家庭礼拝 2017年1月25日ルカ5章1-26 漁師を弟子にする

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起 

 今日の聖書の箇所には、三つの奇跡物語が書かれています。一つは弟子を招くときの奇跡、二つは病気を癒す奇跡です。イエス様の評判は遠くエルサレムにまで聞こえるようになりました。そして、その不思議な業をするものが何者であるか確かめるために、律法学者やパリサイ人たちがイエス様のしていることを監視し始めるのもこの時からです。

 イエス様が弟子を招く様子は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれていますが、いずれもガリラヤ湖畔で弟子の召命を受けています。その中で、ルカだけがちょっと違った順番で書かれています。またヨハネにも書かれていますが、こちらはガリラヤ湖畔ではなく、バプテスマのヨハネの近くで弟子の召命が行われています。前にも言いましたが、マタイとマルコでは、まず弟子を招いてからガリラヤ伝道をはじめ多くの奇跡を始めるのです。ですがルカではナザレでの宣教やカファルナウムでの癒しの奇跡の後、弟子を招き始めます。しかもこの時の、漁をしていて魚が取れなかったのに、イエス様の言葉にしたがったら大漁になったという話は、ヨハネにも書かれており、実はその時は弟子を招くときではなく、イエス様が復活されて、落胆して漁をしている弟子たちの前に現れた時の話になっています。

 このように、ルカでは弟子たちの召命に対して、魚の大漁と言う奇跡を用いており、それに驚いた漁師たちが恐れを懐いてイエス様に従って行くという、構図をとっています。一方マルコとマタイでは、イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いていた時に声をかけて、最初にペトロとアンデレの兄弟を弟子にし、次にヤコブとヨハネの兄弟を弟子にしています。そして穏やかに私についてきなさい、と言って弟子にしているのです。それではヨハネはどのように書いているでしょうか。ヨハネこそは、その生き証人なので、その最も信頼できる証言といえると思います。

 ヨハネ福音書では1章35節からの話の中で、洗礼者ヨハネが、その時洗礼者ヨハネの弟子となっていたヨハネとアンデレと一緒に歩いているときに、イエス様に出会ったのです。そして、洗礼者ヨハネがイエス様を見つめて、「見よ、神の子羊だ。」といったのです。すると二人はそれを聞いてイエス様に従って行ったのです。そしてアンデレは自分の兄弟のシモン・ペトロに「メシアに出会った」と伝えて、イエス様のところに連れていきペトロも弟子になるのです。

 このように、四つの福音書はそれぞれ、どのようにして弟子たちが招かれたのかと言う事が違った風に書かれています。それぞれに、矛盾せずに解釈できる方法があるのかもしれませんが、まずはそれぞれの話をそのまま、受け止めていきたいと思います。

さて、聖書に戻って、その話を聞いてみたいと思います。1節から3節です。

ルカ 5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

ルカ 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

ルカ 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

ここでゲネサレト湖畔と言っているのは、ガリラヤ湖の事で、三つの違った名前があるので、注意が必要です。イエス様はここでは会堂で教えるのではなく、湖畔で教えようとしています。群衆はその周りに押し寄せてきました。もちろんイエス様の話を聞くために集まってきたのです。ですがそこにイエス様に無関心な人たちがいました。漁師たちです。漁師たちはイエス様に関係なく、舟から上がって網を洗っていたのです。ところがイエス様はその漁師の一人のシモンの船に乗り込んで、岸から少し漕ぎ出すようにお願いしたのです。どうしてかというと、群衆が押し寄せて、適当な距離を保つことが難しかったからです。そして少し群衆から離れて、船に腰を下ろして群衆に教え始めたのです。ここでは何が話されたのかは何も書かれていません。むしろ重要なのはその話が終わった後の出来事でした。4節から7節です。

