家庭礼拝 2016年6月22日コロサイ3章1〜17節 日々新たにされて
賛美歌528 あなたの道を聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌529主よ、わが身を
起
先週学んだ、「キリストに結ばれた生活」の所では、キリストを受け入れて、洗礼を授かったものが、どのような教理的な意味を持っているかをパウロは丁寧に説明してくれました。それは手によらない割礼であり、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられたと言う事を意味していました。それは罪の中に死んでいたものが、罪許されて、キリストと伴に生かされていると言う事でした。ですから、私たちは、いろいろなこの世の支配や束縛から解放されて、キリストにおいて満たされて歩むことが出来ることを教えられました。
そして、今日の箇所では、その様に救われて解放された私たちが、日々どのように具体的に生きていったらよいのかを語っています。それは私たちの内にある悪いものをどのように捨てていったらよいのか。その悪いものとは何なのかを一つ一つ具体的に示して、教えてくれているのです。そして捨てるべきものを語り終えると、身に着けるべきものをまた一つ一つ具体的に教えてくれているのです。
クリスチャンはキリストを着るものであると言う事が良く言われますが、そのイメージはいろいろだと思います。キリストを着て、キリストの様に生きることだと思う人もいるだろうし、なんとなくファッションのように外見的な事のように思っている人もいるだろうし、どうすればキリストを着ることになるのかわからないと思う人もいると思います。今日の聖書の箇所は、キリストを着るとはどんなことなのかを具体的に教えてくれているのです。キリストを着るためには、古い衣をまず脱がなければならないのです。古い衣の上に重ねて着るのではないのです。そして脱ぎすげなければならない古い衣とは何か、身に着けるべき新しいキリストとは何かを教えてくれるのです。
承
さて、その具体的な方法を教える前に、パウロは基本的な姿勢を教えます。1節と2節です。
コロ 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロ 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
パウロはまたここで、洗礼を受けたものが、キリストと共に復活させられたものであることを思い出させます。復活はいつ起こるかではなく、既に洗礼の時に起っているのです。それはこの世の罪が死に、わたしたちがキリストの内に生きると言う事で復活が成就しているのです。それは私達が認めようと認めないとに関わらず、それは既に起こっているのです。ですからパウロは言うのです。「上にあるものを求めなさい、上にあるものに心を止め、地上のものに心をひかれないようにしなさい。」クリスチャンはもう地上のものにはこだわらないのです。それ以上に上にあるものに関心を持ち上にあるものを求める人なのです。地上の事は無視しなさいと言うのではないのです。地上における家族のきずなや、他の人に対する親切や、この地上においても大切なことがたくさんあるのですが、それをもう地上のみの生活をする人のようにではなく、天においても生活する人のように、地上の事は天から眺めることのように行うのです。私たちの主体は、地上から天上の事に移されたのです。神の右の座についているキリストを意識して、この世を眺め、天上のものを求めていくのです。
そしてこうも言うのです。3節と4節です。
コロ 3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
コロ 3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
パウロは、私たちが洗礼で水の中に沈められた時、この世においては死んだものとなったと言うのです。だから、この世の事には死んだものとして執着してはいけないと言う事です。ですがその命は全くなくなったわけではなく、キリストと共に神様の内に隠されていると言うのです。隠されているのですから外からは分からないのです。外から見たなら本当に死んだようになっているけれども、キリストと共に神様の内に隠されていて、本当はそこで生きているのだと言うのです。そしてキリストが復活して現れるとき、その内に隠されていた私たちもキリストと伴に栄光に包まれて現れるだろう、というのがパウロの死と復活に関する理解なのです。私達は、この世においては死んでいるけれども、神様の内に生かされているのです。それもイエス様と一緒にです。その様なものとして自分を理解できるでしょうか。これは理屈で理解できることではありません。信仰とはある意味で、馬鹿になって信じることです。そしてそこから何か真実のものが生まれてくることを希望することです。馬鹿になって信じることが出来るでしょうか。利口になってこの世の打算に生きるのでしょうか。
転
そしていよいよ、パウロは、私たちがこの世において脱ぎすてるべきものと、キリストを着るということを具体的に示し始めます。まず脱ぎすてるべきものを5節から8節で語ります。
コロ 3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
コロ 3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
コロ 3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
コロ 3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
パウロは地上的なものを捨て去りなさいと言いました。その地上的なものとは地上にあるものすべての事と言う事ではなくて、地上的な欲望の事です。それは、具体的にはみだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲です。それは汚い欲望、肉欲的な欲望です。それを捨てなさいと言いました。そして、その中でも貪欲は偶像礼拝にほかなりません、と言いました。貪欲とは、満たされることの無い欲望です。いくらその欲望を満たしても、もっと欲しい、どんなことをしてでも欲しいと、その欲望の奴隷になること、それが貪欲です。ですから、貪欲な人はまるで神様に仕えるようにその欲望に仕えているのですから、貪欲は偶像礼拝に他ならないと言うのです。神様の座にその貪欲を据えているのです。
