賛美歌356インマヌエルの主イエスこそ聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌357力に満ちたる
起
今日の聖書の箇所は、主の祈りの箇所です。私たちの祈っている主の祈りはマタイによる福音書の言葉に近いので、このルカによる主の祈りはちょっと違った感じがしますが、本質的なところは素朴な形で全部入っているのです。
この主の祈りを語っているのは、マタイとルカだけなのです。マタイによる福音書の方がより詳しく語られていますが、その語られている場所は山上の垂訓を行った場所で語られているのです。そこでいろいろと信仰者として大切なことをイエス様は弟子たちに教えられました。その中の一つに祈る時には、というのがあるのです。似たような教え方をしているものには三つあって、施しをするときには、と、祈る時には、と、断食するときにはと言うのが三つ並んで語られてその時にはこうしなさいと教えている箇所なのです。
それに対して、ルカではこの主の祈りの言葉は、前回行ったマリアとマルタの話と、次週行うベルゼブル論争の間に入っています。すなわちこの主の祈りの言葉はここに独立した話として入っているのではなく、マルタとマリアの所で語られた話を引き継いで、行われていると考えられます。マリアは、マルタがこの世のもてなしに心を配っていたのに対し、イエス様の側にいて、信仰の道を選んだのです。それは祈りに似た姿だったのです。
そのマリアの姿、そしてイエス様の祈っている姿を見て、弟子たちも自分たちも祈りをするものとなりたいと考えて、イエス様に祈りの仕方を尋ねたのが今日の聖書の箇所となります。
それに対して、次に起こるベルゼブル論争の話は、そのような信仰の姿勢とは真っ向から対立する出来事なのです。聖書では、このような対比の構造をとる描き方がよく出てきます。すなわち、ルカはこの主の祈りの話を、一つの教訓の話として取り上げたのではなく、この一連の出来事の中の、必然的な出来事として語っているのです。
今日の話は私たちが、毎日唱えている主の祈りなので、その言葉の意味を一つ一つかみ砕いて、味わっていきたいと思います。案外、気が付かないで祈っていることの多い主の祈りなのです。
承
では聖書に入りましょう。1節からです。
ルカ
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
イエス様はもうエルサレム神殿のすぐ近くまで来ているので、イエス様の祈っておられた場所はゲッセマネの園かもしれません。その場所ははっきりとは書かれていないのですが、そこでイエス様は祈っていたのです。そこには弟子たちも一緒にいました。イエス様が祈り終えると、弟子のひとりがイエス様に、ヨハネが弟子たちに教えたように、私達にも祈りを教えてください、と言いました。当時ラビたちは弟子に祈りを教えていました。特にヨハネは弟子たちに祈りを教えていたのです。それはバプテスマのヨハネの弟子であったことのある、アンデレやヨハネには良く分かっていることです。それで、イエス様の祈りをも、私たちに教えてくださいと願ったのです。ヨハネの祈りも、ラビたちの祈りも私たちにはわからないのですが、もしかするとイエス様の祈りと大きく違ってはいないのかもしれません。ですがきっとその中で、イエス様だけにしか語れない祈りがあったのだと思うのです。イエス様はこう語り出しました。2節です。
ルカ
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
イエス様は弟子たちに祈り方を教えてくれました。それはイエス様にしか言えない祈りでした。イエス様は、祈る時にはこう言いなさいと言って教えたのです。その祈りの初めの言葉は、父よ、という言葉です。父よ、というのはもちろんイエス様の父なる神様と言う事です。こんな呼びかけをすることが出来るのは、世界中でイエス様だけだったのです。その神様の事を、私達にも、父よ、と呼びかけなさいと言っているのです。世界中の宗教の中で、神様の事を父よと祈れるのはキリスト教だけです。神様は私たちの直接の父ではありませんが、イエス様によって、父よと呼びかけることが許されたのです。すなわち、私たちはイエス様によって、神様の養子とされたようなものなのです。ですから、私たちも神様の事を父よと呼びかけることが出来るし、イエス様はそのように祈りなさいと教えてくれたのです。それなのに、教会ではイエス・キリストの父なる神様と祈って、私たちの父なる神様とは決して呼びかけようとしない人々がいます。これはイエス様にせっかく招かれて、父よと呼ぶことを赦されたのに、もったいない事だと私は思うのです。私たちは、たとえ養子であっても、神様の子とされたことを大胆に誇りに思って、父よ、と呼びかけたいと思うのです。
そしてその呼びかけの後に祈ることはまず、神様の栄光を祈る事でした。その言葉は、皆があがめられますように、御国が来ますように、という祈りです。この祈りが最初に来ると言うのは、神様を第一にする、神様に委ね従って行きますと言う、信仰を現すことになります。
