家庭礼拝 2017年1月11日ルカ4章14-30 ナザレで受け入れられない

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起 

 荒野での悪魔の誘惑を受けて、それを乗り越えた時、イエス様はイエス様の活動すべき時が満ちたことを知りました。それで、まずご自分の故郷であるナザレに近いガリラヤ地方から宣教を開始されたのです。

 この時代ユダヤの国は変わった形をしていました。エルサレムのあるユダヤ地方とナザレなどあるガリラヤ地方の間に、ユダヤ人からは汚れた民とされたサマリア地方があったのです。ガリラヤ地方の人がエルサレムに行くときはサマリア地方を横切っていったほうが近いのですが、汚れることを嫌って、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川沿いにエルサレムに行っていたのです。すなわち、ガリラヤ地方は飛び地のようになっていたのです。ですがこの地方はとても土地が豊かだったのです。葡萄やオリーブ、イチジクやいろいろな植物や果物、木などがたくさんあって、豊かな土地だったのです。そしてガリラヤ湖では魚がいっぱい取れたので漁師も沢山いました。イエス様の弟子となった人たちはそのガリラヤ湖の漁師たちがほとんどなのです。

 また、この地方にはエジプトからダマスコに通じる海の道と呼ばれた大街道があり、多くの旅人や商人の隊列が行き来していました。またローマ兵たちも良くこの道を通りました。ですからこの地方はとても外国の文化に近くあったのです。このガリラヤ地方にはいつも新しいものが流れ込んできていたのです。私たちが、ナザレと聞くと、山奥のとても辺鄙な田舎のような気がしますが、なだらかな丘陵地帯にある、外国の文化にも触発されたような当時としては開けた感じの地域だったのです。イエス様はそのようなところで育ち、そして、そのようなガリラヤ地方でその宣教の開始を行ったのです。

 今日の聖書の箇所は、そのイエス様の出身地のナザレでイエス様が宣教されたところから始まります。ところがこのような宣教の書き出しをしているのはルカだけなのです。ガリラヤ宣教の話はマタイにもマルコにも書かれていますが、ナザレに来て宣教をするのはガリラヤ地方のカファルナウムやいろいろな場所で宣教や奇跡の業を行った後なのです。そしてその途中でイエス様は既に多くの弟子を従えて、その宣教を行っていたのです。

 例えば、一番最初に書かれたマルコによる福音書では、このナザレでの宣教が行われる前には次のようなことが既に行われていたのです。まず最初に、4人の漁師を弟子にしました。そして次には、カファルナウムで、汚れた霊につかれた男を癒しました。そのほか多くの病人を癒しました。イエス様はガリラヤ中の会堂に行って宣教したのです。そしてその間に、重い皮膚病を患っている人を癒す奇跡や、中風の人を癒す奇跡などをしました。取税人だったレビも弟子にしました。会堂で手の萎えた人を癒す奇跡をしました。そしてイエス様の使途となる12人の弟子たちをも選ばれました。ガリラヤ湖を渡るときに起こった突風をしずめる奇跡を行いました。向こう岸に渡ってから悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒しました。ヤイロの娘の復活の奇跡とイエスの服に触れた長血を患っている女の癒しをもしました。これほど多くの出来事を語った後で、やっと、イエス様はナザレに入って、受け入れられなかった話を書いているのです。これはガリラヤ伝道のほとんどが行われた後で、最後にナザレに行ったという感じなのです。

 ところがルカは、今日の聖書にあるように、この宣教の一番最初が、まるでナザレから開始されたかのような書き方をしているのです。なぜでしょうか。それはきっとイエス様がこのナザレの会堂で語った言葉に関係しているのだと思います。その言葉の中にイエス様の福音宣教の意味が示されているからだと思うのです。ルカは異邦人にもわかるように。そこに分かりやすく、イエス様がなぜこの救いの宣教を開始したのかを語っているのです。

