家庭礼拝 2016年6月29日コロサイ3章18〜4章1節 家族に対して
賛美歌530 主よ、こころみ聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌531主イエスこそわが望み
起
今日の聖書の箇所は、家族に対して互いにどのように接したらよいのかを教えています。ここには妻と夫、子供たちと両親、奴隷たちと主人の三つのグループに分けて語られています。これは当時の家族の標準的なものです。もちろん奴隷たちも家族と一緒に暮らしているのです。私たちは奴隷と言うと、重労働をする、石運びや、奴隷船や、綿花畑で働く奴隷などをイメージしてしまい、家族と言うイメージとは縁遠くなってしまうのですが、当時はどこの家にも奴隷がいたと言えます。その奴隷たちは家の中で、家政婦や下男のような家の中の雑用を携わっており、中には家庭教師や執事のような教養ある奴隷もいたのです。ですから、家の中で一緒に暮らし家族と同様の扱いとなっていたのです。
ですが家族と言っても、現代の家族のようにお互いに権利と義務を持つような平等な家族ではありません。この三つのグループの最初に書かれた人たち、妻や、子供たちや奴隷たちはその後に書かれた人たち、夫や両親や主人に対してはずっと低い位置にいたのです。奴隷と言う言葉にふさわしく、それらの人たち妻や子供たちも含めて、人間としての扱いよりも財産としての扱いの方が強かったのです。ですからこれらの人たちには、自分たちにも権利があるなどと言う事は出来なかったのです全て、強い相手の言うままに生きていかなければなりませんでした。ですから、パウロがコロサイの人々に宛てた手紙の中で、最初に妻に対してこうしなさいと言うのは良いにしても、夫や両親や主人に対してもあなた方もお互いに義務を持っているのですよと言われるのはとても心外な事で、驚いたことだと思います。それは現代の私たちが、その言葉を聞くよりもずっとインパクトのある言葉なのです。
承
その家族の中で弱い立場の人の中でも、一番弱いのはもちろん奴隷たちです。ですから、パウロはそれぞれに一言ずつ信仰的な勧めの言葉を言いますが、奴隷の所だけは3節も使って、特別に言葉を多く用いているのです。この人たちには、もっとよく理解してほしいと思うのと同時に、もう一つの事件の事を思い起こしているのです。それはこのコロサイの信徒への手紙とほぼ同時に書かれたと言われる、フィレモンへの手紙の事件です。このフィレモンはコロサイの人で、オネシモと言う奴隷を持っていましたが、その奴隷がどういう訳か主人の所から逃げて、パウロのところにやってきたのです。パウロはこのオネシモを説得して、又フィレモンのところに返す時の執り成しの手紙がフィレモンへの手紙というもので、この奴隷のオネシモが最後まで大切に持っていたそうなのです。このオネシモは後に教会の管理者として立派になっていくのですが、このコロサイの信徒への手紙でも、4章9節にオネシモの名前が出てきます。このオネシモは、ティキコと一緒にコリントに帰り、また主人に仕えることになるのです。その様な事を背景にして、この奴隷たちに語る言葉も語られたのだと思うのです。
当時家族の中で一番権力を持っていたのは、妻に対しては夫であり、いつでも妻を離縁することができ、絶対的な権力がありました。子供たちに対しては両親であり、親は子供を場合によっては死刑にすることもできました。奴隷たちに対してはその主人であり、殺すことも生かすことも売り飛ばすことも自由でした。このような弱い立場の人と強い立場の一人一人に、パウロは互いに為すべき義務がある事を教えたのです。どうして家庭の中で絶対的な権力を持っていた人に対して、互いに義務を果たしなさいと言えたかと言うと、そこには主が共に居られるからだ、という考え方にあるのです。どんなに権力があっても、主の前には平等だと言うのです。ですから、主の御前に互いに、心から助け合い尽くし合いなさいと教えています。
このパウロの言葉を少し丁寧に見ていくとちょっと不思議なことが分かります。弱い立場の人たちつまり妻に対しては、主を信じるものにふさわしく、と言い、子供たちには、それは主が喜ばれることです、と言い、奴隷たちには、主に対するようにと言うのです。どの勧めの言葉にも、主に対してどうかと言う事が書かれているのです。ところが、夫や、父親や、主人のような強い立場の人たちには、主に対してどのようにしなさいとは特に書かれていないのです。もしかするとそのような言い方はその人々の権威を損ねる心配があるので、あえて言っていないのかもしれません。
ここでのこの家族への勧めは、現代のような同権の社会とは全く違った、権力格差の激しかった時代の話であることをしっかりと理解して読み解く必要があるのです。
転
