専門家たちにも向けられ始めました。そしてあなたたちも不幸だと言って攻撃し始めたのです。

 どうしてイエス様はこんなにも、ファリサイ派の人々や律法学者の人々を激しく攻撃したのでしょうか。それは折角招待されたのに失礼ではないか。しかもこの人々はイエス様に対して何の失礼な事もしていず、単に普通のユダヤ人がすることをしないので、不審に思ったと言う事だけなのではないかと思うのです。

 ですが、ここの箇所だけではなくこの前後の流れを見ると、イエス様の言おうとしていることが何なのかが分かってくると思うのです。イエス様はずっと、霊的な事を言っており、ファリサイ派の人々や律法学者たちはこの世的な事、儀礼的な事を言っているのです。そこの、本質的にかみ合わないところを、イエス様は非難しているのです。ここでイエス様が何に対して怒り、何に対して批判しているのかをしっかりと聞き取りたいと思うのです。それは形式主義に陥りやすい、伝統的宗教が、イエス様のこの非難に堪えられるものなのかどうかを、私たちももう一度考えてみる必要があるのかもしれません。

今日の聖書の箇所の最初は、「体のともし火は目」という小見出しの所です。この話は、イエス様とユダヤ人とのベルゼブル論争と、人々はしるしを欲しがる、という小見出しの内容を受けています。すなわちユダヤ人たちがイエス様を受け入れずに、イエス様の業は、悪魔の頭ベルゼブルの力を用いているのだと言ったり、本当に神に遣わされたのならしるしを見せてほしいと要求したり、要するに、イエス様を受け入れようとしないその姿勢に対して、今日の聖書の箇所、「体のともし火は目」という小見出しの箇所が語られているのです。

ここで語られている話は、ともし火を灯す際は、穴倉やマスの下に置かないで、皆から見えるように燭台の上に置くだろうと言う話です。そして、あなたの中にあるともし火が消えていないかどうか調べなさい、というのです。大切なのは、ここで語られているともし火とは何を意味しているかと言う事です。それでは聖書を読んでみましょう。33節から34節です。

ルカ 11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

ルカ 11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。

 ここの話は、実際的な話として理解できるし、目が澄んでいればあなたの全身も明るいと言う事も、目の澄んでいる人は、心の清い人と言うような言い方もあるので、普通に理解できることなのです。そしてともし火の置かれる場所は体では目が燭台になっているのです。ですが大切なのはここで言われているともし火とは何かという事です。それはイエス様の事なのです。イエス様はご自分の事を光であるとも言われました。イエス様のともし火を持っている人の心はその人の目に映っているのです。ですからその目を見れば、イエス様のともし火に照らされていることが分かり、その体全体も明るく浮き上がってくるのです。その反対に、目が濁っていて、イエス様のともし火の暗い人は、その体全体も暗く、沈んでいるというのです。

イエス様は、イエス様を非難してベルゼブル論争を仕掛けたり、しるしを求めたりする人の眼にそのともし火を見出すことが出来なかったのです。イエス様はその目を見ることによってその人の信仰を見抜いていたのです。なぜなら、目はその人の灯だからです。だからイエス様は続けてこう言ったのです。35節から36節です。

ルカ 11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

ルカ 11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

イエス様がここで言おうとしているのは、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と言う事なのです。本当の信仰の光、霊的な光、イエス様の教えて下さっている光が、心の中にあるかどうか、消えかかっていないかどうかを調べなさいと言っているのです。そして、あなたの心の全体を吟味して、少しも暗い所がなく、明るいならば、あなたの全身は、心も体も輝いているのです、と言っているのです。イエス様の言っている光は、内面の光、霊的な光であって、外見には捉われないことを言っているのです。そしてこのことが、次のファリサイ派の人を非難するときの布石となっているのです。

 そして場面は、イエス様がファリサイ派の人から食事の招待を受けたところに移ります。イエス様とファリサイ派の人々が敵対してたと言っても、まだこのようにイエス様を招待する者もいれば、イエス様もそれを拒絶するような姿勢も示してはいなかったのです。ですがここで、決定的な出来事が起こったのです。37節と38節です。

ルカ 11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。

ルカ 11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。

 ことの発端はイエス様が食事の前に身を清められなかったのを見て、不審に思ったことでした。ここでは決してイエス様を非難したとは書かれていません。ですがイエス様は、招待を受けながらも、このファリサイ派の人々の下心を見抜いていたのかもしれません。この人たちは、親切を装いながら、イエス様の失敗や間違いを見つけだしてやろうと思っていたのかもしれません。そこで見つけたのが、食事の前に手を洗わないことでした。これは当時の口伝律法での律法違反なのです。ですがイエス様は不審に思ったファリサイ派の人の心を見抜いてこう言われたのです。39節から41節です。

ルカ 11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。

ルカ 11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。

ルカ 11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。

 ここでイエス様は、内側と外側と言う事を言っています。ファリサイ派の人々は外側はきれいにするが、内側は強欲と悪意に満ちている、と言ったのです。すなわち外面的にはきれいで、罪のない生活をしているように見せているが、その内面は愛ではなく、欲と悪意に満ちていると言っているのです。先ほどの身体のともし火は目、という小見出しの話とここで結びついてくるのです。このともし火の話は、内面に清い信仰の光を持つものはその目に現れ、目にその光を持つものは全身が明るいと言う事が言われました。このファリサイ派の人々はその内側が強欲と悪意に満ちていて、いくら外面はきれいにしても、その目は濁っていると言う事なのです。

