家庭礼拝 2016年12月21日ルカ3章21-38 イエスの洗礼と系図
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起
今日の聖書の箇所は、イエス様の洗礼の場面と、イエス様の系図の話です。話をするにはなかなか厄介な箇所ですが、ここには大きな深い意味が込められています。それをまず、読み解いていきたいと思います。
イエス様の洗礼に関しては、「イエス様はなぜ、洗礼を受ける必要があったのか」という疑問があります。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼です。罪あるものが罪を悔い改めて、神様を待ち望むために行う洗礼です。イエス様は罪のないお方なのでなぜ、洗礼を受けたのだろうかという話がいろいろなされているのです。それは母親のマリア様を喜ばせるためであるという説から、人類の罪を背負ったイエス様が、ここで、全人類に代わって洗礼を受けたのだという話までいろいろあります。私が一番納得している説は、これです。イエス様は既に12歳の時、神様の事を「私の父」という、特別な思いを持っていました。ですが、そのあとこの洗礼を受ける30歳になるまで、その特別の思いに基づいた行動はしていません。イエス様はその思いとずっとそのあと闘っていたのではないかと思います。簡単に自分は神様の子という思いでいたのではなく、本当にそうなのだろうか。それならば自分は何をしなければならないのだろうか、でもこれが悪魔の誘惑であったらどうしようか、神様は本当の事を私に教えて下さるだろうか、というようにその事についてまだ人間らしい迷いにあったのではなかったのかと思うのです。そのことを誰にも語ることなく、いつも神様に向かって問い続けていたのではないかと思うのです。ですが、いよいよヨハネが出てきて洗礼を授け始めた時、自分の時が近づいたのではないかと、その思いが強められたのだと思います。そして最後の決定的な答えを神様に聞くために、イエス様は洗礼を受けられたのではないかと思います。この時イエス様が、ご自分は神の子だから、罪のないものだから洗礼を受ける必要がないなどと思うことはなく、自分の中に気づかずに犯した罪を清めてもらうために、洗礼者ヨハネの前に出たのだと思うのです。そしてその時にきっと神様がなにがしかの答えを教えてくれるのではないかと思って洗礼を受けた、と私は思っています。そしてその神様の声がその時聞こえてきて、イエス様の決定的な活動がスタートしたのです。その声とは、今日の聖書の箇所にある「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声です。このようにイエス様が洗礼を受けたのは、神様にイエス様が公的活動を始めても良いのかどうかを問う、そのような場面であったと私は考えています。
ルカはこのイエス様の、公生涯のスタートの洗礼の事を語り終えると、すぐにイエス様の系図の事を語り出しました。ユダヤ人にとってこの系図はとても大切なものです。自分が誰の子孫かわからないと、仕事や、結婚にも差しさわりのある大変重要なものです。ましてや、神の子救い主は、ダビデの子孫から生まれると予言されているのでイエス様の素性を語る上ではとても大切なものなのです。ですが、4つの福音書の中では、ルカとマタイしかこの系図には触れていません。しかもルカとマタイではその系図の書き方がだいぶ違うのです。そこにはそれぞれの思いがあるのです。
まずマタイの場合ですが、マタイはユダヤ人のためのユダヤ人による福音書を書きましたので、当然その系図を根拠に話を進めていくのです。ですから、マタイは、福音書の最初にこの系図を載せて、イエス様のメシアとしての正当性を語り出したのです。マタイはユダヤ人たちの父と言われるアブラハムから始めています。アブラハムの子孫はユダヤ人なのです。ですからアブラハムから始めて、ダビデにいたり、ダビデから、マリアの夫ヨセフまで語ってイエス様に至っています。すなわちイエス様は預言されたダビデの子孫ヨセフの子供として生まれたというわけです。
ところがルカは、福音書の初めでヨハネの誕生、イエス様の誕生を語り、少年イエスを語り、洗礼者ヨハネの出現の後、イエス様の洗礼を語り、やっと系図の話に入るのです。しかも、マタイとは逆にヨセフから始まって、アダムにまで至るのです。反対にさかのぼっているのです。しかもそのスタートは「イエスはヨセフの子と思われていた」というような怪しげな言葉からスタートしているのです。そのヨセフからダビデまでの系図はマタイとは全く違うのです。まずマリアの夫ヨセフの父親からして違っているのです。マタイではヨセフの父親はヤコブとなっており、ルカではヨセフはエリの子となっていてそもそもスタートから違うのです。どうしてこう違っているのかというのはいろいろな説があるのでここでは割愛します。ですが、ダビデからアブラハムの間の系図は同じなのです。ですからどちらもヨセフはダビデの子孫であることを証明しているのです。どこで食い違いが生じているかというとマタイではダビデの後の系図をソロモンの系図を使って説明していますが、ルカではナタンの系図を使って、ヨセフに至っているのです。