では聖書の言葉に聞いてみましょう。まず妻と夫への勧めからです。18,19節です。
コロ 3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
コロ 3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
まず妻に対しては、主を信じるものにふさわしく、夫に仕えなさい、と教えました。良人に仕えなさいと言う事は、昔から言われたことです。ですが主を信じるものにふさわしく、というのは新しい言葉です。主を信じるものにふさわしくとは、どのようにすることでしょうか。それはイエス様がなさったように、と言う事です。良人に仕えるふりをして、陰で悪口を言ったり、手抜きをしたり、親切でなかったり誠実でなかったりすることもあるかもしれません。ですがそうではなくて、主を信じるものにふさわしくです。すなわち主が、神様に仕えたように、謙遜に、柔和に、忍耐強く、従順に、心からその夫に仕えることです。決してごまかしてはいけないと言う事です。誤魔化すものは主にふさわしいものでなくなるからです。一方夫に対しては、単純に、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない、と言うだけで主にふさわしくと言うような言葉はないのです。ですが当時はこれを言うだけでも大変な事だったのです。良人は妻を愛そうが愛すまいが自分の自由にできると言う考え方が一般的だったのですから、妻を愛しなさいと言われるだけでも十分だったのだと思います。
つぎに言ったことは、子供たちと父親でのことです。20節21節です。
コロ 3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
コロ 3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
子供たちに対しては、どんな事についても両親に従いなさい、と従順であることを勧めています。これは十戒にも父と母とを敬え、とあるように大切な事です。ですから誰でも知っていることなのですが、この言葉に、それは主に喜ばれることです、と付け加えると新しい言葉になるのです。両親に従うことは義務です。ですが義務でばかり生きていると息苦しくなり、喜びがなくなるのです。放蕩息子の話の兄のようになってしまいます。パウロはその事を、義務ではなく、主に喜ばれるためにしなさい、と言っているのです。あなたが両親に従うのは、あなたを愛している主が喜んでくれることを思い起こしなさい、親のためではなく、主のためにしなさいと言っているのです。どんなに嫌いな親だとしても、その良い業が主に喜ばれるならば、喜んですることもできるのです。次に父親に対しては、先ほどの妻に対するように、簡単に、子供をいら立たせてはならない、いじけるといけないから、と言いました。話しかけている妻や子供や奴隷はそれぞれ違う人々ですが、夫や父親や、主人と言うのは同じ人の違う役割であることが多いので、簡単に受け入れやすいように言っているのかもしれません。まだこれで終わったわけではないのですから。
次は奴隷と主人の関係の事です。22節から、4章1節までです。特に奴隷たちに、主人に仕える姿勢を丁寧に教えています。
コロ 3:22 奴隷たち、どんな事についても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
コロ 3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
コロ 3:24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
コロ 3:25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
コロ 4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
奴隷はその主人に仕える者ですが、それでもやはり同じ人間です。いやな主人もいれば、まじめに従いたくない主人もいるわけです。中には主人をおいて逃げ出すものも出てくるのです。奴隷と言っても、その前の身分はいろいろです。生まれつき奴隷もいれば、奴隷になる前は教養のある貴族である場合もあるわけです。パウロはそのような奴隷たちに、どんなことについても肉による主人に従いなさい、と言いました。どんな事についても従いなさいと言われたのは、子供たちとこの奴隷たちです。たとえ自分の意にそわないことでも、嫌いな事でも、従いなさいと言われるのです。うわべだけ従うふりをしたり、良く思われようとしたりしないで、真心を込めて従いなさい、というのです。それも、隠れたことをすべて見ておられる主を畏れつつ従いなさいと言われます。主人が怖いから従うのではないのです。すべてを知っておられ、共に居られる神様に罪とされることを畏れるから、真心を込めて従うのです。それは人に対してするのではなく、神様に対してするのです。奴隷たちが、本当に奉仕する相手は主人ではなく、神様に対してなのです。ですから、いくら主人が嫌いだからと言って、不義を働いたら、神様からその不義の報いを受けるだろうと言っているのです。
