家庭礼拝 2017年3月22日ルカ8章1-15 種を蒔く人のたとえ

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起 

 イエス様とファリサイ派の人々や律法学者達との対立はだんだん深まってきました。彼らはイエス様のアラを探し、なんとか訴える口実を作ろうといつもその語る言葉や行動を監視していました。その様な中で、前の章の「洗礼者ヨハネとイエス」の小見出しの所や、「罪深い女を赦す」小見出しのところで、ファリサイ派の人々の信仰に対する基本的な姿勢を、イエス様は非難してきました。

 今日の聖書の箇所も、その流れにある箇所です。イエス様は最初は町々の会堂を回って神の国を述べ伝えていました。ですがそこにはいつもファリサイ派の人々や律法学者たちの影があったのです。それで、この8章の頃からはイエス様は町や村を巡って神の国を述べ伝えるのに、集会所の会堂ではなく、道筋の街道沿いや、丘や、湖の岸辺で教えることが多くなりました。それでもファリサイ派の人々や律法学者たちは監視を続けていました。

 そして今日の有名な種を蒔く人のたとえを語ります。この話はマタイにもマルコにも書かれている有名な話ですが、マタイとマルコでは湖のほとりで、イエス様は船に乗りそこに座って教えられたと書かれているのです。ルカの場合はガリラヤのどこかまでははっきりしません。どうも湖の側ではなさそうです。ここでイエス様は譬えを用いて話をしますが、ここでの話しのポイントはどうして喩えを用いて話をするかというところにあります。もちろんこの種蒔きがまいた種がどこに落ちて、無事に成長したのかどうかと言う事も大切なのですが、むしろ主眼は、イエス様がどうして喩えで話をするのかと言う事にあります。この後もイエス様はいろいろな譬えを用いて話をします。譬えは、理解しにくい話を、身近にある譬え話で、体験からも理解しやすいようにしてくれるのが目的ですが、イエス様の譬え話はそれだけではないようです。

それでは、聖書に戻って、一つ一つ読み解いてみましょう。まずは、1節から3節です。

ルカ 8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

ルカ 8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、

ルカ 8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 すぐそのあとと言うのは、イエス様がファリサイ派の人に招かれてその家で食事をしていた時に罪深い女が来て、足に香油を塗った話が終わった後と言う事です。イエス様はその家で食事をすますと、神の国を述べ伝えながら、町や村を巡っていきました。その時一緒について行ったのは12人の弟子たち以外にも何人かの女性たちが、イエス様たちの世話をするためについてきていたのです。その人たちは、皆イエス様に悪霊を追い出してもらって病気を癒してもらった女性たちでした。その中でもここでは二人の女性が詳しく紹介されています。それはこの二人がとても対照的な二人であったからです。一人は7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリアです。悪霊は一つだけではなく7つもあったのですから、身体的な病気だけではなく、心の病も持っていたのだと思います。普通ではとても直すことの出来な悲惨な病にかかっていたのです。きっと社会からも隔離されるような、地獄のような状態から、イエス様に救われて、そのあとはイエス様にずっと従って世話をしていた女性です。イエス様が十字架の上で死んで葬られ、次の日の朝一番最初に墓に行ったのはこのマグダラのマリアでした。もう一人の女性はヘロデの家令クザの妻ヨハナだと書かれています。ヘロデの家令と言うと、領主ヘロデの財産の管理を任されている大変重要な人物です。ですからその家は裕福で、社会的地位も名誉もあったはずなのです。その妻ヨハナは、その立派な社会的地位や名誉を捨てて、イエス様に従ったのです。いうなれば彼女はセレブです、もう一方のマグダラのマリアは罪に汚れたものと映っていたと思います。このような人たちが一緒になって助け合いながらイエス様について行ったのが、イエス様の人柄の不思議なところなのです。そのような色々な人達がいた中で、彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していたというのです。ここにはすでに小さな教会が生まれていたのです。

