家庭礼拝 2017年2月22日ルカ6章37-49 人を裁くな

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 今日の聖書の箇所は、格言のように、いろいろな大切な言葉を寄せ集めたような感じのする箇所です。もしかすると、イエス様の語った大切な言葉を集めた、マタイ語録のようなものから、引用して、ここに集めて書いたのかもしれません。

 ですが、一見ばらばらのように書かれている言葉の中に、何か一貫しているのではないかと思わされる感じも与えるのです。ここの聖書の箇所は、先週の敵を愛しなさいと言う教えの後に書かれているものです。敵というのは、あなた方を憎むものであり、悪口を言うものであり、侮辱するものであり、頬を打つものであり、上着を奪うものなのです。ここの聖書の箇所は、そのような敵がいることを念頭に置きながら、それでも敵を愛しなさいと言い、その敵に対して、どのような態度を取ったらよいのか、その敵は結局どうなってしまうのかと言う事を語っているのではないのかと思うのです。

 今日の聖書の箇所は、三つの小見出しからなっています。一つは、人を裁くなであり、二つ目は実によって木を知るであり、三つめは家と土台の話です。それぞれ別の事を話しているようで、そこには、イエス様に敵対する者達に対してどうしたらよいのか、彼等はどうなっていくのかと言う事が書かれているのです。

 人を裁くなの小見出しの中でもいろいろな事が書かれてあって、これがバラバラなのか一つのまとまりなのか迷ってしまいそうな気もします。ここでは裁くなという話と、盲人の道案内の話と、弟子と師の話と、目のおがくずの話が次から次に出てきて、果たして一つのまとまりとして考えられるのだろうかという気さえします。

 ですが私はあえてここに一つの一貫した考えがあったのではないのかという視点で、ここの箇所を読んでいきたいと思うのです。その一貫したものとは何なのかを共に学んでいきたいと思います。

それでは最初の人を裁くなと言う小見出しの所です。37節と38節です。

ルカ 6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 これは、敵を愛しなさいの後に書かれた言葉です。そうするとこの人というのは、多分敵の事です。その敵がとてもひどい人であって、そんな人は地獄に落ちるだろうと言ってみたくなったり、罪人だと言ってみたくなったり、もう許せないと思ったりするのが、当然と思えるような状況での話なのです。その様な状況の中で、敵をも愛しなさいと言うイエス様は、人を裁くな、人を罪人だと決めつけるな、そしてその人をも許しなさいと教えているのです。すなわちこれらは皆敵を愛しなさいと言う事の別の表現なのです。この言葉の中で独特なのは、人を裁くな、といった後で、そうすれば、あなた方も裁かれることがない、という言葉が繰り返し出てくることです。これは、私たちの常識から考えると、因果応報の世界で、人に対して悪く接すれば、悪いものしか返ってこず、良くしてやればよいものが返ってくるという、人生訓として読んでしまいがちです。ですがそうなのでしょうか。ここで言っている、あなた方も裁かれることがない、とは誰に裁かれることがないのでしょうか。敵に裁かれることがないと言う事なのでしょうか。そうではないと思います。イエス様の教えはいつも、この世の世界と神の国の世界とを両方見据えて語っているのです。あなた方も裁かれることはないと言っているのは、神様に裁かれることはないと言う事だと思います。私たちが人を裁くとき、神様から私たち自身も裁かれ、人を罪人だと決めつける時、私たち自身が神様から罪人とされると言う事なのだと思うのです。ですから、神様に許してほしいのなら、あなたの敵をも許しなさい、愛しなさい、そうすれば神様に愛されるものになるからと言う事を教えているのだと思います。

これに続く、与えなさいそうすれば与えられるという言葉も同じ意味です。そしてイエス様はこれらの言葉をまとめるように、あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである、と結論付けました。これは敵を愛しなさいのところで言われた、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさいという言葉と通じる言葉なのです。すなわち同じことを別の角度から、違った表現をして語っているのです。

