家庭礼拝 2016年8月17日Tテサロニケ2:13−20神の言葉として受け入れた

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起 

先週の箇所では、テサロニケでユダヤ人たちがパウロ達をどのように批判し、根拠のない話を言い触らしていたかを取り上げて、パウロは一つ一つそれに反論していました。そしてどんなに、親身になって、テサロニケの人々を思っているかその心情を吐露してきました。

今日の箇所では、そのような非難中傷の中で、イエス様を受け入れたテサロニケの人々に対して、パウロがどのように思っており、そして非難中傷するユダヤ人たちをどのように考えているかが語られています。今日の箇所は、パウロの思いが語られている箇所と言ってもいいかもしれません。

そこで語られている言葉の中心的な言葉は、「神の言葉として受け入れた」と言う言葉です。福音を信じたテサロニケの人々は、パウロの言葉を人間の言葉としてではなく、神様の言葉として受け入れたのです。ですからそれに伴う、困難や苦しみさえも受け入れることが出来たのです。一方、その言葉を神の言葉として受け入れないユダヤ人たちは、神様に敵対して大きな罪を犯していると激しく非難されているのです。

信仰は、その言葉を人間の言葉として聞くか、神様の言葉として聞くかによって、大きく分かれるのです。礼拝の説教が良かったとか感動したと言うときに、はたして、人間の言葉として聞いていたのか、神様の言葉として聞いていたのかを吟味する必要があります。また、その説教を批判するときにもそれは、人間を批判しているのか神様を批判しているのかを考えないと大きな罪を犯してしまっているかもしれません。

福音の言葉を神様の言葉として受け入れられるか、受け入れられないかは、理屈ではなかなか理解することが出来ないでしょう。どうしてその言葉が神様の言葉と信じられるのかと語ったところで、信仰的には何も進みません。それが受け入れられるのは、私たちが、イエス・キリストの愛を理屈抜きで信じられるか、受け入れられるかと言う事だと思います。そしてその時、その死と復活をも受け入れられるのではないかと思います。信仰は信じることによって現実となるのです。ですから、信仰にとって大切なのは、イエス様が私たちをどのように愛してくださっているかを知り信じることだと思うのです。多分テサロニケの人々は、それを、パウロと言う人間を通して、そのパウロの愛と情熱が、イエスキリストへの愛に基づいていることから、その言葉を、神の言葉として受け入れるようになったのだと思います。私達もまた、福音を、神の言葉として受け入れるために、今日の聖書の箇所を読んでいきたいと思います。

そのパウロの中心的な言葉は、この13節に書かれています。

1テサ 2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

 私たちが、神様の事を語った時に、それを聞いた人たちが、それを私から聞いたのではなく、神様から聞いたと受け取った時には、どんな感動が生まれるでしょうか。その様な事が、このテサロニケの教会で起こったのです。パウロ達の語った言葉を、テサロニケの教会の人たちは、それを人の言葉としてではなく、神様の言葉として受け入れたのです。そして、それは例えばの話ではなく、それは事実神の言葉であり、信じているあなた方の中に現に働いているものだと言うのです。パウロはテサロニケの人々に起こったこの事を知った時、不思議な感動に打たれて、その事を絶えず神様に感謝したと言うのです。それは単なる言葉や知識ではなく、神様の言葉として、実際に働きだし、大きな変化を引き起こしたのです。

それはどんな変化だったかと言うと、14節に書かれているような変化だったのです。それは、

1テサ 2:14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。

その変化と言うのは、同朋のユダヤ人たちから、異端者として苦しめられるのを知っていながら、それでもイエス・キリストを信じて、他の教会に倣う者となったと言う事です。その教会はすべて、キリスト・イエスに結ばれた神の教会なのです。テサロニケの教会も、そのような教会として、変えられていったと言う事です。