この祈りの中で、私たちの使っている祈りと違っているのは、御国が来ますようにと祈った後で、御心の天に行われる如く、地にもなさせたまえ、という言葉が無い事です。これに近い言葉はマタイによる主の祈りでは入っていますが、これは、ルカの祈りのようにシンプルに御国が来ますようにと言う、一言でも良いような気がします。
続けて祈る言葉は、私たちの願いの言葉です。その言葉は、自分だけではなく、私たちと言う言葉を使って、この人類すべての人々のために祈るのです。3節から4節です。
ルカ
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
ルカ
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
私たちの、主の祈りの言葉では、この3節は、我らの日用の糧を今日も与え給え、と祈っています。ですがルカの祈りのように、私たちに必要な糧を毎日与えてください、と祈った方が身近な言葉で分かりやすい気がします。私たちはこの祈りをするとき、私達、又は、我ら、という言葉をどの範囲で考えているでしょうか。家族だけでしょうか。親戚まででしょうか。仲間を含めて教会も含めてでしょうか。イエス様がこの言葉を教えられた時の私たちと言うのは、罪人をも、貧しい人をも全部含めて、私達、と言っているのです。ですから、私たちが主の祈りをするときには、世界のどこかで、飢餓で飢えている人々や、戦争で食べる物や必要な物資の無い難民の人々のためにも、この祈りは祈っているのです。そしてこの必要な糧と言うのは、単に食べるものだけではないのです。必要なすべてを言うのです。衣食住や、心の支えも含めて、その日に必要なものを、毎日与えてくださいと祈っているのです。その必要を求めている人々とともに、私たちの必要をも満たしてくださいと祈っているのです。そして、この祈りは、いま必要なものを、毎日その時に与えてくださいと祈っているのです。将来まで安心して暮らせるように、たくさんのものをくださいと祈っているのではないのです。今必要な、衣類や、食べ物や、住むところを与えてください。今生きるために必要なあなたの支えを与えてくださいと祈っているのです。私たちが主の祈りを祈る時に、このような多くの人々の事を思って祈っているでしょうか。イエス様が教えてくれたように祈りたいものです。
次の祈りは、私たちの罪を赦してくださいと言う祈りです。私たちは、過去に対しては何もできないのです。私たちが出来るのは現在の事だけです。ですが、私たちの過去の罪は私たちに重くのしかかって、私たちを束縛していることがあるものです。この束縛から解放してくださるのは神様だけなのです。その過去の束縛から解放していただくために、私たちは私たちの罪を赦してくださいと祈るのです。ここでも私たちと祈っているのですから、単に個人の罪だけではないのです。仲間の罪、友達の罪、家族の罪、国家の罪、人類の罪など色々な罪を私たちは背負っているのです。それを責任がないように思っているのはそこから目をそらしているからです。自分では何もできないから、目をそらすしかできないのです。ですがその罪は私たちの心をいつの間にか束縛しているのです。ですから私たちはその罪を赦してくださる神様に向かい合って、神様に委ね、許していただくのです。この祈りは、私たちの罪を赦してくださいと言うだけでなく、「わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」という約束の言葉も付け加えられています。私たちが神様に許していただくためには、私たち自身が赦すことが必要なのです。私達が許さないで、神様にだけ赦してくださいと言うのは、虫がいいにもほどがある祈りとなるのです。この祈りだけが条件付きです。許していただくためには、自分も許さなければならないという条件です。それは自分から進んで付けている条件なのです。
そして最後の祈りは、わたしたちを誘惑に遭わせないでください、という祈りです。誘惑にあわせないでくださいと言うのは何でしょうか。マタイの主の祈りでは、この後に、悪いものから救ってください、という言葉があります。私たちの叶えて欲しい祈りは色々あるでしょうが、どうしてイエス様はこの三つの祈りを私たちにするようにと教えられたのでしょうか。それは、私達、という言葉で、世界中の人々のために祈り、過去、現在、未来と言う時空のすべての事を含めて祈ることが出来るようにするためなのです。過去のためとは、過去の罪を赦してくださいと言う祈りです。現在のためとは、必要な糧を毎日与えてください、という祈りです。そして三つめの未来のための祈りとは、将来、私たちを誘惑にあわせないでくださいと言う祈りなのです。この三つで私たちに必要な祈りは全部含まれているのです。誘惑に合うとはどのような事でしょうか。それは罪への誘惑だけではなく、もっと広い誘惑の事です。これは72人が宣教に行って帰って来た時の言葉に現れています。そこでは、72人は喜んで帰って来て、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」と得意になって言っていたのです。まるで、自分達には何でもできる力が与えられていると思い込んでしまったのです。これが誘惑です。私たちが信仰を与えられて、その力で何でもできると思う姿が誘惑に駆られている姿なのです。その時イエス様は何と言ったかというと、「悪霊があなた方に服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言ったのです。この誘惑とは罪だけでなく、このような信仰によって有頂天になってしまうようなことも含めて、神様の御心から離れてしまうかもしれないすべての事を言っているのです。