 そしてイエス様は、ファリサイ派の人々にこう勧めました。それは、唯、器の中にあるものを人に施せ、と言う事です。それはファリサイ派の人々が持っている、財産や、食料や、持っている力を人に施すために用いなさい、そうすればあなた達も清くなるだろうと言うのです。実際は、ファリサイ派の人々は強欲で悪意に満ちたものだったのです。

 イエス様はさらにファリサイ派の人々を攻撃しました。42節から44節です。

ルカ 11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

ルカ 11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。

ルカ 11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

 このようにイエス様は、このファリサイ派の人々の偽善を強く非難したのです。外面ばかり整えて、内面をないがしろにしているからです。イエス様をこの食事に招待したのも偽善なのです。イエス様はファリサイ派の人々の眼に、ともし火の無いことを見て取ったのです。ですから、いくら親切そうにふるまっても、そこには人を愛する思いがなく、いくら信仰に忠実であるようにふるまっても、本当の正義の実行と神様への愛はおろそかにしており、まるで、人目につかない墓のようだと言うのです。この事の意味は、ユダヤ人たちは、墓に触れると汚れると考えていました。ファリサイ派の人々や律法学者たちはその墓のようで、汚れは人目につかないので、知らずにファリサイ派の人々と交わると墓に触れたように汚れてしまうような人たちだと言う事なのです。

 ここまで激しく非難されて、さすがにその仲間たちは黙っていられなくなりました。そしてその中の律法の専門家の一人が、それはあまりにも私たちを侮辱することになります、と言うとイエス様は、律法の専門家たちにも非難の矛先を向けたのです。45節から51節です。

ルカ 11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。

ルカ 11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

ルカ 11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。

ルカ 11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。

ルカ 11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』

ルカ 11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。

ルカ 11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。

 ここではイエス様は、この律法の専門家たちの偽善について語り出したのです。まず、律法の専門家は律法を解釈して、人々に、あのようにしなさい、このようにしなさいと多くの重荷を負わせながら、自分達はそのことにかかわりがないような風をして無責任にしていると言いました。もう一つは、あなたたちは預言者の墓を建てて敬っているように見せているが、その予言者を殺したのはあなたたちの先祖ではないか。そしてそのような預言者殺しはカインとアベルの時代からずっとあなたたちの間で行われてきた。そしてあなたたちは、今、同じことをしようとしている。だから、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。と言ったのです。これは、いまの時代の人は神の子イエス・キリストを殺すことになるから、いままでのすべての預言者の血についても責任を問われることになる、と言っているのです。

 そして最後に、次のように言うと律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意をイエス様に対して懐き始めたのです。52節から54節です。

ルカ 11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

ルカ 11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、

ルカ 11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

 イエス様の律法の専門家に対する批判は、人々が神様に関する正しい知識を得られないようにするばかりか、自分もその正しい知識に入ろうとはしていない、あなたたちは神様に近づく障害になっている、と言って非難したのです。自分達こそ、神様に正しく仕えていると思っている律法学者たちは憤慨しました。そしてイエス様がそこを出ていかれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を懐き始めて、なんとかイエス様を貶めようと狙うようになったのです。

 イエス様の思いは、次に学ぶ箇所の12章1節にある「偽善に気を付けさせる」という小見出しの所にもあります。イエス様は、このファリサイ派の人々や律法の専門家の一見まともそうに見える姿の裏にあるその偽善を強く批判していたのです。神様に仕えるふりをして、人々に仕えるふりをして、実はその反対の事をしていることを激しく暴露していたのです。

 イエス様がどうしてここまで激しく、ファリサイ派の人々と律法の専門家を批判したのかはわかりません。この人たちが、神様に近づくことを妨げている元凶なのに、さも神様に仕えているふりをしていることに我慢が出来なかったのかもしれません。又このように批判させたのは神様によって計画されたことであり、聖霊によってイエス様を十字架に導くことだったかもしれません。イエス様に対する敵意は、ベルゼブル論争後、このイエス様の徹底的な批判で、イエス様とファリサイ派の人々や律法学者達とは完全な断絶に至り、修復不能となったのです。そして、これはイエス様が十字架に至る道をさらに一歩進めたと言う事なのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様はファリサイ派の人々と律法の専門家たちを徹底的に批判し、あなたたちは偽善家だ、あなたたちは人々が神様に近づくのを妨げていると言って、彼らの強い敵意を受けることになりました。これは神様のご計画です。イエス様は十字架に至る道を進みました。

 イエス様は目は心のともし火であることを語りました。その心にイエス様に対する信仰がしっかりと灯されているならば体全体も明るくなると言いました。神様どうか私たちの信仰がその心にしっかりと灯っているか、その心に影がなく明るく照らされているかを吟味することが出来ますように。どうかあなたと共にあって、そのともし火を私たちの眼から、そして体からその明かりを発することが出来ますように導いてください。私たちをあなたのともし火とさせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆体のともし火は目

ルカ 11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

ルカ 11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。

ルカ 11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

ルカ 11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

◆ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する

ルカ 11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。

ルカ 11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。

ルカ 11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。

ルカ 11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。

ルカ 11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。

ルカ 11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

ルカ 11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。

ルカ 11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

ルカ 11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。

ルカ 11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

ルカ 11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。

ルカ 11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。

ルカ 11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』

ルカ 11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。

ルカ 11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。

ルカ 11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

ルカ 11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、

ルカ 11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。