もう一つこの系図で大きな違いがある事を説明します。それは、マタイではユダヤ人の父アブラハムから始めているのですが、ルカは逆にさかのぼって、人類の祖先アダムに至っているのです。ですから、ルカはイエス様の事を単にユダヤ人の救い主としてではなく、人類の救い主として語ろうとしているのです。マタイはユダヤ人ですが、ルカは異邦人です。その様な立場の違いがイエス様の系図を辿る時にも、違いとして現れているようです。
承
では聖書に戻って、読み解いていきましょう。まずイエス様の洗礼の場面ですが、マタイやヨハネに比べると、ルカはとてもあっさりと書いています。たったの2節で、21節と22節です。
ルカ 3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
ルカ 3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
民衆が洗礼を受け、イエス様も一緒に洗礼を受けられて事が語られています。そしてイエス様はそのあと祈っていました。すると天が開けて聖霊が鳩のように目に見える姿でイエス様の上に下ってこられたというのです。誰が一体この聖霊がおりてくるのを見たのでしょうか。それは洗礼者ヨハネ自身が見たのです。ヨハネ福音書の1章32節に「そしてヨハネは証しした。私は霊が鳩のように天から下って、この方の上に留まるのを見た。」こう言っているのです。ではそういったのを聞いた人は誰なのでしょうか、それはイエスの弟子となるヨハネです。この時この弟子となるヨハネはまだ洗礼者ヨハネの弟子だったので、近くでイエス様の洗礼の様子を直接見ていたのです。ですからイエス様の洗礼の話は、ヨハネ福音書がとても詳しく書いてあるのです。これは直接体験したことだからです。ルカもマタイも直接それを体験したわけではないので、それほど詳しく書く事は出来なかったのです。ヨハネ福音書では、この時洗礼者ヨハネが、「霊がイエス様に下って来るのを見たので、この方こそ神の子であると証した」と書かれているのです。まさにこの時がイエス様が決定的に神の子となる場面なのです。
ルカは聖霊が鳩のようにイエス様の上に下ってきたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた、と書いています。この言葉はヨハネ福音書には書いていません。マタイ福音書にはルカと同じ言葉が同じ状況の中で語られています。この言葉は誰が聞いたのでしょうか。それははっきりとはわかりません。その近くにいた人々なのか、イエス様自身なのか、それとも、洗礼者ヨハネが、この方こそ神の子であると語ったその言葉を、別の表現で表したのか、それははっきりとはわかりません。
ですが、この洗礼を受けたのち、イエス様はご自分の使命をはっきりと自覚し、神様の御心に従って、活動を始めたと言う事なのです。すなわちこの洗礼はイエス様の活動の決定的な開始を表していると言う事です。
転
次に、ルカはイエス様の系図を語り出しました。皆さんはユダヤ人と日本人が似ていると言われていることを知っているでしょうか。信仰も生活文化も全く違っているのに、どこが似ているというのでしょうか。それは、世界に二つしかない、家族国家であると言う事です。ユダヤ人たちは、全てその先祖はアブラハムに行きつくのですから、結局はみんな親戚であり兄弟なのです。このような国はほとんどないのです。では日本はというと日本も万世一系の国で天皇家の家系はイザナミイザナギの命からずっとその系図を辿って来れるのです。日本人とユダヤ人だけが、神様から至る系図を持っているのです。日本人もまた、イザナミ、イザナギの命を先祖とする家族国家であり、皆兄弟の国なのです。このような国は他の世界ではないのです。そういった意味で、どこかユダヤ人と日本人に共通の事が言われ、ユダヤ人と日本人は似ているというようなことも言われるわけです。とにかく両方とも、これだけ長い系図を持っているのですからそれだけでも特異な存在なのです。
そしてルカはイエス様の系図を語り始めました。23節です。
ルカ 3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
と書かれています。ルカはイエス様が宣教をはじめられたのは30歳だと語っています。イエス様はこの後3年の宣教活動をしていることになりますが、それはヨハネによる福音書に過ぎ越しの事が3回出てくるので、3年だろうと言われているのです。ですが、共観福音書では、1年半としか考えられていないのです。直接の経験者はヨハネなので、ヨハネによる福音書の方が正しいのだと思います。
そしてイエス様の系図を語る時に、ルカは「イエスはヨセフの子と思われていた、と書いており、ヨセフの子であるとは言っていません。それは、マリアが聖霊によって身ごもった子であるからです。ですが、ルカはそこからヨセフの家系を辿っていきます。血のつながりはないとしてもユダヤ人にとって系図は、その予言の成就を説明するためにも必要だったのです。