転
この祈りを語った後でイエス様は、別の譬え話をしました。夜中に友達の家にパンを借りに行く話です。この話の最後の箇所はマタイにも書かれているのですが、この主の祈りに続いて書かれているのではありません。その最後の箇所とは「求めなさい。そうすれば与えられる」と言う有名な言葉です。マタイではそれぞれの言葉が、イエス語録のように、寄せ集めで同じ様な言葉を集めている感じですが、ルカの場合にはそれぞれに文脈の中で関連付けられて現れてくるのです。求めなさい、そうすれば与えられるという言葉は、夜に友達の家にパンを借りに行った譬え話との関連の中で語られているのです。そして、この譬え話は、イエス様の主の祈りとの関連の中で語られているのです。その教えを聞いてみましょう。
その譬え話とは5節から7節です。
ルカ 11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
ルカ 11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
ルカ 11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
この地方は、昼間は砂漠のように熱いので、旅をするのは夜の内の涼しい時にしました。ですから旅人が夜に訪れることはよくある事なのです。そして、ユダヤ教の教えでは、旅人をもてなすことは、神様から命じられている大切な事なのです。しかもその旅人が友達ならばなおさらのことです。ですが、もてなすに必要なパンと言うのは、その日に必要な分だけ作って焼いて食べます。残しても腐ってしまうので余分に作らないのです。余分に作るのは余裕のある人だけなのです。この譬え話では、ある人が友達のところに真夜中に行って、戸を叩いて、このように頼んだというのです。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
友達の旅人が来た時に何も出すものがなくてもてなせないというのはとても、情けない、恥ずかしい事なのです。それでこの人はその友達の所に行って、戸を叩いて起こし、パンを三つ貸してください、と頼んだのです。すると普通はどのように答えるかというと、『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』と答えるのです。もう家族は戸を閉めて寝ているのです。ここで何かしようとしたら、家族全員が起きてしまって、不評を買います。そんなことは非常識なのです。ですからその友達は、半分怒って、面倒かけないでくださいと言って断りました。ですがイエス様はこう言ったのです。8節です。
ルカ 11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
このような事も良くあることだから理解できるのです。どんどん戸を叩く友達に対し、非常識だと怒って戸を開かない友達は、友達だからと言う事では起きて何か与えるようなことは無くても、いつまでもどんどん戸を叩いて、もう家族全員が起きだして、眠ることも出来なくなってしまえば、その様に執拗に頼まれれば、起きて必要なものは何でも与えるだろう、と言ったのです。この譬え話で誤解しやすいのは、祈りはこのように、しつこく願いがかなうまで祈り続ければいいと思ってしまう事です。イエス様の言おうとしているのはそのような事ではないのです。その様なしつこさも大切ではあるのですが、イエス様の語ろうとしているのは、神様とはどのような方であるかと言う事なのです。
イエス様はこう言ったのです。9節から13節です。
ルカ 11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
ルカ 11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
ルカ 11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
ルカ 11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
ルカ 11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