そしてパウロは、あなた方も以前はその様だったが、今はそのすべてを捨てなさいと言って、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい、と言いました。ここで上げられた言葉は、先ほどの肉欲的な欲望とはちょっと違います。それはむしろ、敵意を感じた時に起る感情や行動です。パウロは、この世においてこの二つを捨てなさいと言っているのだと思うのです。一つ目はこの世に執着する貪欲、二つ目は分け隔てする敵意、この二つがあなた方の持っている古い衣ですよと教えているのだと思います。
そして、新しい人を身に着ける前にもう一つの戒めを与えました。これもまた、新しい人を着る前に脱ぎ捨てなければならないものだと言うのです。9節と10節です。
コロ 3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
コロ 3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
それは、嘘をついてはいけないと言う事です。どうも私たちは、古い着物として、三つのものを着ているようです。まず脱ぎすてなければならない、貪欲の着物、つぎに脱ぎ捨てなければならない、敵意の着物、そして最後に脱ぎ捨てなければならない、嘘をつくと言う着物です。この三つの段階を追って、脱ぎ捨てなさいと教えているような気がします。そして最後の嘘をつく着物を脱ぎ捨てると、いよいよ造り主の姿に倣う新しい人を身に着けることが出来るのです。そして、日々新たにされて、真の知識に達すると言うのです。
古い着物を捨てて、新しい着物を着た人たちには今までになかった新しい世界が開かれています。これはキリスト教が広まるまでは、今まで人類の歴史になかったことです。それは差別の無い世界と言う事です。11節です。
コロ 3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
今までも神様はいました。いろいろな神様もありました。でもそれらの神様はいつも何かを区別していました。差別していました。それはある特定の民族や、国のみを贔屓すると言う差別があったのです。キリスト教もユダヤ教も同じ神様を崇めていますが、ユダヤ教では、神様はユダヤ民族だけを選んでその神様となったと信じられていたのです。そしてユダヤ人であるかどうかを割礼と言う印で区別していたのです。ですがキリスト教徒なってからはどこにも何の区別も差別もなくなったのです。キリストがすべてであり全てのものの内におられると言う考え方になったのです。ですから、ギリシャ人もユダヤ人も、割礼を受けたものも受けていないものも、未開人もスキタイ人も、奴隷も自由な身分の者もそこには区別も差別もなく皆、キリストを着たキリスト人になったのです。これは人類の歴史の中で画期的な事です。これほど差別の無い教えは今までなかったのです。ですからその教えは、国を超え、民族を超え、身分を超え、貧富を超えて世界中に広まっていったのです。
そして、キリストを着た人は具体的に何を着ているのか、身に着けているのかをパウロはこのように語ります。12節と13節です。
コロ 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロ 3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
それは、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさいと言うのです。神に選ばれ聖なるものとされ、神様に愛されている人はこれを身につけなさいと言うのです。真っ先に言われたのは憐みの心です。それは苦しむものと共に苦しむ共感の心です。感情移入し心の痛みを知ることのできる心です。イエス様は、苦しむものを見て、知らんふりの出来る方ではありませんでした。共に苦しみ、共に悲しみ、ファリサイ人たちが律法を侵していると言う罪を犯してまで助けようとする憐みの心だったのです。それが親切なサマリア人の話であり、何が正しいかどうかという前に、私たちが身につけなければならないことだったのです。いくら私たちのすることが正しくても、そこに憐れみの心がなければ、冷たい機械的な人となるかもしれません。それは神様の御心ではありません。この憐みの心は人間だけでなく、全ての命あるものに向けられる心なのです。
そして次に慈愛が出てきました。これも憐みに似ていますが、必ずしも対象が苦しんでいる人とは限りません。相手に対して、思いやることの出来る、やさしい心です。小さな子供を愛する母親のような心です。そして謙遜です。憐みの心や、慈愛は多くの宗教に出てくる言葉ですが、キリスト教の特質を表す言葉に謙遜と言う言葉があります。クリスチャンは謙遜の徳を身につけなければなりません。なぜならば、クリスチャンは自分が与えられている、力も能力も、財産も、時間もすべて神様から与えられたものであり、借りているものであり、自分のものなど一つもない事をよく知っているからです。もし謙遜でないクリスチャンがいたとしたら、それはそのようなものを自分のものとしている傲慢な人です。ですから、本当にはキリストに従っていないものです。私たちがクリスチャンを嫌いになる時の二大要素は、一つは傲慢であること、もう一つは偽善であることだと思います。これらがあってはとてもクリスチャンとは認められないのです。
そしてさらには、柔和や寛容を身につけなさいと言われています。その柔和と寛容をもって、互いに許し合いなさいと教えています。それは主が私たちを許して下さったのだから、私たちも許し合いなさいと言う事なのです。私たちはどこまでこれらの徳を身につけているでしょうか。少なくとも憐み、慈愛、謙遜は身に着けたいと思うのです。
この新しい衣にはもう一着着せて完成させるようです。それは14節です。
コロ 3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
パウロは、愛がすべてを完成させる絆だと言います。愛によって、全てのものは結び合わされ完成するのです。