では今日の聖書の箇所を読んでみます。14節と15節です。

ルカ 4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

ルカ 4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

イエス様が洗礼者ヨハネの洗礼を受けたのはヨルダン川が死海にそそぎこむ河口から遠くないところでした。そしてその死海の周辺は荒れ野となっており、イエス様はそこで悪魔の誘惑を受けられたのです。この死海のほとりからその坂を上って上に上にと行くともうエルサレムなのです。悪魔の誘惑を受けたイエス様はそのあと近くのエルサレムに行って宣教したのではなく、遠くのガリラヤ地方に戻られたのです。そこはいろいろな文化が入り混じっていて、新しい教えでも比較的なじみ安い土地柄だったのです。そのガリラヤでイエス様は霊の力に満ちて宣教活動を始めると、その評判が周りの地方一帯に広まったと書かれています。その時のイエス様の活動の中心はどの町にもあった会堂です。その会堂で、イエス様は神様の御言葉を取り次ぎ、皆から尊敬を受けられたのです。この辺の事情は、マルコやマタイ福音書に詳しく書かれています。イエス様がナザレに来た時にはすでに伝道者としての評判が確立していたのです。しかも弟子たちも沢山従えていたのです。ですが、ルカによる福音書では、まるでイエス様が一人でナザレに帰って来て、そこから宣教を開始したような印象を与えます。

イエス様はナザレに来た時、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。イエス様が主に活動していたのは安息日の会堂だったのです。そこでは主だった人々が選ばれて、聖書を読み、そしてその解説をしたのです。この選ばれた人になるためにはある程度先生と呼ばれる人や評判の良い人と決まっていたので、イエス様もその評判の高さから選ばれて、会堂で話をし始めたのです。

イエス様が会堂に入られるとイザヤ書の巻物を渡されました。17節から19節です。

ルカ 4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

ルカ 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

ルカ 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

 ルカが、なぜイエス様の宣教の最初をこのナザレでの会堂の話から始めようとしたのかは、ここのイザヤ書の言葉にあります。すなわち、イエス様はまさにこのイザヤ書に予言された方であり、イエス様の使命はここに語られた、メシアの使命であると言う事を、まず最初に伝えたかったからです。イエス様がどういう方であるかを表すのに、このイザヤの言葉こそ一番適切でわかりやすいと思ったからです。

このイザヤの言葉ではまず、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。」と言っています。これはまさに今のイエス様の姿そのものなのです。神様の霊が注がれ、貧しい人々に福音を告げ知らせるために遣わされた方であると言う事を、ここではっきり伝えたかったのです。そしてイエス様の使命がこのように語られたのです。「主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカはイエス様が、この世に遣わされたのは、人々に開放を与え、病からの癒しを与え、圧迫からの自由を与え、主の恵みの年が来たことを告げ知らせるためである、という福音を伝えるために来られたのだと言う事を、旧約聖書をよく知らない異邦人のためにも、分かりやすく説明しようとしたのです。この箇所はイザヤ書61章1節のヨベルの年の恵みについて語られているのですが、イエス様がこの世に遣わされた意味が、この言葉を通して、実によく理解できるからルカは最初にこの話を持ってきたのではないかと思います。主の恵みの年というのは、イザヤ書ではヨベルの年ですが、新約聖書では、イエス様の福音の年となるのです。

 イエス様はその個所を読んで、巻物を係りの人に返されました。20節と21節です。

ルカ 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

ルカ 4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

イエス様が座られたというのは、これから話をしますよと言う事です。この時代はラビと言われる教師たちは座ってその教えを語ったのです。人々がどんなことを語り出すのだろうかと期待して見ていると、イエス様は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り始めたのです。この当時のラビの話の仕方は、ここにはこう書いてある、これはこういう意味だと思う、といったような解説だけだったのですが、イエス様の語り口調は、まるで予言者のような権威をもって、この言葉は実現した、と断言されたのです。それは人々にとても新鮮なインパクトを与えました。

ところが、イエス様の話を聞いた後の、ナザレの人々の反応の仕方は、他の町々の人々とは違っていました。22節から24節です。

ルカ 4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

ルカ 4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

ルカ 4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

 イエス様は、神様がいかに恵み深く慈しみ深い方であるかを、その説教の中で語ったのだと思うのです。そして、ガリラヤ伝道で起こったいろいろな奇跡の出来事や、話も聞かせたのだと思うのです。その不思議な出来事を聞いて、ナザレの人々は他のガリラヤ地方の人々と同じように、最初は、みんなイエス様をほめ、その恵み深い言葉に驚いていたのです。ところがそのあと急にイエス様を批判するような口調になってきます。ルカの福音書だけではどうも理解できません。ここのところをマタイによる福音書ではこう語っています。マタイ13章54節から56節です。

