家庭礼拝 2017年4月12日ルカ9章1-9 十二人を派遣する

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起 

 イエス様は前回の奇跡物語の中で、自然、悪霊、病気、死に対するイエス様の権能を示しました。それは、イエスさまこそ、来るべき方救い主であることをルカは語っているのでした。そして、今日の聖書の箇所では、そのイエス様が弟子たちを派遣すると言う事になりました。イエス様が神の国を述べ伝えるだけでなく、弟子たち自身が自分で述べ伝えることが出来るようにと言う、弟子訓練でもありました。その時イエス様は弟子たちに二つの権能を与えたのです。その権能とは悪霊に打ち勝つ権能と、病気をいやす権能です。イエス様が前の章で表した権能の内の二つです。ですがイエス様は全部の権能を与えたわけではありません。自然に対する権能と、死に対する権能は別でした。これは神様に属する権能なのです。

 その権能を弟子たちに与えて、出発する際に、心構えとして教えた話が今日の聖書の箇所です。神様の働きをしようとするものは、どのようにしなければならないのか、それは、私たちにとっても大切な事です。それは必ずしも宣教と言う大きな働きでなくても、イエス様に従って行くものはどうあらねばならないかと言う事を教えている事でもあります。

それでは、聖書を読んでみましょう。1節から3節です。

ルカ 9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。

ルカ 9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、

ルカ 9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。

 イエス様は12人の弟子たちを集めて、権能を与え、神の国を述べ伝えるために遣わすことにしました。マルコ福音書では、二人ずつ組みにして遣わすことにされたと書いています。そうすると、6つのグループが出来たわけです。誰が誰と組んだのかも興味ある話ですがそれは書かれていません。そして、イエス様が与えた権能に関しては、マタイ、マルコ、ルカではその表現が微妙に異なります。マルコでは、簡単に汚れた霊に対する権能をさずけた、と書かれています。後の方には多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした、とも書かれているので、同じことを言っているのかもしれません。ですが、マタイになると、こう書いてあります。「行って、天の国は近づいた、と述べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」ここでは死者を生き返らせる権能も与えたことになっています。イエス様がその権能をどのような形で与えたのかも、興味あるところですが、マタイに書いてあるように、病人をいやし、悪霊を追い払いなさい、と言ったようなことを命じたことが権能を与えたことになったのだと思います。

ではなぜ、イエス様はそのような権能を弟子たちに与えたのでしょうか。その目的は何なのでしょうか。イエス様が弟子たちに与えたこの権能は、神の国を述べ伝えると言う事とセットなのです。苦しみ悩んでいる人たちの病気をいやし、悪霊を追い出してあげよう、というだけならば、イエス様はその権能をお与えにならなかったかもしれません。病気をいやし悪霊から解放すると言うのはそれらから自由になると言う事です。イエス様は、私たちを肉体的にも精神的にも束縛されているものから解放してくださる方なのです。それが救いです。ですがその救いはそれで終わるのではなく、神の国に入るための準備なのです。それでなければその救いは救いとはならないのです。ですから、弟子たちは、神の国は近づいたと言って、悔い改めるように言い、病気や、悪霊や、かたくなな心から解放されて、神の国に入る準備をしなさいと述べ伝えているのです。

キリスト教に入ると、いろいろな教義で縛られてしまって、束縛されるのではないかと恐れる人もいます。でもそれは大きな間違いです。律法主義者はそのようなところがありました。現代の教会の中にも律法主義者のような人がいて、良いことをしなければならない、キリストにふさわしくしなければならないと、型にはめようとする人もいます。ですがそれは決してキリスト教ではないのです。キリスト教の本質は愛によって解放することなのです。自由にすることなのです。もし束縛するようなことがあるならば、それは決してイエス様の望むことではないのです。ですから私たちはイエス様のもとにある自由をもっと喜び味わっていいのです。それでもクリスチャンと言われたとしても、自由であっていいのです。私たちはそのような束縛から解放されて、神様の国に入るのです。

イエス様は、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」と言いました。なぜでしょうか。旅に出るにはお金や食料や着替えを準備して持って行ったほうが心強いのではないでしょうか。誰でも旅をするときにはそうすると思います。ですがそうしてはならないとイエス様は言いました。それは、そのようなものがないと心配だという束縛が生まれるからです。自由でなくなるからです。でも、何も持たない人はどうすればいいのでしょうか。それは何も持たなくても、神様が備えて下さると言う事を信じればいいのです。神様は、必要なものを必要な時にいつも備えて下さった、今度もきっと神様は備えて下さるだろう、そう信じて心配することなく自由に生きること、それが本当に救われて自由に生きることなのです。これが出来るのは本当にイエス様の言葉を信じているからです。権能の話にしても、イエス様が、病人をいやしなさい、悪霊を追い出しなさい、と言っただけの話です。ですが弟子たちはそれは病人をいやし悪霊を追い出す権能を与えられたと信じたのです。旅には何も持って行ってはならない、というのも何も持って行かなくても必要なものは与えられると信じたからです。神様以外になにものにも頼らず生きられるというのはどんなに自由で清々しいものかを思わされるのです。

 さらにイエス様はこう言いました。4節と5節です。

ルカ 9:4 「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。

ルカ 9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」

 何も持たないで旅をするのですから、誰かの助けを得なければなりません。その助けとは神様が備えて下さる助けなのです。ですからどこかの家に入ったら、そこに留まって、その家から旅立ちなさい、というのは、どこかの家に入ったところが神様が備えて下さった家なのだから、その家の待遇がいかに貧しいものであっても、その家に留まりなさいと言う事なのです。もし自分で判断して、この家よりも向こうの家の方が、居心地がよさそうだなどと思うならば、それは神様に従うのではなく、自分の思いに従うことになってしまうのです。あくまでも神様が備えて下さるものを受け取っていくのです。ですが、誰も迎え入れない時もあるかもしれません。それは、あなたたちを迎え入れないのではなく、神様を迎え入れないと言う事なのです。その時には、彼らへの証しとして足についた塵を払い落としなさい、彼等とかかわりを持たないようにしなさい、と言っているのです。