この新しい衣を身に着けて、新しくされた人がすることは次のような事です。15節から17節です。
コロ 3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
コロ 3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
コロ 3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
私たちは、新しくキリストを着て、キリストの平和の内に生きなさいと言われます。この平和に預かるために、私たちはキリストに招かれて、キリストと一つの身体にされたのだと言います。これはキリストの平和が、世界平和となるようにと言っているのではありません。キリストの平和が、あなた方の心を支配して平和に生きるようにと言っているのです。ひとりひとりの内にこの平和があるならば、世界は平和になるのです。ですがまず必要なのは自分の心が平和に満たされることです。
もう一つはキリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るようにしなさい、と言う事です。キリストの言葉によって、知恵をつくして互いに教え、聡し合い、そして神様を賛美して、感謝をささげ、心から神様をほめたたえなさいとパウロは言いました。
そして最後に言ったことは、何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行いなさいと言いました。すべてを主イエスの名によって行うとはどうする事でしょうか。それは、イエス様の代理として行うと言う事です。ですからイエス様が行うように行うと言う事です。何かを話す時も、何かを行うときもイエス様の代理として、イエス様が行うように行うのです。私たちがクリスチャンになってから、何かを行うときにイエス様の代理としてイエス様が行うように行ったことがあったでしょうか。ですが、私たちにはそれが求められているのです。私たちは今日その事を教えられました。今日からでも、たとえその事が不十分でも、イエス様がきっと私たちを後押ししてくださることを信じて、すべての事をイエス様の御名によって行っていくことを、意識して行っていきたいと思うのです。そして、この三つの節の最後には皆、「感謝しなさい」と言う言葉が備えられています。私たち新しくキリストを着る者たちは、すべての事をキリストの御名によって行い、そして神様を崇め賛美し感謝をささげるのです。
結
私たち洗礼を受けたものは、この世に死んだものです。そして、古いものを脱ぎ捨て、この世での欲望や敵意を捨て去って、新しくキリストを着るものです。クリスチャンが新しくキリストを着ると言ってもそれは簡単な事ではありません。パウロの言う事を全部完全に行おうとすると、とてもできそうにありませんと、懺悔したくなります。ですが、それをさせて下さるのは、自分の力でするのではなく、精霊の導きであり、復活のキリストの力です。私たちはただ、イエス様の御心に委ねて、その様に新しく作り変えていただくことを、希望し、感謝と賛美を捧げるものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちは、あなたによって、新しくキリストを着るものとさせられました。自分の力では、この古い人を脱ぐこともできず。新しいキリストを着ることもできず、途方に暮れるものですが、私たちにできないことでも、あなたが導いてくださり、あなたが成長させてくださり、しっかりとキリストを着るものとさせてくださることを信じます。そしてキリストの平和を心に抱き、キリストの御言葉と共に生きるものとなりますように。どうか、あなたを心から受け入れて、ただあなたに委ねることが出来ますように。人間的な思いで言い訳したり、言い逃れしたりすることがありませんように。その様な思いは、あなたの十字架の前に釘づけにされて滅ぼされますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇コロサイの信徒への手紙)>>
コロ 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロ 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
コロ 3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
コロ 3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
コロ 3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
コロ 3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
コロ 3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
コロ 3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロ 3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
コロ 3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
コロ 3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
コロ 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
コロ 3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
コロ 3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
コロ 3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
コロ 3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
コロ 3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。