マタ 13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

マタ 13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。

マタ 13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

 このように、ナザレの人々はイエス様の話を聞いて、その知恵と奇跡をおこなう力に驚いたのです。その時は一瞬イエス様の事をほかのガリラヤの人々と同じように預言者だと信じたのかもしれません。ですが、すぐに現実に戻ります。そんな偉そうなことを言ったって、この人は大工の息子ではないか、マリアとヨセフの子供ではないか。私たちはこの人を小さい時から知っているではないか、その人がそのような偉大な預言者であるはずがない、信じられない、と思ったのです。その心の動きをイエス様は見逃さなかったのです。その様に信じられないと思い始めると、それならそのような偉大な預言者であることを証明してみてくれという話になることも知っていたのです。それが、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざと言う事になります。この意味は、自分の言っていることが正しいなら、自分でそれを証明しろ、と言う事なのです。イエス様は疑い始めた人々が、そのようなことわざを引いて、その奇跡とやらをここで見せてほしいというようなことを言い始めたのだと思うのです。その奇跡を見たら信じようと心に思っていたのだと思います。イエス様はそれを拒否して、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」といったのです。ナザレの人々は、最初はイエス様の話に驚いたのですが、そんなはずはない、自分たちは子供の時から知っている、と思ってイエス様の話を信じることが出来ず、つまずいてしまったのです。そして、イエス様はそのようなナザレの人々の躓きを知って、聖書から、次のような話を引用して、ナザレの人々を批判したのです。25節から27節です。

ルカ 4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、

ルカ 4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

ルカ 4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

このエリヤの話のシドン地方のサレプタのやもめと、エリシャの話のシリア人ナアマンは異邦人なのです。すなわち、イエス様は、預言者たちはユダヤ人を救わずに、異邦人を救った話をしたのです。この事はとりもなおさず、信じなかったナザレの人々は救われず、異邦人が救われるようになると言う事を言っているのです。これを聞いた人々は憤慨して、イエス様に危害を加えようとしました。28節から30節です。

ルカ 4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、

ルカ 4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

ルカ 4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエス様は、故郷のナザレで、歓迎されなかったどころではなく、崖から突き落とされて殺されそうになったのです。この事は、これから起こるイエス様の苦難と十字架の死を予感させる出来事となったのでした。ですがその時はまだ来ていません。時が満ちていなかったのです。ですから、イエス様は、何事もなかったかのように、人々の間を通り抜けて立ち去られたのです。神様がその様に導いたのです。

 ルカ福音書では、荒れ野での誘惑の後、ガリラヤ宣教の具体的な話はナザレから始まっています。これは、マタイやマルコとは順番が違うのですが、あえてここに持ってきたのには理由がありました。このナザレでの話の中に、イエス様の使命とこれから起こるであろう苦難の話が、既に予告されているのです。そしてそれは十字架での死へとつながっているのです。そしてイエス様の教えが、異邦人たちの救いへと向かっていくことも予告されているのです。イエス様の救いの業が、ナザレだけでなく、ユダヤ人たちにも受け入れられずに、異邦人の救いへと向かって、いま私たちのキリスト教の教えとなっているのです。そのことを異邦人の人々に伝えるために、ルカはあえてナザレで受け入れられなかった話を一番最初に持ってきたのではないかと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 

天の父なる神様。新年の学びの時を備えられ感謝いたします。今年もこの学びを続けていくことが出来ますように。御心に委ねて歩んでいくことが出来ますように。

イエス様はナザレで宣教をしましたが、ナザレの人々は、イエス様の事を神様の使いとして受け入れることが出来ませんでした。それは自分たちは彼の事を知っているという思いから抜け出せず、躓いてしまったからです。私たちも、知っているつもりになると、信じるべきものを信じることが出来ず、受け入れられなくなってしまいます。どうか素直な気持ちで、御言葉を聞き、あなたに委ねて、受け入れていくことが出来ますように導いてください。あなたの御心がなりますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>

◆ガリラヤで伝道を始める

ルカ 4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

ルカ 4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

◆ナザレで受け入れられない

ルカ 4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

ルカ 4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

ルカ 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

ルカ 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

ルカ 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

ルカ 4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

ルカ 4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

ルカ 4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

ルカ 4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

ルカ 4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、

ルカ 4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

ルカ 4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

ルカ 4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、

ルカ 4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

ルカ 4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。