そして主人たちに対しては、奴隷を正しく公平に扱いなさいと言いました。主人たちは、法的には奴隷をどのように扱っても罪とはならなかったのです。自分のものとして扱うので、奴隷がそれを正しくないとか不公平だとか言う権利はないのです。ですが、パウロの視点はそこではないのです。その様な不正、不公平は神様が見ているからだと言う考えなのです。ここで初めて、この主人たちに対して、あなた方にも主人が天におられるのです、と言って、神様が、あなたたちの事を見ておられるから、神様のみ心に適うようにしなさい、と言う事を語るのです。
結
人間の世界では、家庭の中にも強者弱者の階級があり、そこで服従するもの服従させるものの力の差が現れ、権力と義務とが現れてきます。そしてその中で強い人間にとって都合のいいルールが出来てきているのです。ですが、クリスチャンはその人間の世界のルールの中に、神様の目が注がれている、すべての人は神様に従うべきものと言う、ルールのもとにすべての人は平等なものとされていると言う事を教えられるのです。
私たちは、神様がいるならば、なぜこの世は不平等で、ある人だけが苦しまなければならないのだ、と世の中の理不尽を恨むことがあります。なぜ強いものに弱いものが従わなければならないのか苦しまなければならないのかと怨んでしまいます。それは人間の世界の格差不平等を思うからです。ですが、その時、眼を人間の世界ではなく神様の世界に向けて、私たちが神様の御前で、共に生かされている、という現実を見るならば、その格差の意味も苦しみの意味も違ったものになってくるのだと思います。私たちは神様の御前で、従順なものとなり、喜んでその喜びも悲しみも苦しみも、神様にささげるものとなるのです。苦しみでさえも、神様のみ前で立派に忍耐していることの捧げものになるのです。ですから、人の世界の思いに心を奪われるのではなく、いつも神様の世界に目を向けて、神様の御心に委ねて生きるのが喜びをもって生きる秘訣になってくるのです。パウロは、私たちに、主を信じるものにふさわしく、主に喜ばれるものとなり、全てを主に対するように心から行いなさいと勧めているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちは、いやな事苦しいことがあると、その事やその人を見て思い煩いますが、あなたは、主のみ前に生きるものとなりなさいと教えてくださいました。主のみ前にある時、主を信じるものにふさわしく、主に喜ばれるものとなり、全てを喜んで主に対するように行う事が出来るようになります。それがたとえ苦しい事でも悲しい事でも、主はそれを喜びに変えてくださいます。神様どうか自分の思いにとらわれることなくどんなことがあってもどのような状況でも全てをあなたに委ねて、あなたに喜ばれるものとなることが出来ますように導いてください。あなたが共に居てくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇コロサイの信徒への手紙)>>
◆家族に対して
コロ 3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
コロ 3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
コロ 3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
コロ 3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
コロ 3:22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
コロ 3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
コロ 3:24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
コロ 3:25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
コロ 4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。