家庭礼拝 2017年2月8日ルカ6章1-19 安息日に麦の穂を摘む

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起 

 今日の聖書の箇所には、4つの小見出しがあります。最初の二つの小見出しは安息日に関する話で、安息日に麦の穂を摘んだ話と、安息日に手の萎えた人をいやす話です。この時代は律法によって、安息日には仕事をしてはいけないと言う事になっていました。もともとは、七日の中の一日は仕事を休んで、神様を礼拝し賛美しましょう、という話で、仕事をしてはいけないと言う事ではなかったのです。ところが安息日には、神様が仕事をしてはいけないと言ったと言う事になってしまい、では仕事とはどこまでを仕事というのだと言う事がやかましく言われました。ここで、弟子たちが麦の穂を摘むことも、イエス様が手の萎えた人を癒すことも、律法で禁じられている仕事をすることだと、律法学者やファリサイ人たちに決めつけられ、イエス様たちは律法を守らない罪人だと言う事になったのです。それで、このころからイエス様に対する風当たりはどんどん強くなっていくのです。

 残りの二つの小見出しは、12人の弟子を選ぶ話と、おびただしい病人を癒す話です。イエス様にはこのころ大勢の人が従って来たのです。その中から、特に12人を選んで使徒としたのです。なぜイエス様は12人を特別に選んだのでしょうか。これは多分イスラエルの12部族にちなんで12人を選び、イエス様のそば近くで特別の教育をし、イエス様がいなくなっても世界中で宣教が行われるようにするためだったのです。この弟子選びは、イエス様が山に登って、祈り、そして12人を選びました。山の上ではその様に、神様との深い関係の中での働きがあり、そして、山を下ってからは人々の病人を癒すという、この世の人々に対する奉仕が行われたのです。このようにイエス様の働きは山の上の働き、山を下っての働きとメリハリのついた働きがあったのです。

では、初めの安息日に麦の穂を摘む話から見てみましょう。1節と2節です。

ルカ 6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。

ルカ 6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。

イエス様は安息日に、麦畑の中を通って移動していたのです。すると弟子たちは、おなかが空いていたので、麦の穂を摘んで、手でもんで食べたのです。人の畑のものを勝手にとって食べてはいけないというのが私たちの常識ですが、実はこれは許されていたのです。鎌のような道具を使って刈り取るのでなければ、手で摘んで食べることは許されていたのです。ですが問題なのはそれを安息日にしたと言う事なのです。なぜならば、安息日には仕事をしてはならないからです。ですから、イエス様の行動を監視して、ついてきたファリサイ派の人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったのです。してはならないことというのは仕事なのですが、麦の穂を摘んで、手でもんで食べることがなぜ仕事をしたことになるのでしょうか。それは、麦の穂を摘むことは、収獲の作業であり、手でもむことは脱穀の作業であり、食べることは食事の支度をする作業であると、ファリサイ派の人々は言うのです。そんなことは神様が言った事ではなくて、律法学者たちが勝手にこれは仕事をしたことになると決めたことなのです。律法学者はこのような細かい規則を沢山決めており、ファリサイ派の人々は自分たちはこれを全部守っていると自慢するような人々ですから、同じように守らないイエス様たちを非難したのです。

 実はこの非難は、先週学んだ断食についての問答の続きなのです。前回の問答では、「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子達も同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と言って、弟子たちが断食をしないことを非難しました。その弟子たちが今度は安息日に、麦の穂を摘んで食べていたのでさらに腹が立ったのかもしれません。断食もしない、それどころか安息日に仕事をして穂を摘んで食べている、とんでもないやつらだと怒っているのです。イエス様たちは律法を守らない悪い人たちだと思い込み、非難するようになってきたのです。