まず、よく知られている、求めなさい、という言葉です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉によって、諦めずに求め続け探し続けて成功した人はたくさんいると思います。求め、探し、叩き続けるという行為はその熱心さがどんどん強くなっていくような表現です。その様に求め続けなければ何も得られないような気もしてきます。ですが、イエス様の言おうとしている事はそこではありません。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。と言われました。それを自分の努力の結果だと思ってはいけないのです。自分がこれほど頑張って諦めずに求め続けたから得られるではないのです。イエス様の言いたいのは次の事です。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」つまり、与えられ、見つけられ、開かれるのは自分の努力によってではなく、あなたの天の父が、求めてくる子供に悪いものを与えるはずがなく、善いものを与えて下さる方であるからである、と言う事なのです。しつこく求め続けたから与えられたのではないのです。それは人間の事です。人間でさえ、しつこく求められれば与えるのに、求める前からそれを知っておられる神様が、求めてくるものに、悪いものを与えるはずがない、善いものを与えて下さる、という信頼なのです。与えて下さるのは、神様の憐れみなのです。そしてその与えるものの中で最もよいものが聖霊だというのです。聖霊が与えられれば、私たちが求めるものが間違っていればそれを教えて下さり、正しければそこへと導いてくださるのです。従って私たちが本当に求めているものを与えて下さるのです。祈りは、私たちを聖霊へと導いてくれるのです。いや、祈ることによって、聖霊が与えられ、私たちに本当に必要なものが与えられるのです。だから、与えて下さる神様を信じて、祈りなさいと言う事なのです。
結
今日私たちは、祈ることを教えられました。私たちは漠然と自分たちの求めているものを祈っていますが、イエス様の教えて下さった祈りには、深い意味がありました。何を祈ればすべての人にとって、一番良い事なのかを教えてくれる祈りでした。それは自分の願いをかなえてくれるという利己的な妄想ではありませんでした。そんな祈りは私にはできないと思っても、イエス様は祈りなさいと教えてくださいました。祈り求めれば与えられ、祈って探せば見出し、祈って困難に当たれば開かれることを、神様は聖霊を通して私たちに教えて下さると教えてくださいました。自分の力でするのではありません。神様が与えて下さるのです。ただその事を信じて祈るだけなのです。この恵みを与えてくださいました、神様とイエス様に感謝いたします。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様によって祈ることを教えられ、私たちが、神様とイエス様を信じて祈ることが出来ますことを感謝いたします。私たちはこの事によって、自分の力ですべて成し遂げなければならないという、束縛から解放されました。私たちには、過去の事も現在の事も未来の事も自分の力では何もできないのです。ただあなたによって守られ導かれ、恵みを与えられて生きているものです。その事を知るものは本当の自由と束縛からの解放を与えられ、平安へと導かれます。私たちは神様を父よと呼びかけ祈ることを赦されました。この事を本当に恵みとして感謝しつつ祈り続けることが出来ますように。そして多くの人々の幸せを願いつつ、あなたの御心にかなって祈らせてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆祈るときには
ルカ 11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
ルカ 11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
ルカ 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
ルカ 11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカ 11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
ルカ 11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
ルカ 11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
ルカ 11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
ルカ 11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
ルカ 11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
ルカ 11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
ルカ 11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
ルカ 11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」