家庭礼拝 2017年4月19日ルカ9章10-27 5千人に食べ物を与える

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起 

 9章の話は、ほとんど共観福音書の平行記事です。ですから、多くの共通の話がマタイにもマルコにもルカにも書かれているのです。ですから、4つの福音書に同時に書かれている箇所が多数ありそうな気がするのですが、4つの福音書に皆同じことが取り上げられて書かれているのは、実に5千人に食事を与える話、一つだけなのです。なぜそうなっているのかというと、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書として、同じことを取り上げて語っているのに、ヨハネだけは違った視点で書いているのです。ヨハネ福音書は一番最後に書かれた福音書なので、共観福音書にはない出来事を書き表そうとしているのかもしれません。共観福音書に書いてあることはそれを参考にしてもらい、それ以外のところで不足していることを書き足していこうと言うつもりで書いているのかもしれません。ではなぜ、5千人食事を与える話だけはヨハネも一緒に書いているのかというと、共観福音書の3人とは違った視点で書いているからです。共観福音書の3人は、イエス様が群衆を憐れまれて、体を養う食事を与えたという視点で書いていますが、ヨハネはその5千人の食事の翌日の事も書いています。そこではイエスを探し求めてきた人々に対して、イエス様は、彼らが来たのはしるしを見たからではなく、パンを欲しくて来たのだと言う事を言っています。そして、イエス様は私が命のパンである。私のもとく来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがないと、この5千人の食事に対して、別の見解を述べているのです。イエス様は食事を与える人ではなく、イエス様自身が命のパンであると言う事です。このように、この5千人の食事の話は、全ての福音書に書かれている、唯一の物語としても貴重なのです。この話もまた、奇跡物語に等しいでしょう。いろいろ理屈の通る解釈をしている人もいますが、それにしてもこのような事が起こるのは奇跡なのです。

 この後物語は、ペトロが信仰を言い表す話と、イエス様が死と復活を予告する話へと続きます。いよいよメシアとしてのその働きを、公に行っていくことになります。この5千人の食事の話が、ペトロの信仰を引き出し、イエス様を救い主と告白させ、それを確認できたイエス様がいよいよ、十字架の死と復活へと踏み出す契機となるのです。ですから、今日の箇所は、イエス様がエルサレムに向かう前の、大きな山場となっているのです。

今日の聖書の箇所の最初は、イエス様が12人の弟子を派遣して福音を述べ伝えさせ、そして彼らが帰って来てイエス様に報告してからの話です。10節です。

ルカ 9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

 返ってきた弟子たちがその成果をイエス様に告げた後、イエス様は弟子たちを連れて、ベトサイダと言う町に行かれました。イエス様のガリラヤ伝道はカファルナウムを拠点にして、ヘロデ・アンティパスの領地内を宣教して歩いたのです。ですが、このベトサイダと言う町はカファルナウムの隣の町なのですが、ここはピリポの領地なのです。ですから12弟子を派遣して、大勢の群集の中でもまれて食事をする暇もなかった弟子たちを休ませようとして、ベトサイダと言う町に退かれたのです。ここまでは群衆も付いて来ないだろうという気持ちがあったのだと思います。ところが群衆はそれでもイエス様たちの後を追って、付いて来たのです。11節と12節です。

ルカ 9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。

ルカ 9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」

 イエス様は、その従って来た群衆を追い払うことなく迎えて、神の国について語り、病気の人は癒してあげたのです。ですが日が暮れかけ始めました。弟子たちは心配して、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」と言ったのです。弟子たちは群衆の食事と宿の事を心配したのです。おなかをすかした群衆が騒ぎを起こしては自分たちは責任をとれないことを心配したのです。ですから解散して自己責任でやってくれと責任逃れをしようとしたのです。

ですがイエス様はそんなことは少しも心配していませんでした。それどころか弟子たちを試すように、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言ったのです。すなわち、あなたたちが責任をもってやりなさい、と言っているのです。13節から15節です。

ルカ 9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

ルカ 9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

ルカ 9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

弟子たちはどうしたでしょうか。彼らに食べ物を与えなさいとイエス様に言われて、食べ物を確認して、パンが5つと、魚が2匹しかないと答えたのです。私たちが食べ物を買いに行かない限りと言ったのですが、買いに行ったとしても、男だけで5千人ですから、女子供も入れれば1万人以上もいたと考えられる人々の食事を用意するのは無理なのです。ですから、弟子たちは、自分達にはもうどうしようもないと言う事をイエス様に訴えているのです。ですが、イエス様は最初からその事は見ぬいていました。だから弟子たちを試してみたのです。イエス様は人々を50人ずつ組みにして座らせなさいと言われました。一万人いたとすれば200組もいたことになります。その人々がきっと円く固まって座っていたのだと思います。弟子たちは分担して、その群衆を小さな50人の組に分けて座らせたのです。そしてイエス様はどうするかを、弟子たちに見せたのです。16節と17節です。