イエス様はここで、突然譬え話などを始めて、色々な別の話題を始めているように見えます。39節から42節です。

ルカ 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。

ルカ 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。

ルカ 6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

ルカ 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

イエス様は、盲人の道案内の譬え話をしたのです。そのほかに弟子と師の話、兄弟の目にあるおがくずの話などをしていて、脈絡がないような気がします。ですがここでは一貫して一つの事を教えているのです。それは知らないものは、教えることができないばかりか、自分の事さえ分かっていないと言う事を言っているのです。これはイエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちの事を言っているのです。実は先ほどの裁いてはいけないというのも、この人たちを意識した話だと思うのです。

ここでは盲人が盲人の道案内をすることが出来ないことを言っています。自分が知らないことを教えようとすると教える方も教えられる方も、とんでもない穴に落ちて這い上がることが出来なくなる危険性があるのですよと言っているのです。これはファリサイ人たちに当てつけているのです。

弟子が師にまさるものではない、という言葉も、師が盲人のような人で、良く分かっていなければ、その弟子も良く分かっていないのだと言う事なのです。頑張って努力してもその師の程度にしかならないと言う事です。ですから、どのような師に従うかが大切になります。

さらに兄弟の目にあるおがくずの話では、教えようとするものが、相手の欠点や弱点を指摘する事ばかりに捉われて、自分自身の大きな間違いに気が付かないものであると言う事を言っているのです。これも、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様の事を批判しようといろいろな事を言っているのに、自分自身の欠点や間違いには全く気が付かないで、相手を非難する事ばかりに気を取られていることを言っているのです。

この様にイエス様は、敵をも愛しなさい、人を裁いてはならないと言いつつも、ファリサイ派の人々や律法学者の人々がどのような人々であるのかを語っているのです。彼らは目の見えない盲人の手引きであって、努力しても彼等に従うならば、彼ら以上になる事は出来ず、自分の事を棚に上げて人の事ばかり非難するような人々であると言っているのです。

そして、結局人々の行動は、その心の中にあるものが現れているだけなのであるから、見かけではなく、心の中にあるものを大切にしなさいと教えます。それは、実によって木を知る話と、家と土台の話とをイエス様は語るのですが、それは同じことを言っているのです。何が同じなのでしょうか。まず最初の話を読んでみましょう。43節から45節です。

ルカ 6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

ルカ 6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

ルカ 6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

イエス様は、その木が良い木なのか悪い木なのかは実によってわかると言いました。まだ実を結ばない間は、同じようにしか見えない木なのですが、実を結ぶことによってよい木か悪い木かが分かると言っているのです。そして、良い木からは良いものだけが出てきて、悪い木からは悪いものしか出てこないと言っているのです。私たちがどの木の枝になって実を結ぶのかが問われているのです。イエス様の木の枝か、ファリサイ派の人々の教える木の枝なのかと言う事なのです。その人の心の中が良いものであるか悪いものであるかによって、その人の口は、心からあふれ出ることを語るのだと言っています。

次の家と土台の話は、この話とは全く違う話のように思えますが、教えようとしているのは同じことなのです。イスラエルの地方では、ヨルダン川にそそぐ川の支流がいくつもありましたが、そのほとんどは夏の間は枯れているのです。その時には、河原は平らで、人が住みやすそうに見えます。ですが、冬になり雨季になると、その河原は水で覆われ、大きな流れになってしまうのです。このような状況を聞いている人々も良く分かっていることとしてイエス様は語っています。46節から49節です。