さてイエス様はいよいよ種蒔きの譬えをお話になりました。きっとその近くで、種を蒔く人を見たのかもしれません。イエス様の譬えはとても身近なところから持ってくる生活感の感じられる譬えなのです。4節から8節です。

ルカ 8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

ルカ 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

ルカ 8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。

ルカ 8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。

ルカ 8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

イエス様は種蒔きの話をして、その種が4種類の場所に落ちたことを言いました。一つ目は道端に落ち、二つ目は石地に落ち、三つめは茨の中に落ち、四つ目は良い土地に落ちたというのです。道端に落ちた種は人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。実らなかったのです。二つ目の種は石地に落ちました。これは石の上に落ちたというよりも、その地方に多い、石灰岩の上に薄く土がかぶさったような土地で、芽が出ても、根が張れず、水気を取ることが出来ずに枯れてしまうような土地です。三つめは茨の中に落ちたと言います。多分この茨は、最初から茨が出ていたのではなく、見た目には良い土地のように見えても、その下にはいばらの根が張ってあるような場所だったのだと思います。ですから、種の芽が出ると一緒に茨の芽や枝も出てきて、その枝が種の芽を覆い隠して育たなくしてしまうと言う事なのです。そして最後に善い土地に落ちた種は、成長して百倍の実を結んだというのです。この話はどこにでも見られるような種蒔きの風景で、誰でもその情景を思い起こすことが出来ました。そしてイエス様は最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのです。イエス様はこの譬え話の中に大切なことが隠されているから、その意味をしっかり聞き取りなさいと言っているのです。ですがこの言葉が、心に響いた人々と響かない人々がいました。イエス様の「聞く耳のある者は聞きなさい」といった言葉に反応した人々は、その言葉の意味を考え始めました。そしてその譬えの意味を考え始めたのです。ところが、イエス様の言葉が心に響かなかった人は、単なる種蒔きの話で終わってしまって、何も残らなかったのです。

イエス様の弟子たちは、この言葉の意味は何だったのだろうかと考えていました。ですから、あとで、イエス様にその意味を訪ねたのです。9節から10節です。

ルカ 8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。

ルカ 8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」

 イエス様は譬えの意味を答える前に、どうして喩えで話をしたのかの理由を語りました。それは『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」と言われたのです。この答えを聞くと、イエス様が弟子以外の人には理解できないようにするために譬えで語ったかのように聞こえます。そうなのでしょうか。マタイではここの箇所はこう書かれています。

マタ 13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。

マタ 13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。

マタ 13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

マタ 13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

 このように、マタイでは彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないので譬えで語って、その話が心に残るようにしたのだ、持っているものまでも取り上げられないようにするためだと言っているのです。ですから、ルカのように、理解できないようになるために譬えで語っているのではないようです。もしかすると、ルカもマタイと同じ意味で書いていたのかもしれません。そしてマタイではその譬えを語った対象が群衆であり、弟子たちはイエス様に「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と聞いています。直接譬えの意味を聞いているのではないのです。ルカの場合はその譬え話で語って聞かせた対象の中に弟子たちも含まれ、弟子たちは自分たちが良く分からないのでその意味を聞いてきた、と言う事になっています。この群衆の中にはイエス様の話を拒否しようとする人たちが多く含まれていたのかもしれません。いずれにしても、イエス様の話は受け入れようとしている人にはその意味が理解でき、受け入れまいとしている人には譬え話にしても受け入れられないのかもしれません。イエス様の「聞く耳のある者は聞きなさい」といった言葉はまさに、その受け入れる心があるかどうかによって、理解できるかどうかが変わってくると言う事だと思います。これは教会の説教の言葉を聞いていても、そのまま素直に神様の言葉として受け入れられるか、それとも批判的に聞いて神様の言葉ではなく人間の言葉として聞いてしまうかの違いとなってくることと同じかもしれません。

