家庭礼拝 2017年5月17日ルカ10章21‐42 良いサマリア人

 賛美歌354 天の神、祈ります聖書朗読  祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌355主をほめよ、わが心

 

起 

今日の聖書の箇所の、喜びにあふれると言う小見出しの話はマタイにも似たような話がありますが、良いサマリア人の話と、マルタとマリアの話はルカだけにある独特な話です。そしてまた、とても印象的な話なので、よく知られている話です。どうして、この話をマタイやマルコに載せていないのかが不思議です。ですが、良いサマリア人の話を始める前の、律法学者の質問については実は、マタイにもマルコにも同じような話が書かれているのです。その質問に対するイエス様の答えに、自分を正当化しようとして出した質問の私の隣人とは誰ですか、という質問からから後が良いサマリア人の話になるのですが、これがルカ独特のイエス様の話になっているのです。どうしてルカがこの話を載せたのかをも考えながら、今日の聖書を読んでいきたいと思います。

最初の喜びにあふれる話は、イエス様の弟子の72人を派遣して帰って来てその成果を報告された時のイエス様の喜びを語っています。その喜びは、まず神様に対する感謝の祈りとなり、次に弟子たちにその喜びの出来事がどれほど素晴らしい事なのかを言って聞かせるという、喜びの表現になっています。まず最初の、神様に対する祈りの部分です。21節と22節です。

ルカ 10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

ルカ 10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 喜ぶというのは、自分の願望が満たされた時に喜ぶものです。ですからイエス様が喜びに満たされるというのは、自分の願望よりも神様を優先しているので、めったにない事なのです。何が起こってもそれはあらかじめ神様の計画によるものだと分かっているのですから、素晴らしい出来事が起こっても自分の願望が満たされて喜ぶと言う事はないのです。ですがここではイエス様は喜びにあふれています。それはなぜかというと、聖霊によって、喜びへと導かれたからです。聖霊そのものが喜んでいるからです。その喜びの聖霊によってイエス様が満たされ、そしてその喜びにあふれてこう言ったのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」イエス様はまずこう祈ったのです。イエス様は、その信仰が、知恵あるものや賢いものにではなく、幼子のように信じる者に与えられたことを喜んだのです。なぜならば、それは神様の御心にかなう事だったからです。それまでは、神様の言葉は知恵ある者や賢い者が理解して、幼子のような無知なものに教えるものだと考えられていましたが、今や、そうではなかったからです。それは思い上がった人間が勝手にそう思っていたことであり、神様の御心は、幼子の様に信じる者に福音は与えられると言う事だったのです。そのことを実証できて、イエス様は、自分の思いが神様と同じであったことを喜んでいるのです。そしてその思いはイエス様と神様は互いに理解し合える、特別な人格関係にあることを喜んでいるのです。ここでのイエス様の喜びは、宣教の喜び以上にイエス様と神様が一体となっていることを確認できた喜びと言っても良いかもしれません。この事によって私達は神様がどんな方であるかを、イエス様を見ることによって知ることが出来るようになったのです。それまでは神様は人間の力では知ることの出来ない、遠い存在でした。ですが、これからはイエス様を見ることによって神様の事が分かるようになったのです。神様の事が知りたかったら、イエス様の事を知ればよいことが分かるのです。

 この事と似たような記事は、マタイ11章25節からにも書かれています。マタイでは、

マタ 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

マタ 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

マタ 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

と書かれており、ほとんど同じなのです。マタイではこの話が12人の弟子を派遣して帰ってきたときに語られており、ルカでは72人の弟子が派遣されて帰ってきたときに語られているのです。ところが、これに続く話はマタイとルカでは全く違っているのです。

まずマタイではこの後何が語られたかというと、あの有名な聖句が語られているのです。マタイ11章の28節と29節です。

マタ 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタ 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

一方、ルカではその後、弟子たちの方を振り向いてこう語るのです。23節と24節です。

ルカ 10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。

ルカ 10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

即ち、マタイではその喜びと感謝の祈りの後で、弟子達には慰めと安らぎが語られ、ルカではその祈りの後で、歴史がイエス・キリストによって完成されたことを語っているのです。あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである、というのは弟子たちが今、最高に完成されたものを見ていると言う事なのです。