ルカとマタイの系図の違いに関してはいろいろな説があります。もっとも初期には、マタイはヨセフの家系を辿り、ルカはマリアの家系を辿ったのだという分かりやすい説明がありました。また、家計の辿り方の考え方から、両方とも正しいのだという説もあります。この系図の面白い所は、イエス様の系図だから立派な人ばかりの系図だろうという先入観がありますが、いろいろな罪人や異邦人も含まれていて、決して立派な人だけの系図ではないと言う事です。タマルは姦淫の罪を犯しラハブはエリコの遊女であり、ルツはモアブ人であり、ダビデはウリヤを殺して、その妻をめとったのです。イエス様はこのような人々の子孫なのです。このような家系は決して褒められたものではないのですが、そのまま神様の計画であるとして、載せているところがすごいのです。いずれにしても、この系図はイエス様が旧約聖書に予言された、救い主キリストであり、歴史的人物であると言う事を物語っているのです。
結
イエス様は、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられて、いよいよ公的生涯に入られます。イエス様の活動は、このヨハネの登場によって触発され、その洗礼によって確定されたのです。ルカは、イエス様の系図を辿って、単に予言されていたダビデの子孫であるだけでなく、ユダヤ人の父である、アブラハムの子孫であるだけでなく、全人類の子孫アダムまでたどりました。そして全人類が神様によってつくられたものであり、このイエス様の救いもまた、神様によって全人類に与えられたものであることを告げたのです。そしていよいよイエス様の活動が始まります。イエス様の活動は決して長いものではありませんでした。長く見積もっても3年ちょっとの活動で、2千年後の私達にまで、その影響を及ぼすような働きを為されたのです。これこそ神様の業でなくて何でしょうか。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様は洗礼を受けられ、聖霊が鳩の様に降りてこられて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。神様は、イエス様を公に神様の子と認められました。そしてイエス様の公的生涯が始まったのです。私達もまた、あなたこそ神の子救い主イエスキリストです、と告白しなければ、私たちのクリスチャンとしての歩みはすることが出来ません。神様、どうか私たちが、日々心に洗礼を受けつつ、イエス様を、神の子と認め、受け入れ、告白していくものでありますように。信じて歩んでいくものでありますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆イエス、洗礼を受ける
ルカ 3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
ルカ 3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
◆イエスの系図
ルカ 3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
ルカ 3:24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、
ルカ 3:25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、
ルカ 3:26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、
ルカ 3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、
ルカ 3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、
ルカ 3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、
ルカ 3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、
ルカ 3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、
ルカ 3:32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、
ルカ 3:33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、
ルカ 3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、
ルカ 3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、
ルカ 3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、
ルカ 3:37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、
ルカ 3:38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。