ルカ 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

ルカ 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

ルカ 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

ルカ 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

イエス様は集まった群衆に、神の国の話をし、それが終わると、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。その時はもう日が上がっている時間で魚の漁をする時間ではなかったのです。漁は夜の暗いうちにするもので、明るくなったらもう、漁はやめる時間だったのです。ですから、シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのです。ペトロ達は、イエス様の言ったことに対し、素人が何を言っているのだろうと思ったのですが、先生と言われる人が言うのだから、断ることも出来ないで、お言葉ですから網を下ろしてみましょう、と言ってイエス様の言うとおりにしてみたのです。ペトロはイエス様の言う事を信じたのではないのですが、信じていなくてもその通りにしてみましょうとしたのです。すると何が起こったでしょうか。漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。これには漁師たちは驚きました。信じられないことが起こったのです。

それで、漁師たちはどうしたでしょうか。7節から9節です。

ルカ 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

ルカ 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

ルカ 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

 取れないはずの魚が、網が破れそうになるほどかかったので、もう一そうの船にいる仲間に合図して、手を貸してくれるように頼みました。魚を船に引き上げると、2艘の船が魚でいっぱいになり、船が沈みそうになりました。これにはみんなが驚きました。特に、イエス様のすることには関心もなく、イエス様の言葉をも信じていなかったペトロには、大きな驚きであり、信じなかったことに対する罪悪感さえ覚えたのです。それで、それまで先生と呼びかけていた言葉を、主よ、と畏敬の念を持って語りかけ、イエス様の足元にひれ伏して、私から離れてください。私は罪深いものなのです、といったのです。ペトロは、イエス様がただものではなく、神様の使いではないかと信じたのです。それで、信じなかったことを悔いて、私は罪深いものですと言ったのです。ペトロが、主よ、私から離れてください、といったことに対して、ある牧師が、イエス様に離れてくださいというのではなく自分が離れればいいのじゃないか、といった言葉を印象深く覚えていますが、舟は小さかったのと、魚がたくさん入っていたので、ペトロもイエス様も身を置く場所がほとんどなくなっていたのだと思います。それでくっつくようにして船に乗っていたのでそのような、私から離れてくださいという言葉になったのだと思います。

ペトロは最初イエス様には関心がなかったのです。群衆がイエス様の話を聞こうと集まってきているのに網を洗っていたのです。ですがイエス様の方からペトロに近づいてきたのです。イエス様がペトロに網を下ろし漁をしなさいと言っても、そんなことをしても無駄だと思っていました。ですが奇跡が起こったのです。奇跡は、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、とその言葉を実行してみたことによって起こりました。イエス様を信じる信仰によって奇跡が起こったのではないのです。たとえ信じていなくても、イエス様がそういうのだから、聖書にそう書いてあるのだから、とにかく一度やってみようとするところに奇跡が起こるのです。これは大切な教えです。私たちの信仰が未熟なものであっても、お言葉ですから、と言って実行してみると奇跡が起こることもあるのです。御言葉に従うことの大切さを思わされます。そして、この大漁の話は教会では、宣教の働きの話として理解されています。宣教の働きが、イエス様の御言葉を聞いて、行うとき、大漁となって、多くの信仰者を得ることが出来るという、理解に進んでいったようです。

次は、重い皮膚病を患っている人をいやす話です。重い皮膚病とは、以前の聖書ではらい病と書かれていた病気です。今でいうハンセン氏病です。この病気の恐ろしい所は長い年月を経て、体がどんどん変形し、機能しなくなり、崩れて行ってしまって、最後は死んでしまうという恐ろしさの他に、社会的に抹殺され、忌み嫌われるという精神的な苦痛もあるのです。その様な病気の人に触ることなど、このユダヤ教の人々には考えられませんでした。汚れてしまうと思って徹底的に避けていたのです。ですがイエス様は違いました。12節と13節です。