そしていよいよ、その譬えの意味を語り出しました。11節から15節です。

ルカ 8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。

ルカ 8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。

ルカ 8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。

ルカ 8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。

ルカ 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 実を結ばない種にはいろいろ事情があるようです。御言葉を聞いてもすぐその事を忘れてしまう者、御言葉を聞いて最初は信じるが、試練に会うと信じなくなるもの、御言葉を聞いて信じるが、いろいろな欲望に惑わされて実を結ばないもの、このように信じない者にはいろいろな状況や試練があるというのです。このイエス様の説明にさらに説明を加える必要はないかと思います。そのままの意味となります。ですが、イエス様はここで何を言おうとしているのでしょうか。道端のように固い心になってはいけない、石地のような根の張れない土地になってはいけない、茨の土地のように欲望で実が熟さないようになってはいけないと言う事を言っているのでしょうか。そうではなくて、御言葉を聞いて、受け入れ、忍耐して実を結ぶ人になりなさい、と言っているのでしょうか。あなたたちはどの畑なのかと尋ねているのでしょうか。その様に聞くことも出来ると思います。

ですが、多分この話は、自分は畑だと思って聞いている人と、自分は種を蒔く人だと思って聞いている人では受け止め方が違うかもしれません。自分を畑だと思っている人は、自分にまかれた種が、どのように成長し実を結ぶのだろうかということに関心が向くでしょう。そして、何十倍にも実らせる善い畑になりたいと思うでしょう。ですが、自分は種を蒔く人だと考えている人にと言っては、蒔いた種が、全部は実らないかもしれない、でも良い畑に落ちて、何十倍にも実る所もあるのだから、諦めることなく、希望をもって種を蒔き続けなさい、と聞くかもしれません。そして、これらの福音書の書かれた時代に、なかなか宣教がうまくいかない人々にとって、この喩えの話は、希望をもって種を蒔き続けなさいという励ましになったような気もするのです。私たちは御言葉の種を蒔いて、なかなかうまくいかないと世の中は堅い土地ばかり、石地ばかり、茨の土地ばかりと思うかもしれませんが知らずに良い土地に種がまかれていることもあるのです。それは神様のなさることです。そのことを信じて種を蒔き続けるようにと励ましているのかもしれません。

 今日の種蒔きの譬えでは、自分が種を蒔く人なのか、種を蒔かれる畑なのかと、受け取り方によって、その意味が変わってくることを学びました。イエス様の言った『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』といった人々は、その実らない土地の人々かもしれません。イエス様は、そのような土地であっても、どの土地にも同じように種を蒔き、どこかでよい土地に落ちて実りを豊かに結ぶことを期待して待っているのだと思います。私たちが畑ならば忍耐して実を結ぶ時を待つのです。私達が種まく人ならば、必要なのは、種を蒔き続けることです。その土地の事をうんぬんすることではないのです。育てて下さるのは神様であり、良い土地に落ちて多くの豊かな実を結ぶことを待ち続ければいいのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。今日も大切な教えを与えられ感謝です。あなたの種が、いまもいろいろなところにまき続けられています。私たちの心にも蒔かれています。私たちはその種を大切にし、忍耐をもって育て、実りの時を待ち続けます。またあなたが私たち一人一人に、種を蒔くようにも教えて下さっています。自分には宣教するような能力はないと言う事ではなく、ただあなたの御言葉を語っていけばいいのだと教えられました。種を蒔くように、あなたの御言葉を語るのです。その言葉は、場所によっては実らないかもしれませんが、それで気落ちすることはないと教えてくださいます。良い地に落ちた種が豊かに実を結ぶからです。その土地がどの土地なのかは私たちにはわかりません。ですから自分たちでえり好みして種を蒔くのではなく、どこにでも種を蒔き続けることが出来ますように。あなたの御心にかなって蒔き続けることが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆婦人たち、奉仕する

ルカ 8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

ルカ 8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、

ルカ 8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

◆「種を蒔く人」のたとえ

ルカ 8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

ルカ 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

ルカ 8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。

ルカ 8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。

ルカ 8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

◆たとえを用いて話す理由

ルカ 8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。

ルカ 8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」

◆「種を蒔く人」のたとえの説明

ルカ 8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。

ルカ 8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。

ルカ 8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。

ルカ 8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。

ルカ 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」