さて、パウロの矛先は、バウロ達の働きを誹謗中傷するユダヤ人たちに向かいました。そしてその罪を暴くのです。15節と16節です。

1テサ 2:15 ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、

1テサ 2:16 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

 パウロはユダヤ人たちの行いを非難してこう言いました。ユダヤ人たちは主イエスと予言者たちを殺した。ユダヤ人たちは、自分たちを守るためには、神様に仕えるふりをしながら、イエス様や、神様の預言者すらも殺す人々だと言ったのです。そして次には、私たちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをしていない、と言いました。ユダヤ人本人たちは、クリスチャンを迫害することは神に喜ばれることだと思ってやっているのですが、パウロは私たちをも激しく迫害するのは、神様に喜ばれることをしていないと言ったのです。自分たちの方が神様の側に立つものであると言っているのです。それを迫害するユダヤ人たちは罪を犯していると言っているのです。さらに、ユダヤ人たちは、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるように私たちが語るのを妨げていますと、パウロは言いました。パウロ達は、異邦人が救われることも、神様の御心であると理解して、異邦人宣教をしているのですが、ユダヤ人たちは、それに敵対して、パウロ達の宣教を妨げたのです。ユダヤ人たちにとって、神様はユダヤ人だけの神様だと考えていたので、異邦人にも愛と慈しみを与える神様などは信じられなかったのです。それは邪道だと考えて迫害したのです。ですが、このような事は、ユダヤ人達の罪を溢れんばかりに増やすことであり、神の怒りが彼らの上に臨むだろうと、警告しました。それほど、パウロはイエス様の教える福音こそは、神様の御心であり、自分たちはそれに仕える者であるとの信仰を確かにしていたのです。

この様なユダヤ人たちに対する批判を一通りすますと、パウロは、再びテサロニケの人々に向き合ってこう言いました。17節と18節です。

1テサ 2:17 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。

1テサ 2:18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

 パウロは、ほんのわずかな期間それも3週間だけテサロニケにいて、迫害のためその町を離れてしまい、それからはまだ一度も訪ねたことがなかったのです。その事を案じて、パウロは、顔を合わせて会う事はなかったが、心が離れていたのではなく何時もあなた方の事を案じていたことを言いました。そして、そちらに行こうと何度も思ったのですが、その計画はサタンによって妨げられました、と言いました。パウロの思いはそれほど強かったのです。サタンとは神様の御心を行わせないようにするものの事です。このサタンの妨げがなんであるかは分かりませんが、パウロにも自分の思い通りにはならないことがたくさんあったのです。もしかするとそれはテサロニケに行けばひどい迫害に会うと言う事だったかもしれません。命の保証がないと言う事だったかもしれません。

ですが、パウロはテサロニケの人々を誇りその信仰をたたえてこう言うのです。19節と20節です。

1テサ 2:19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。

1テサ 2:20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。

 パウロはテサロニケの人々の事をこう言いました。イエス様が再臨される時、あなた方こそ、私たちの希望、喜び、そして誇るべき冠です、とその信仰を最大級に喜んでいるのです。パウロにとって、このテサロニケの人々の信仰は本当にうれしい事であり、奇跡的な事だったのです。実にあなた方こそ、私たちの誉れであり、喜びなのですと、率直に語っているように、パウロはこのテサロニケの人々によって、大いに励まされ、喜びを与えられていたのです。それは、このテサロニケの人々が、パウロの言葉を聞いて、それを神様の言葉として信じて、神様に従ったからでした。

 このように、テサロニケの人々は、パウロの言葉を人の言葉としてではなく、神様の言葉として受け入れ信じることによって、ユダヤ人たちの非難にも屈せず、その苦難にもかかわらず、しっかりとその信仰を受け継いでいったのです。そのことがパウロにはうれしくてたまらなかったのです。イエス様が再臨されたら、パウロは真っ先にこのテサロニケの人々の信仰をイエス様の御前で誇りたい気持ちだったのです。それほど、パウロの言葉を神様の言葉として受け入れたことは大きなことだったのです。私たちの信仰もかくありたいと思います

 


(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、テサロニケの人々は、パウロの言葉を聞いて人の言葉としてではなく、それを神様の言葉として受け入れ、勇敢にユダヤ人たちの迫害に立ち向かうことが出来ました。私達がいくらイエス様の事を聞き、読み、調べたとしても、それを神様の言葉、神様の出来事として受け入れなければ、そこには大きな壁が立ちはだかっています。私たちが神様の言葉として受け入れた時、神様の力は私たちの内に働いて、大きな変化をもたらします。どうか神様、福音の知らせを人の言葉としてではなく、神様の言葉として受け入れていくことが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇テサロニケの信徒への手紙一)>>

1テサ 2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

1テサ 2:14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。

1テサ 2:15 ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、

1テサ 2:16 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

◆テサロニケ再訪の願い

1テサ 2:17 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。

1テサ 2:18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

1テサ 2:19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。

1テサ 2:20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。