ルカ 9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

ルカ 9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

イエス様は5つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、祈りを唱えて割いて弟子たちに渡して、群衆に配らせたのです。これでどうして、5千人もの人の食事を賄うことが出来たのかは書かれていません。でもこれがきっかけで、皆が同じように、自分の持ってきた食事を感謝して祈りを唱え互いに分け合ったというのが一番理解しやすい話です。そのために50人くらいの小さなグループに分けて、互いに与え合うことが出来るようにしたのだと思います。魔法のようにイエス様のパンがどんどん増えていったというのも別の解釈としてはあるかもしれませんが、分け合ったという方が自然です。イエス様のこの行為は、聖餐式と同じ意味だとも言われています。私たちが、イエス様がなされたように、持っているものに感謝し、それを皆と分かち合うならば、皆が満ち足りるような社会となるのだと思うのです。この5つのパンと2匹の魚を持っていたのは、弟子達ではなく、近くにいた少年であることをヨハネは記しています。その少年を連れてきたのがアンデレであることまで書いているのです。この少年は自分の食事をイエス様にささげようとしていたのだと思います。この少年の思いがイエス様の祈りとなって奇跡を生んだのです。

 さて、このような出来事が終わり、イエス様が一人で祈っていました。18節と19節です。

ルカ 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

ルカ 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

 イエス様が一人で祈っておられる時と言うのは、これから大切な何かを始めようとしている時です。この時は、いよいよメシアとして、エルサレムに入り、そして十字架での犠牲を払おうとしていることの是非を神様に尋ねていたのだと思います。その祈りの中で、神様との会話があって、そして、この弟子達への質問となったのだと思います。その質問とは「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と言う事でした。人々のイエス様に対する認識、弟子たちのイエス様に対する認識が、時至っているかどうかと言う事を確認しようとしているのです。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と答えました。これは領主ヘロデがイエス様について聞いている噂と同じものです。このようなうわさが広く信じられていたことが分かります。

 そこでイエス様は、振り返って弟子たちに同じことを訪ねたのです。20節です。

ルカ 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 それではあなたは私を何者だと言うのか、このような質問をされたら、私たちはどう答えるでしょうか。イエス様の事を色々言う人はいます。信じる人、信じない人さまざまなのですが、大切なのはあなたはどう思っているのか、という質問に答えることです。これはイエス様に対する信仰告白を尋ねている言葉なのです。その時ペトロが言ったのです。「神からのメシアです」これはペトロの信仰告白なのです。ペトロはイエス様の事を、神様から遣わされたメシアであると信じていたのです。イエス・キリストと言う言葉は固有名詞ではありません。これはイエスはキリストすなわちメシアであるという信仰告白なのです。イエス様は、この言葉を聞いた時、弟子たちのメシア理解が必要なレベルにまで至ったことを知ったのでした。それまでのユダヤ世界でのメシアと言うのは、政治的なメシアで、ローマや強国から自分たちを解放してくれるメシアだったのですが、ついにイエス様のように神様の愛と慈しみによって人々を解放する人をメシアと理解するに至ったのです。イエス様はこの言葉を聞いて喜んだと思います。そして、ついに時は満ちたと思ったと思うのです。

 そして、弟子達にはこの事を誰にも話さないようにと命じて、弟子たちにだけはもう話してよいだろうと考えて、大切な秘密の言葉をこのように言ったのです。21節と22節です。

ルカ 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、

ルカ 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 イエス様が言われたのは、本当のメシアとは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっているのだ、と言ったのです。すなわちイエス様は、殺された後、三日目に復活すると言ったのです。これを聞いた弟子たちはビックリしたと思います。いかにペトロが、あなたは神からのメシアです、と答えたとしても、本当の理解からはまだほど遠いものだったと思います。イエス様はそのことをも理解しつつ、語っているのです。これをはじめとして、イエス様の死と復活の告白はあと3回続くのです。メシアとは、それまでユダヤの人々に信じられていたように、すべてのものを従わせる力ある方、というイメージから、全ての人のために、全てを捧げる人、というイメージに変わってくるのです。

 イエス様がこのように、本当のメシアとはどのようなものであるかを弟子たちに話したのですが、まだ弟子たちの理解はこの事を受け入れるまでには至っていませんでした。マルコによる福音書では、この事をイエス様が言われると、ペトロはイエス様をわきへお連れして、諌め始めたのです。自分ではイエス様にそんなことを言ってはいけないと、良い事をしているつもりで言っているのです。ところがイエス様に、「サタン、引き下がれ、あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている」と叱られたのです。この事はマタイとマルコには書かれていますが、ルカとヨハネには書かれていません。当時権威あるものになっていたペトロに遠慮したのかもしれません。