 イエス様が、このように、福音の宣教が行われて、歴史が完成に近づいていることを喜んでおられる時、それをひがんだ律法学者がイエス様を試そうとして質問しました。25節から28節です。

ルカ 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

ルカ 10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

ルカ 10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

ルカ 10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 この話と同じような話はマタイにもマルコにも書かれています。そこでは、この話が語られたのはイエス様たちがエルサレムに着いてからの話です。今ここでルカが語っているのは、まだエルサレムに旅をしている途中です。そして、そのマタイ、マルコでの小見出しでは「最も重要な掟」となっています。律法学者が質問した言葉は、マルコでは「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」と尋ね、マタイでは、「先生律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねています。一方、ルカではここに書かれているように、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と尋ねているのです。でもイエス様が答えた答えはほぼ同じです。それは、なぜかというと、当時は最も重要で、第一の事は永遠の命を受け継ぐことだったからです。イエス様は律法学者たちが、イエス様を試そうとしてその様な質問をしてきたことが分かりました。それで逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問されました。イエス様の得意の質問には質問で返す方法です。これで形勢が逆転するのです。律法学者たちは「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。この答えの不十分なところは、何々ですと自分の信念として答えているのではなく、何々とありますと単に情報として人ごとのように答えているところです。イエス様はそれを敏感に察知してこう言いました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」律法学者たちの言っていることは正しい答えなのです。問題なのはその通り彼らが生きていない、実行していないことなのです。ですからイエス様はそれを実行しなさい、そうすれば命が得られる、と言ったのです。私たちの信仰が、このように書いてある、このように言われている、このように思うと言うのでは不十分なのです。私はこのように信じている、私はこのように行っている、私はこのようにする、というように主体的に実践的に行うものでなければその信仰には何の力もないのです。

 ここまでは、マタイもマルコもルカもほぼ同じことを書いています。ところが、それぞれに大分ニュアンスの違う言葉が続けられているのです。マタイでは、律法学者が同じ質問をした時にイエス様はこう答えているのです。「心をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と予言者はこの二つの掟に基づいている。」と言いました。マタイでは神を愛し隣人を愛しなさいと言う事が最も大切な事として語られています。それは律法全体と予言者はこの二つの掟に基づいている、すなわち旧約聖書はこの二つに基づいていると、マタイらしく全ユダヤ人に語るように語られているのです。一方マルコでは質問してきたのはルカやマタイのようにイエス様を試そうとしてきた律法学者ではなく、イエス様の言葉を聞いて心から感心した律法学者が同じ質問をしているのです。そこでもイエス様は神を愛し、隣人を愛しなさい、と言う事を教えるのですが、それを聞いた律法学者は、「先生おっしゃる通りです。神は唯一である。ほかに神はないとおっしゃったのは、本当です。そして心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、又隣人を自分のように愛すると言う事は、どんな焼き尽くす捧げものや生贄よりもすぐれています。」と答え、イエス様も感心して、「あなたは神の国から遠くない」と励まされるのです。

 ところがルカでは、その質問に対してイエス様から質問された律法学者が、自分から、神を愛し隣人を愛することと書いてあります、と答えているのです。ですから、多分この答えと言うのはイエス様独自の考えというのではなく当時の律法学者達にはよく知られた、教えなのだと思います。マタイとマルコではその教えに焦点を合わせていますが、ルカではその事よりも、それを実行しているかどうかと言う事に焦点を当てているのです。ですからイエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言ったのです。そしてここからがルカ福音書の独自の所です。