するとイエス様はこう答えました。3節から5節です。

ルカ 6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。

ルカ 6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

ルカ 6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

イエス様はファリサイ派の人々にダビデの話をしました。ダビデたちが逃げ回っていて、自分も共の者たちも空腹で苦しんでいた時、神の家に入り、祭司の他には誰も食べてはならない備えのパンをとって食べ、共の者達にも与えたではないかといったのです。イエス様の答えを見ると、空腹になって困っているものが律法に捉われずに食べることは悪い事ではない、と言っているようです。ダビデが律法によれば祭司の他には誰も食べてはならない備えのパンを食べたように、イエス様の弟子たちが、律法によれば、安息日に穂を摘んで食べてはならない麦の穂を食べたのだが、人が困っている時は安息日であってもその律法は守らなくてもいいと言っているのです。そしてイエス様は言いました。「人の子は安息日の主である。」すなわち、安息日は人のためにあるのだと言う事です。ファリサイ派の人々は、安息日が何のためにあるのかわからなくなっていたのです。安息日は人が幸せに生きることが出来るようにと供えられたものであって、人が安息日のルールすなわち律法に縛られ苦しめられるものではないと言う事を言ったのです。ファリサイ派の人々は、目的と手段とを取り違えてしまったのです。律法を守りさえすれば救われると思ったのです。

それでもファリサイ派の人々はまだその事に気が付いていませんでした。そして、安息日の律法を守ることに全力を尽くしていたのです。それが次の会堂での事件となります。6節と7節です。

ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。

ルカ 6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

 先ほどとは、別の日の事です。イエス様がいつものように安息日には、会堂に入って教えておられました。するとそこに右手の萎えていた人がいました。この話はマタイやマルコにも書かれていますが、この人が右手が萎えていたと書いてあるのはルカだけです。ルカは医者なので、どこが悪いのかを具体的に書いてあるのです。そして、イエス様が会堂に入って来られると、律法学者達やファリサイ派の人々はイエス様が安息日に病気を癒されるかどうかに注目していました。もしその人を癒したら、安息日に、命にかかわりのない病気を癒したという律法違反で訴えようとしていたのです。すなわちこれは罠なのです。多分この手の萎えた人もファリサイ派の人々が連れてきて、イエス様を試そうとしているのです。この様な障害者をも、イエス様を陥れる手段としたのです。

イエス様はそこで、どうしたでしょうか。8節と9節です。

ルカ 6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。

ルカ 6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

イエス様は律法学者達やファリサイ派の人たちが何を考えているかを見抜いていました。それにもかかわらず、手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」と言いました。イエス様は、それが罠であることを知りつつも、逃げも隠れもしないで、正々堂々と正しいことを為そうとしていたのです。そして安息日の意味をその人たちに問い返しました。それは、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」イエス様は、たとえ安息日であってもそれが善を行うことであるならば、何をやってもいいのだ。律法に縛られることはないのだ、と言う事を言おうとしたのです。そして、その事を実行したのです。10節と11節です。

ルカ 6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

ルカ 6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

イエス様は手の萎えた人に、手をのばしなさいと言われました。この人は、自分は手がのばせないのです、とは言いませんでした。イエス様が言われるとおりにしてみたのです。すると手が動いて元通りになったのです。私たちはそれが自分の考えと違っていても、イエス様がそうしなさいと言われたらそれに従うと、自分の考えを超えた奇跡が起こるのです。イエス様が弟子になる漁師たちに、網を投げて魚を取って御覧なさいと言われた時もそうでした。その言葉に素直に従うとき、網が破れるほどの魚が取れるのです。

ですがファリサイ派の人々と律法学者たちは怒り狂いました。イエス様が善いことをしたのにその事は無視して、安息日の律法だけにこだわったのです。この人たちにとっては、安息日が本来どのようなものであるのかと言う事よりも、安息日の律法を守る事の方がずっと大切だったのです。ですから、イエス様が何度も繰り返して語っていることが、全く理解できなくなっているのです。むしろ憎しみをもって、なんとか殺してしまおうとさえ思っていたのです。

さてイエス様は、そのようなファリサイ派の人達との対立をよそに、静かなところに引きこもりました。それは12人の弟子を選ぶためでした。12節と13節です。

ルカ 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。

ルカ 6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

イエス様は大事なことを決めるときには、山に入り、そして祈りました。神様の御言葉によってなすべきことを為すためでした。イエス様は神様に祈って夜を明かされたのです。一晩中祈り続けたのです。それは、自分が死んでからの後の宣教を託せる弟子たちを選ぶためでした。イエス様に従ってきた人々はたくさんいましたが、その中から、12人を選んで使徒としたのです。使徒とは派遣されて、宣教する人々です。イスラエルの12部族が、イスラエルを建てていったように、イエス様の福音の世界は、この12弟子によって宣教され建てられていくのです。その12人を選ぶために、イエス様は夜を徹して祈ったのです。イエス様にとって、12弟子を選ぶというのはそれほど重要な事だったのです。このようにして、12弟子は山の中のイエス様の祈りから選ばれてきたのです。このようにして選ばれた弟子の中には、後に裏切ってしまうイスカリオテのユダもいました。ですから、ユダが選ばれたことにも、神様の御心が働いているのです。

