家庭礼拝 2016年12月7日ルカ2章39-52 神殿での少年イエス
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起
今日の聖書の箇所は、イエス様の少年時代の話です。この話はルカ福音書にしか書かれていない貴重なものです。ですが、伝記のように少年時代を紹介しているのではなく、この時にイエス様と神様との間に何が起こっていたのかをうかがわせるような出来事が一つだけ書かれているのです。
マリアとヨセフは信仰熱心で、毎年過ぎ越しの祭りの時は家族でエルサレムにお参りしていたようです。その時はナザレの町の人々と一緒に、団体で来ていたようです。女の人や子供たちは歩くのが遅いので、普通は先に出発して、つぎの宿営地で男の人たちと出会うという、旅の仕方をしていたようです。着くまでには3日か4日かかるのです。これがまた一つの問題を起こすのです。
今日書かれている、エルサレムの過ぎ越しの祭に行ったときのイエス様の年は12歳になっていました。この12歳というのは大変意味のある年なのです。すなわち、ユダヤ人の社会では、男性は12歳から成人として認められ、また、律法の義務も果たさなければならないという年齢なのです。ですから、少年イエスとは言っても、もう大人として扱われる年になっていたというのです。
ここの聖書の箇所で大切なことは、イエス様が12歳になってエルサレムに行ったときにはすでに、イエス様はご自分が特別の人間であると気が付いていたと言う事なのです。それは単に賢いとか、何かが出来るとかいう事ではなくて、神様の事を自分の父であると理解していると言う事です。さてその事はどのような事からわかるのでしょうか。ルカはその出来事を、非常にさらりと書き記して、次のイエス様の公的生涯が始まるまでは、この後、沈黙しているのです。ルカは非常にいろいろな事を調べて書いた人なので、それ以外の少年時代のいろいろな出来事も知っていたのでしょうけれども、今日のこの出来事の箇所だけを読者に紹介して、それ以外の事は必要ないと判断したに違いないのです。
承
さて、今日の聖書の箇所はまず、イエス様が生まれて40日ほどたって神殿でイエス様を捧げる儀式をした時の事から書かれています。この時には神殿で、シメオンという老人とアンナと言う老預言者の不思議な言葉を聞かされたマリアがその言葉を不思議に思いながらも、心に納めてナザレに帰っていく場面から始まります。39節と40節です。
ルカ 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
ルカ 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
その時以降の事はこのように簡単に書かれています。この時の親子は、神殿で、律法で定められたことを皆終えて、何事もなく自分たちの町のナザレに帰っていきました。その後、イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神様の恵みに包まれて成長していったのです。シメオンやアンナの言葉はありましたが、特に何事もなく普通に過ごしていたのです。イエス様は健やかに成長していました。そして突然12年後の、過ぎ越しの祭りでエルサレムに行ったときの話が飛び込んでくるのです。
転
この時はまだ両親とも健在で、二人とも信仰深く毎年過ぎ越しの祭にはエルサレムの神殿で捧げものをしていたのです。その時、事件が起こってしまいました。41節から45節です。
ルカ 2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
ルカ 2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
ルカ 2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
ルカ 2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
ルカ 2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
先ほども言いましたが、イエス様が12歳になった時、すなわちイエス様はユダヤの社会では成人を迎えられ、律法を守るべき義務を負うようになったのですが、イエス様はエルサレムから帰ってくるときに行方不明になってしまったのです。神殿での儀式が終わり、マリアの家族はナザレから一緒に来た人々と一緒にエルサレムから帰ってきました。マリアは先に女の人たちと一緒に旅立ち、ヨセフは男の人たちと一緒に後から追いついてくるような旅をしていたのです。この時二人の近くにはイエス様はいませんでした。お互いにイエス様は相手の方にいるのだろうと思って、気にもしないで次の宿営地についたのです。そこで家族が一緒になって初めて、イエス様がそこにいないことに気が付いたのです。そこで一緒に来ていた親類や知人の間を探し回りましたが、見つけることが出来ませんでした。それで、ヨセフとマリアはイエス様を探しながら、エルサレムまで戻ってきたのです。実はイエス様はその時、家族と一緒にナザレに帰ってはいなかったのです。エルサレムに残っていたのです。
マリアとヨセフがやっとイエス様を見つけたのはその三日後でした。46節と47節です。
ルカ 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
ルカ 2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
三日の後と言うのは、帰りの一日目はエルサレムから最初の宿営地に行った日であり、二日目はその宿営地からエルサレムに戻った日です。そして三日目というのが、やっとエルサレムで探し始めた日なので、エルサレムでは比較的簡単に見つけることが出来たのです。どこにいたかというと、イエス様は神殿の境内で、学者たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていたというのです。それを聞いていた周りの人たちは、イエス様の賢い受け答えに驚いていた、と書かれています。イエス様は、神様の事を知ることに夢中になっていたのです。もしかすると、自分が成人になったので、そのような事を自分で判断して行動しても良いと思ったのかもしれません。
そしてついに、お父さんとお母さんに見つけられて叱られました。48節から50節です。
ルカ 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
ルカ 2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