 律法学者たちはイエス様を試そうとして質問し、逆に質問されて自分で答えなければならなくなって形勢が逆転したので、また質問して形勢を立て直そうとしました。その質問と言うのが「では、わたしの隣人とはだれですか」という質問なのです。多分マタイでもマルコでもこの隣人に対する質問と答えの話は知っていたのだと思いますが、イエス様の答えを、神を愛し、隣人を愛しなさいと言うところに焦点を当てるために、この続きの話は割愛したような気がします。一方ルカはむしろこの隣人とはだれか、という話に焦点を当てているからです。それはルカにとっても重要な話だったからです。この律法学者が私の隣人とは誰ですかと尋ねた話には理由があります。律法学者と言うのは何でも事細かに定義して、そのことをきちんと守ろうという傾向がありました。例えば安息日を聖とせよ、という律法があると、それでは聖とするとは何か、働くとは何か、どこまで働くことが許されるか、と事細かに決めていくのです。律法学者たちはこの聖書の教える、神と隣人とを愛しなさいと言う教えは知っていても、では隣人とは誰かわからなくては愛せないではないかと考えていたのです。当時ユダヤ人が考える隣人とはユダヤ人だけなのです。サマリヤ人や異邦人は隣人とはみなされず、愛される対象ではなかったのです。これがルカが善きサマリア人の話を載せた理由だと思います。なぜならルカも異邦人だからです。自分たちも愛される隣人として認められるかと言う事がとても重要だったのです。それでイエス様の答えとなる、善いサマリア人の話を語るのです。

 この話はよく知られているので、今ここで一節ずつ読み解いていくことは省かせていただきます。むしろ、ルカが意図したこの物語の真髄について語りたいと思うのです。ここの登場人物は追剥にあった旅人と、通りかかった祭司とレビ人、それにこの旅人を助けたサマリア人です。当時エルサレムからエリコに降る道と言うのは追剥や強盗の多い所で知られていました。28qほどの間に500mほども降るような山道でしたので、追剥たちが隠れるところはいくらでもあったのです。ですからこの道を通るものは一人では通りません、とても危険だからです。ですから普通はここはグループで通るのが多かったのです。ここに書かれている祭司やレビ人それにサマリア人も実は一人ではなかったと思います。何人かのグループで来ているのです。ところがこの追剥にあった旅人は一人なのです。無謀な旅をしていたので、襲われたのは自己責任として当然と思われたのかもしれません。追剥に襲われて倒れていた旅人を見て、最初の祭司達は死んでいると思ったのかもしれません。祭司は死体に触れると汚れる信じていたので、浄められるまでは神殿の仕事が出来なくなります。ですからその旅人には近づかないようにしたのです。レビ人はその人が死んではいず重症であることを知っていたかもしれません。又は死んだふりをした強盗が襲ってくると考えたかもしれません。とにかくいずれにしても、この祭司たちとレビ人たちはこの旅人を憐れむよりも自分たちの都合を優先させたのです。一方ここを通りかかったサマリア人がいました。この後の状況からするとこのサマリア人は宿屋にも懇意にしているので、行商をして歩いているグループの人達と思われます。サマリア人とは当時ユダヤ人からは汚れた人々、異邦人と同じとみられていました。そのサマリア人がこの旅人に憐れみをかけたのです。そして、薬を塗り、宿屋にも頼んで回復するまで面倒を見てくれと頼んだのです。この譬え話をして、この時旅人の隣人になったのは誰かとイエス様が言うと、このサマリア人ですと律法学者は答えたのです。するとイエス様は「あなたも同じようにしなさい」と言いました。

 この話は、この善いサマリア人のように隣人に対し親切にしなさいという教訓のように受け取られていますが、ルカはこの話に別の意味を込めているように思われます。この登場人物を別の角度から見ていきましょう。この無謀な旅をした旅人とは、罪人の事を現しているのです。当然当時の人は罪人は自分で罪を犯しているのだから自己責任であると考えているのです。ですからそのような罪人は非難されるべきであって、助ける存在ではないのです。祭司やレビ人たちは、自分達の事ばかりを考えて、聖書の教えを実行しようとしていない、律法学者やパリサイ人の事を示しています。彼らは罪人を非難して、その責任を彼らに押し付けようとしているのです。そしてこの善いサマリア人は実はイエス様なのです。イエス様はこの非難されるべき罪人たちをも救おうとその手を差し伸べ、隣人に対してその愛を実践していったのです。なぜイエス様がサマリア人に例えられたかというと、イエス様を非難する人々の中には、イエス様の事をあれはサマリア人だ、汚れた罪人だという人たちがいたからです。ルカは、この物語の中に、イエス様は自分たちのような異邦人や罪人さえも救ってくださる方である。ユダヤ人たちのように、自分達だけを隣人とみなす方ではないと信じてこの物語を書いているのです。