ルカ 5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。

ルカ 5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

 この重い皮膚病にかかった人々は普通、隔離されており、公衆の中に入る事は出来ませんでした。ですが、この人はイエス様を探していました。そして陰からそっと見ていて、人のいなくなった時に、イエス様のみ前にひれ伏したのです。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」といったのです。この人は自分がこのような忌まわしい病気になったのは罪の汚れによるものだと信じていたのです。ですからその罪を清めて癒してくださるのは、このイエス様しかいないと信じていたのです。なぜならば来るべきメシアはこの重い皮膚病を癒してくださるとの予言があったからなのです。この人はそれを信じてイエス様にひれ伏したのです。イエス様は、他の祭司達では絶対にしないことをしました。それはその人に触れたと言う事です。この様な忌まわしい病気の人に触れることは自分も汚れると信じた人たちは絶対に触れなかったのですが、イエス様はこの人に触れて、「よろしい。清くなれ」と言われるとたちまち重い皮膚病が治ったのです。この事によってもイエス様はメシアだとの証明になるのです。ですから、この人もその事を語ろうとしたのではないかと思います。ですが、イエス様はこう言いました。14節から16節です。

ルカ 5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

ルカ 5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。

ルカ 5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 イエス様は、その人に、イエス様が重い皮膚病を直したと言う事を言ってはいけないと言いました。ただ病気が治ったことを証明するために、祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの捧げものをしなさいと言ったのです。そうすれば、もう重い皮膚病ではないと言う事が証明され、差別されることがなくなるからです。ですが、イエス様のうわさはどんどん広がっていきました。そして大勢の群集がイエス様のもとに集まってきたのです。ですがイエス様は人里離れたところに退いて、祈っていたのです。自分のしていることが神様の御心にかなっているのか、これから神様がどのような事を命じているかを聞くためなのです。イエス様はただその御心のままに働いているのです。

二つ目の癒しの奇跡は、中風の人を癒す奇跡です。先ほどの重い皮膚病を癒す奇跡は、本人のイエス様を信じる信仰によって救われました。今度の話は、本人にはその信仰が無くても、周りの人々のイエス様の癒しの力を信じる信仰によって救われる話です。私たちの執り成しの祈りの大切さを思わされる話なのです。17節から19節です。

ルカ 5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

ルカ 5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。

ルカ 5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

 この日、イエス様はある家の中で、神の国の事を教え、多くの人々の病気を癒していました。そこには、ファリサイ派の人々と律法の教師たちも座っていました。この人たちはガリラヤとユダヤのすべての村からか来た人たちだけでなく、エルサレムから遣わされてきた人たちもいたのです。なぜこのような人々が来ていたかというと、イエス様のすることが、メシアの業だと言ううわさが広まってきたので、それが本当なのか嘘なのか調べるために、そのような律法学者やファリサイ派の人々が集まってきたのです。エルサレムのサンヒドリンもその調査に乗り出したのです。後にこの人々はイエス様のすることを批判するようになり、最後にはイエス様を十字架につけるところまで行ってしまいます。今日の話の中でも、そのきっかけとなる出来事が起こります。

この家でイエス様が病気の人々を癒しておられると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエス様の前に置こうとしたのです。ところが群衆がたくさんいたので、イエス様に近づくことが出来ませんでした。当時の家は片側が崖のようになっているところを壁にして、屋根を作り、その上に板をはって泥の漆喰を塗っていたので、屋根の上に上がるのは簡単でした。屋根と崖の上が陸続きのようになっていたからです。この男たちは、中に入れないので、その屋根の上に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエス様の前に、病人を床に載せたまま釣り下したのです。普通ならばそんなことをしたならば、とんでもないことだと叱られるのですが、イエス様はそうではなかったのです。20節から26節です。

ルカ 5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

ルカ 5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

ルカ 5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。

ルカ 5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

ルカ 5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

ルカ 5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。

ルカ 5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

 イエス様は、この病人をつりさげた人々の行動を見て驚きました。それは突拍子もない行動に出た人々に驚いたのではなく、それほどまでにして、その病人の人を癒したいという気持ちと、イエス様なら癒してくださるというその信仰を見て驚いたのです。そして、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。当時は病気と罪は一つのもののようでした。罪があるから病気になるのであって、罪が許されなければ病気は癒されないと考えていたのです。そうでなくてもイエス様は、この病人の病気はその罪の意識によって起こされているのを洞察したのかもしれません。それで、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのではないでしょうか。それにしても、この病人の信仰がその病人を救ったのではないのです。この病人を何とか直してあげたいという、その家族なのか知り合いなのかの人々の信仰を見て、救いを与えたのです。人々の熱心な信仰は自分だけでなく、その家族をも、その知り合いの人をも救うものであることを覚えておきたいものです。私たちの執り成しの祈りは聞かれるのです。