 イエス様は、さらにこのメシア理解を深めるために、弟子たちがどのようにしなければならないのかを話したのです。23節から25節です。

ルカ 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

ルカ 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

ルカ 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

 イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言いました。イエス様に従うと言うのは、自分の事を考えていてはだめだと言う事なのです。自分の都合、自分の損得、自分の心配、自分の考えなど自分の事は全て捨てて、そして日々、自分の十字架を背負いなさいと言いました。それはイエス様がこれから向かう自己犠牲の十字架につけられるように、あなたたちも同じ自己犠牲の十字架を日々覚悟してイエス様に従ってきなさい、と言っているのです。それは決してつらい事でも苦しい事でも、悲しい事でもありません。なぜならば、自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、イエス様のために命を失う者は、それを救うのである、と言ったのです。私たちが本当に必要としているもの、命そのものを救うことが出来るからだというのです。イエス様は命の主なのです。イエス様のために命を失うものは、それを救うのです。自分の十字架を背負うことは、それほど悲惨な事ではありません。聖霊に委ねれば、それは負いやすいものとなります。十字架が重荷になるのは自分を捨てられない人なのです。

そしてこう言いました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」この言葉に励まされて、遥か日本までやってきた人がいます。その人の名はフランシスコ・ザビエルです。この言葉をザビエルに語った人は、イグナチオ・ヨロラです。共にイエズス会を創立し世界宣教へと貢献した人々です。

 イエス様の言葉はさらに続きました。26節と27節です。

ルカ 9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

ルカ 9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 イエス様を否定するものは神の国ではその人が否定され、イエス様を恥じる人はイエス様が再臨される時にそのものを恥じると言いました。たとえイエス様を恥じていてイエス様を否定していても、再臨の時を信じているものにとっては、この言葉は重かったと思います。信仰的な決断を迫られたと思います。ペトロのイエス様を諌めた行為と言うのは、イエス様の言葉を恥じた行為なのです。だから、イエス様はペトロを叱ったのです。イエス様を恥じる人は、イエス様よりも自分を優先しようとするのです。

そしていろいろ物議を醸し出した、「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」という言葉が語られました。この人と言うのはヨハネだと言う事です。確かにヨハネは長生きしました。ですが最後は死にました。この人は、永遠に死なないだろうと噂されたのです。ですがヨハネ自信がこの事の意味は、単に神の国を見るまでは決して死なない者がいると言っただけで、死なないで生き続けると言ったわけではないと答えています。

イエス様はついにメシア宣言を、弟子たちにしました。弟子たちの信仰がそれを語ってもいいだろうと言うところまで来たと考えたからです。ですがまだペトロが犯したように、理解が不十分で、イエス様を諌めるようなことをしてしまったりしたのです。ですがそれでも、イエス様は弟子たちが、自分達だけでもこれから先宣教していけるだろうと言う確信を得たのです。それで、弟子たちに、自分が死んで三日後に蘇ることを語って、エルサレムに向かう決心をしたのです。エルサレムには十字架が待っていることは、十分承知のうえで、自分の命をみんなの救いのためにささげるメシアとして、その道を歩んでいったのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

イエス様は、ご自分の歩まれる道を弟子たちにはっきりと示されました。イエス様はそのことを神様に祈りつつ導かれたのです。イエス様は、ご自分を捨てて十字架の上でその使命を果たされようとしていました。でも弟子達にはまだそのことが理解できず、ペトロのようにイエス様を諌める者もいたのです。イエス様は、自分を捨て、自分の十字架を追って私に従ってきなさいと言いました。自分を捨てられないものは、ペトロのように、神の国ではなく自分の事を思ってサタンの手先になってしまいます。私たちもまだ、あなたを本当に理解できるものではないかもしれません。神の国よりも自分の都合を優先するものかもしれません。ですが、本当にあなたに従うものならば、自分を捨て自分の十字架を背負う覚悟でいなければならないことを教えられるものです。神様、どうか私たちの信仰の歩みが、イエス様に倣う者でありますように。イエス様が教えて下さったことがどのような事であるのかを、心から理解できるものとさせてください。どうか聖霊に委ねて、自分の十字架を負わせててください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆五千人に食べ物を与える

ルカ 9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

ルカ 9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。

ルカ 9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」

ルカ 9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

ルカ 9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

ルカ 9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

ルカ 9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

ルカ 9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

◆ペトロ、信仰を言い表す

ルカ 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

ルカ 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

ルカ 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

◆イエス、死と復活を予告する

ルカ 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、

ルカ 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

ルカ 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

ルカ 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

ルカ 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

ルカ 9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

ルカ 9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」