この様にイエス様に、教えられ、権能を与えられた弟子たちは二人組になって自分たちだけで神の国を述べ伝え始めたのです。6節です。

ルカ 9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

 弟子たちは宣教に出かけていきました。イエス様に言われた通りに何も持たずに、ただ神様の与えて下さることを信じて、村から村へと巡り歩き、神の国は近づいたと告げ知らせたのです。そして病気の人がいれば癒したのです。それを見た人たちは、神の国が本当に近くまで来ていることを信じて悔い改めて、神の国に入る準備をしたのです。

この事によって、イエス様の宣教は大きく広まりました。ガリラヤ中にその教えが急速に広まったのです。

 さて、この噂は領主ヘロデの所にも聞こえてきました。イエス様とその弟子たちの神の国宣教の事が聞こえてくるほど、イエス様の福音は大きな広がりを見せたのです。でもその噂は、いろいろな憶測が入っていました。いったいこのイエスと言う男は何者だろうと言う思いが、いろいろな解釈を生んだのです。その話を聞いて領主ヘロデはこう思ったのです。8節と9節です。

ルカ 9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、

ルカ 9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。

 イエス様の話を聞いて、領主ヘロデは戸惑ったというのです。どう理解していいかわからなかったのです。というのも、イエス様の事を「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という人もいれば「エリヤが現れたのだ」と言う人も居たし、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」という人もいたというのです。とにかくイエス様はただものではない、偉い預言者が現れたのだと言う事なのです。それほどイエス様の評判は高まったのです。特にヘロデにとっては、ヨハネが死者の中から生き返ったという話は、聞き捨てならない恐ろしい話に聞こえたはずです。ですから、どう受け止めたらよいか大いに戸惑ったのです。そして9節です。

ルカ 9:9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

 ルカは、ヘロデが比較的冷静にこの噂を聞いて、「いったい何者だろうこんなうわさの主は。」と言ったと書かれています。ここには殺したはずのヨハネを恐れると言うよりも、それに似た男がいるなんて不思議だ誰だろうという、興味本位の事が感じられます。それほど戸惑いは感じません。ところが、マタイになるとそうではないのです。マタイ14章1節と2節にはこう書かれています。

マタ 14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、

マタ 14:2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

ここでは領主ヘロデが、イエス様の評判を聞いて、自分から「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言っているのです。この時まだ、ヘロデは洗礼者ヨハネを殺した事の衝撃から癒されてはいなかったのです。ですからイエス様のうわさを聞いた時に、恐ろしくなって、きっとあれは洗礼者ヨハネがよみがえったのだ、自分に仕返しに来るかもしれないと恐れに捉われたのです。

 マルコでは、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと言ううわさが、ヘロデ王の耳に入った時、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」とやはり恐れに捉われています。マタイのように、自分で言ったのではないのですが、うわさを聞いて、ヨハネが生き返ったと信じ恐れたのです。ですから、ルカが語っているように、「何者だろう、イエスにあってみたい。」と言った余裕のある話ではなかったのです。弟子達の宣教した、「神の国は近づいた、悔い改めて神の国を待ち望みなさい」と言った福音の言葉を聞いて、ヘロデは自分はきっと裁かれると、恐れおののいていたのです。

12人の弟子たちは、イエス様に、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を与えられて、何も持たずに、宣教の旅に出ました。ですが、その旅は決して不安な旅ではなかったのです。弟子達には、自分達に必要なものはすべて神様によって備えられているという、安心と自由があったのです。弟子たちは自分たちだけでも福音の宣教が出来ることに大いなる喜びを感じ、また、癒しと解放を与えることによって、多くの人達が、御国を受け入れる準備が出来ていることに喜びを感じたと思うのです。聞く者にとっても告げる者にとってもそれは、福音の大きな喜びなのです。ところがその福音の話を聞いて、恐れおののいている人がいました。それはヘロデ王でした。ヘロデは神の国を受け入れず、人の評判の方を受け入れたために、裁かれる恐れに捉われていたのです。福音を聞くものはそれによって、祝福を与えられるか裁かれるかに分けられるのです。それは受け入れるか受け入れないかです。主を信頼するものはすべて救われて、解放され、自由になるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、弟子たちはイエス様の御言葉を信じ、何も持たずに福音の宣教に旅立ちました。何も持たないことは不安な事ではありませんでした。ただ神様を信頼して、きっと必要なものは与えられると信じて、歩むことが出来ることは大きな自由であり、喜びでした。弟子たちはその力で、村々を回って多くの宣教をすることが出来ました。一方ヘロデは、不安と恐れの中にありました。何でも自分の力でできると思い込んでいるものが、裁かれるかもしれないという不安に捕らわれているのです。神様、信じて歩むことの幸いを思います。どうか私たちもなにものにもとらわれることなく、何物にも依存することなく、ただ神様にのみより頼んで解放されて歩んでいくことが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆十二人を派遣する

ルカ 9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。

ルカ 9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、

ルカ 9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。

ルカ 9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。

ルカ 9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」

ルカ 9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

◆ヘロデ、戸惑う

ルカ 9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、

ルカ 9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。

ルカ 9:9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。