ところがそこにいた律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めたのです。そして、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と心の中につぶやき始めました。この人々はイエス様が本当にメシアなのか、律法に反するようなことはしていないか監視するために来ていたからです。本当にメシアならば、「人よ、あなたの罪は赦された」と言っても何の不思議もないのですが、この人たちはそんなことはあり得ないという先入観で見ているので、人がそのような事を言うのは、神を冒涜することだと思ったのです。イエス様を、神様の使いと受け容れることが出来なかったのです。

 イエス様は、その人たちが何を考えているかを洞察しました。そしてこう言ったのです。

「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われたのです。イエス様はパリサイ人たちの心のつぶやきを、「あなたの罪は赦されたというようなことは誰でも言えるではないか、そんなことで罪が赦されるものではない、本当に病気が治らなければ信じない」と思っていることに気が付いていたのです。そして、そのような疑いを持つ人々に、イエス様が罪を許す権威を持つ方であることを知らせよう、と言ったのです。そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行ったのです。それを見ていた人々は皆大変驚きました。そして神を賛美し始めたのです。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言ってそのことを多くの人々に言い広めたのです。

 今日は、この聖書の箇所で、イエス様の三つの奇跡を見ました。その三つの中の二つは本人の信仰があったから起こったわけではありませんでした。ペトロの場合は、無関心だったペトロの船に、イエス様が乗り込んでくださり、奇跡を起こしました。二つ目の重い皮膚病を患った人の場合は、この人の信仰が、イエス様のところまで行かせ、そして奇跡の癒しによって救われたのです。そして三つめの奇跡は、本人の信仰ではなく、その人を救いたいと思っていた家族や知人の信仰によって、イエス様の癒しの奇跡はもたらされたのです。私たちは、イエス様の奇跡は私たちの信仰がなければ起こらないと思っていますが、そうではないのです。奇跡が起こるかどうかは、イエス様がそこにいて下さるかどうかの恵みによって起こっているのです。信仰があってもなくても、そこにイエス様の御心があれば、そしてその御心にしたがおうとする思いがあるならば、そこに奇跡は起こるのです。お言葉ですからと言って、とにかく従ってみようと行動を起こすところに、奇跡は起こるのかもしれません。多くの事を教えられた聖書の箇所でした。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、今日は聖書の御言葉から、イエス様のいろいろな奇跡について、教えられました。これらはみな神様の恵みの業です。私たちが、その事を謙遜に感謝して受け取るならば与えられるかもしれない恵みです。どうか神様、私達にもあなたの恵みが与えられ、あなたによって生かされ救われるものでありますように。そしてあなたを信じる信仰によって、私たちの家族をも、兄弟をも、知人たちをもあなたのみ前に連れていくことができ、あなたによって恵みを与えられるものとなることが出来ますように導いてください。あなたの御業を賛美して、心からあなたを崇めます。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆漁師を弟子にする

ルカ 5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

ルカ 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

ルカ 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

ルカ 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

ルカ 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

ルカ 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

ルカ 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

ルカ 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

ルカ 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

ルカ 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

ルカ 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

◆重い皮膚病を患っている人をいやす

ルカ 5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。

ルカ 5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

ルカ 5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

ルカ 5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。

ルカ 5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

◆中風の人をいやす

ルカ 5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

ルカ 5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。

ルカ 5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

ルカ 5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

ルカ 5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

ルカ 5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。

ルカ 5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

ルカ 5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

ルカ 5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。

ルカ 5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。