ルカ 6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。

ルカ 6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。

ルカ 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。

ルカ 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。

ここには家を建てる人の話が書かれています。一人は、岩場の上に手間暇をかけて地面を深く掘り下げて、岩の上に土台をおいて家を建てた人でした。もう一人は、河原の平らな場所で、砂地なので、土台をおかないでも家を平らに立てることのできた人でした。見かけは同じように見えたのですが、川の水が増えて押し寄せてきたときには、岩の上に土台をおいた家はしっかり建ててあったのでびくともしなかったのです。ところが土台無しの砂地の上に建てた家は、たちまち倒れてしまって、その壊れ方がひどかったという譬え話です。ここではその家の土台がしっかりしていないと、困難が押し寄せた時にすぐに倒れてしまうと言う事を言っているのです。そして、その土台のしっかりした家を建てる人というのはイエス様に従い、イエス様の言葉を聞いて、それを行う人の事だというのです。すなわち、イエス様が岩のようにしっかりとした土台であると言う事です。もう一方の土台無しの家の人は、イエス様の話を聞いても行わない者だというのです。聞くだけで行わないものは、まだしっかりとイエス様に繋がってはいないと言う事なのです。

この譬え話が、先ほどの、実によって木を知る話と同じであることがお分かりになったでしょうか。木の話では、良い木という土台にしっかりつながっていないと、良い実を結ぶことができないし、その実が良い実を結ぶならばその木は良い木であることを現していると言う事です。そして家を作る話では、イエス様という土台にしっかりとつながっていれば、困難にあっても流されることはなく、土台の無いものは壊れてしまう、と言う事なのです。どちらもイエス様という土台が大切なのであると言う事を言っているのです。イエス様にしっかりとつながっているものが実をむずび、洪水にも耐える家となるのです。

 今日の聖書の箇所は、一見脈絡のない、多くの話を寄せ集めた格言集のように見えますが、そこには一貫した流れがあるように思われます。先週の貧しい人は幸いであるという話は、この世では貧しくても神の国では豊かな幸いなものになる、と言う事でした。だから、この世では敵に苦しめられても、それでも敵を愛し、神の国で、神様に祝福されるものとなりなさいと教えられました。そして、今週の箇所に入り、神の国で祝福されるものとなるために、この世では人を裁いてはならない、許しなさい、そして与えなさい、とイエス様は語ったのです。一方で、神の国での幸いを語らず、この世の幸いのことだけを語るファリサイ派の人々や律法学者の様になってはいけないと言っているのです。彼らは盲人の道案内をする盲人であり、自分の目にある丸太を見ないで、相手の目にあるおがくずを取ろうとするものであるのです。イエス様が教えることが正しい事なのか、ファリサイ派の人々が教えることが正しい事なのかは、その実によって知ることが出来ると言ったのです。イエス様に繋がっているならば、良い実を結ぶようになり、イエス様が良い木であることが分かると言っているのです。そして、イエス様は、岩の上に置いた土台だというのです。イエス様にしっかりとつながっていれば、困難にもしっかりとつながっていることが出来るが、土台の無いファリサイ派の人々の教えでは、すぐに流されその家は壊れてしまうだろうと言っているのです。

 このように、イエス様の教えは、皆つながっており、一貫した教えとなっているのです。

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様の大切な教えを与えられ感謝いたします。イエス様の教えには、神の国で報われると言う事が前提となって、この世での苦難や困難を受け入れるようにと教えています。そして、その教えが正しいことはその実によって知ることが出来ると教えています。イエス様を土台にして生きるならば、必ずその結果が出るのだと言う事をイエス様は教えてくださいました。神様どうか私たちもイエス様の教えを信じ行い、イエス様の木にしっかりとつながり、イエス様の土台の上にしっかりと立つことが出来ますように導いてください。そして、あなたの良い実を結ぶことが出来ますようにお守りください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆人を裁くな

ルカ 6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

ルカ 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。

ルカ 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。

ルカ 6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

ルカ 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

◆実によって木を知る

ルカ 6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

ルカ 6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

ルカ 6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

◆家と土台

ルカ 6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。

ルカ 6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。

ルカ 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。

ルカ 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」