ここに書かれていることは単に、親子の会話というよりも大切なことが書かれています。イエス様が神様の事をどのように思っていたかが分かるからです。両親はイエス様を見つけて、驚いて、お母さんのマリア様がこのように言ったのです。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」きっととても、きつく叱ったのだと思います。3日も見つけられないでいたのだから、よほど心配していたに違いないのです。ですがイエス様が答えた答えはとても意外なものでした。それは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この言葉は、イエス様の家はこの神殿である。自分の父は神様である、と言う事を言っているのです。これは当時では途方もない事を言っているので、とてもイエス様の両親には何を言っているのか理解が出来なかったのです。まともに受け取れば、これは石打の刑で死刑になってしまいそうな話なのです。ですがイエス様はそれを当然のことのように、どうして私を探したのですか。私の家がここであるのを知らなかったのですか、と探す方がおかしいとでも言うような事を言ったのです。この言葉を聞いた両親はきっともっと強く叱ったと思います。お父さんもお母さんもひどく叱ったと思います。とてもその言葉を理解しようとも思わなかったと思います。もし理解したら、それはとても恐ろしくて言葉にもできないようなことだからです。でもこの言葉の裏には、イエス様の事を知っているならば、イエス様のいるところは神殿以外にない、と言う事が分かるような、イエス様の普段の生活というものがあったのだと思います。イエス様からいえば、当然わかるだろうと思ったのです。
イエス様は、両親にひどく叱られて、一緒に帰りました。51節と52節です。
ルカ 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカ 2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された
イエス様は家族と一緒にナザレに帰って、両親に仕えてお暮しになったと書かれています。イエス様は、自分と神様との特別な関係を何処かで理解するようになったのだと思います。ですから神殿を父の家と言って帰ろうとしなかったのです。それならば、イエス様はそれから自分を偉いもののように思って過ごしたのかといえばそうではありません。ナザレで、両親に謙遜に仕えて暮らしていたのです。ですがイエス様は成長するにつれて、知恵が増し、背丈も伸びて人と神様とに愛された、と記されています。決して身近な人をないがしろにすることなく、親しく交わって歩んでいたのです。そして、時が来るのを静かに待っていたのです。
結
イエス様の話では、いつイエス様はご自分を神の子と認識されたのか、と言う事が時々議論されます。バプテスマのヨハネの洗礼を受けた時なのか、荒野で試みに会われた時なのか、それとも最初から赤子の時からそれは分かっていたのか、それははっきりとはわかりません。ですが、今日のルカの話を知れば、少なくとも12歳の時にはイエス様は、神様の事を、ご自分の父と認識されていたことが分かります。そして、マリア様は、このような理解不能な事でもいつもすべての事を心に納めていたのです。受胎告知をも、羊飼いたちの言葉をも、シメオンとアンナの言葉をも、そして、成長した12歳のイエス様の言葉をも、理解できなくても何時もすべての事を心に納めて、神様がすべてを明らかにして下さる時を待っていたのです。決して、それはあり得ないと頭から否定することはなかったのです。神様は人間の思いを超えて何でもすることが出来ると信じていたからです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様は成長されて、その意識には神様の事を、ご自分の父という思いが出来上がっていました。そして、過ぎ越しの祭りの時には、ナザレに帰ろうともせずに、学者たちの間で、いろいろ知識を吸収していました。イエス様は、ご自分の家を神殿だと言い、神様の事を自分の父だと言いました。この不思議な言葉をマリア様は否定することなく心に納めて、その成長をずっと見守っていました。マリア様には、神様が何かをなさるに違いないと信じて、自分から否定することも肯定することもなく、ただ神様の御業を待ち続けたのです。そしてその愛情の中でイエス様は立派に成長し、神と人とに愛される人となりました。私達には神様の御業の深さを理解する事は出来ません。ただ神様のなさることが正しいことであり、私たちを慈しんでくださっていることを信じて、御心に従って行くものです。神様どうか、自分の思いにとらわれることなく、あなたの御業を受け入れ委ねていくことが出来ますように。そしてあなたが与えて下さる時を待ち続けることが出来ますように。どうか御心がなりますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇ルカによる福音書)>>
◆ナザレに帰る
ルカ 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
ルカ 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
◆神殿での少年イエス
ルカ 2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
ルカ 2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
ルカ 2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
ルカ 2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
ルカ 2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
ルカ 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
ルカ 2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
ルカ 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
ルカ 2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
ルカ 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカ 2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。