 この後、イエス様はエルサレムのすぐ近くの村ベタニアに行かれます。そこにはマルタとマリアそして蘇ったラザロの兄弟が住んでいる家があり、イエス様はその家に厄介になることになっていたのです。マルタは長女なので、イエス様一行をおもてなしをするためにかいがいしく働いていました。ところがマリアはその手伝いをせず、イエス様の側にいてその話をじっと聞いていたのです。仕事がはかどらないマリアはいらいらして、イエス様に文句を言うのです。38節から42節です。

ルカ 10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

ルカ 10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

ルカ 10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ルカ 10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

ルカ 10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 この話もルカだけに取り上げられている話です。ルカは異邦人なので、マタイやマルコとは違った視点で物事を見ている傾向があります。特にギリシャ的な視点を持っているので、ユダヤとは違って、女性の視点も大切にしているのです。ここで語られているのは、日常生活の中での女たちのつまらないいさかい、と言っても良い話です。ですが、ルカはそこに大切なメッセージを聞き取っているのです。マルタがイライラしてイエス様に文句を言った時に、イエス様の答えはこうでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と答えたのです。最も大切なことは何なのか、それが今日の聖書のテーマです。良いサマリア人の話の中でも、一番大切なことは何なのかが問われています。祭司やレビ人は自分の仕事を優先し、サマリア人は人を助けることを優先しました。マルタはもてなしの準備をすることを優先し、マリアはイエス様の話を聞くことを優先したのです。この大切なものは何かを間違えると私たちは大きな間違いをしてしまいます。一生懸命にやっているはずが、裏目に出てしまうこともあるのです。本当に大切なこと、必要なことをしっかりとつかんでおくことが大切です。それさえつかんでいればあとはどうでも大丈夫なのです。サマリア人は人々の隣人となり寄り添って助けることをお金や自分の都合よりも大切な事としました。マリアは、イエス様をもてなすことよりも、イエス様の御言葉に聞くことを大切な事としました。マリアはイエス様が、もしかするとエルサレムで死なれるのではないかと思っていたのだと思います。ですからイエス様に寄り添ってその御言葉に聞くことを第一としたのです。必要な事はただ一つだけで、マリアはそれを選んだのです。

イエス様は、ご自分が神様と一体になって、福音を伝えることが出来たことを大きな喜びとしました。ご自分がなさることが神様の御心であることを確信していたのです。律法学者の、何をしたら永遠の命を受け継ぐかという質問に対して、神を愛し隣人を愛することを実行しなさい、と言いました。知識として知っているだけでは駄目であり実行することによって、本当に隣人になれると言いました。マルタには本当に必要な事を大切にしなさいと教えました。あれもこれもと心を煩わしてはいけないことを語りました。私達もまた、この世にあって、いろいろな事に心を煩わすものですが、本当に必要な事はただ一つしかないのです。そのことが私たちのエゴによって見失ってしまい、本当に大切な事をする目を失ってしまっています。どうか聖霊によって、その大切なものをしっかりと見つめることが出来ますように。御心を実行する者でありますようにと祈ります。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様は神様と一つの方です。私たちが神様を知るのに、知識や知恵はいりません、ただ幼子のように、イエス様を見上げるだけです。どうかこの大切なことを忘れずに、あなたに従って行くことが出来ますように。言葉だけでなく、知識だけでなく、実際に神様と隣人とに寄り添って愛していくことが出来ますように。自分の都合に捉われることがありませんように。ただあなたの聖霊に委ねて、良きことを行っていくことが出来ますように。神様と隣人とを心をつくして愛することが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

 

◆喜びにあふれる

ルカ 10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

ルカ 10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

ルカ 10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。

ルカ 10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

◆善いサマリア人

ルカ 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

ルカ 10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

ルカ 10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

ルカ 10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

ルカ 10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

ルカ 10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

ルカ 10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ルカ 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ルカ 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

ルカ 10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

ルカ 10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

ルカ 10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

ルカ 10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

◆マルタとマリア

ルカ 10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

ルカ 10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

ルカ 10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ルカ 10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

ルカ 10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」