その12弟子選びが終わると、またイエス様は山を下りて、下界での活動を始めました。多くの人々を癒し教え始めたのです。17節から19節です。

ルカ 6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、

ルカ 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。

ルカ 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 イエス様の評判を聞いて、遠くのティルスやシドン地方からも人々がやってきました。エルサレムのような国の中心都市からもやってきました。何のためにやって来たかというと、病気を治してもらうために来ただけではなく、イエス様の教えを聞くためにもやってきたのです。イエス様の宣教は、病気を癒すことと並行して行われました。人々はイエス様に触れさえすれば癒されると信じていました。そして、イエス様に触れたすべての人の病気がいやされたのです。その病は、汚れた霊に悩まされていた人々をもいやしたのです。イエス様の名声は、国中にとどろき渡ったのです。人々はみな信じて従ったのです。従えなかったのはパリサイ派の人々や律法学者のような人々でした。

 パリサイ人や律法学者たちは安息日を守る事と、断食をすることをとても大切な事として守っていました。そのために事細かに細則をもうけて、それらを皆守らなければならないと決めていました。ですから、安息日に病気の人を癒すことも、麦を摘むことも禁じていました。ですがイエス様はそれに従いませんでした。イエス様は安息日は人のためにあるのだと言い、人が困っている時には、そのような律法に従わなくても、人間の幸せを優先していいのだと言ったのです。そして、安息日に、皆が見ている前で、手の萎えた人の手を癒しました。イエス様は、「人の子は安息日の主である。」といったのです。ですがパリサイ派の人々と律法学者たちは怒り狂いました。自分たちが大切にしていることを踏みにじられたと思ったのです。それで、イエス様をどのようにして殺そうかと狙い始めたのです。

 イエス様はそのような状況の中で、弟子たちを選んで、自分がいなくても弟子達で宣教できるようにすることを進めました。その選びはイエス様が山に登り、一晩中神様に祈りつつ、その答えを与えられました。その弟子たちは使徒と呼ばれて、イエス様の特別の教育を受けることになるのです。

 そのあとイエス様は山を下りられましたが、イエス様の評判は今や国中のものとなり、国の外からも、その教えを聞き病気を癒してもらう人々がイエス様のもとに集まってきたのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様は安息日に善いことをするのは神様の御心であるとして、ファリサイ派の人々や律法学者達と対立しました。彼らは安息日の律法を守ることが第一だとして、人々が困ったり苦しんだりしていることに目を向けようとはしませんでした。イエス様はそのような人々を安息日の呪縛から解放しようとしたのです。ですが、ますます彼らはかたくなになっていき、イエス様の教えを聞こうとはしなかったのです。

 神様、私たちは、自分たちが正しいと思うことをしようとするとき、神様のみ心を忘れてしまうことがあります。自分たちの考えこそ神様の御心であると取り違えてしまうことがあります。どうか神様、私たちもそのような罠から解き放ってくださいますように。何よりもまず、神の国と神の義を求め、神様の御声に聞くことが出来ますように。そして愛と慈しみの神様がなさることを私たちもそれに倣い従って行くものでありますように導いてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆安息日に麦の穂を摘む

ルカ 6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。

ルカ 6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。

ルカ 6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。

ルカ 6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

ルカ 6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

◆手の萎えた人をいやす

ルカ 6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。

ルカ 6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

ルカ 6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。

ルカ 6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

ルカ 6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。

ルカ 6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

◆十二人を選ぶ

ルカ 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。

ルカ 6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

ルカ 6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、

ルカ 6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、

ルカ 6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

◆おびただしい病人をいやす

ルカ 6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、

ルカ 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。

ルカ 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。