家庭礼拝 2016年6月15日コロサイ2章6〜23節 キリストに結ばれた生活
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起
コロサイの信徒への手紙は、今日の箇所からいよいよ核心部分に入っていきます。この手紙はどうして出されたかと言うと、コロサイの地方で広まり始めたグノーシスと言う異端思想からコロサイの信徒を守るためでした。この思想は、ギリシャ的な哲学的、科学的な考え方とユダヤ的な律法主義的思想のまじりあったようなものです。両方の多くの知識と論理とをもって、キリスト教のただイエスを信じれば救われるなどと言うのは、不十分だと言って、もっと深い知識を与えよう、と言って教えている異端思想です。このグノーシスにとってみれば、イエス様は神様と人間の間にいる多くの天使たちと同じ部類の仲保者であって、その一人にすぎないと言う事なのです。ですからイエス様だけではだめで、この宇宙の深い真理を理解して、ユダヤ教の戒律をよく守ってこそ救われるものであり、この事が出来るのは、ごく一部の少数の人だけが救われると言う考え方でした。ですが、そのような複雑な教えの方が、無知な人々には本物らしく感じてしまうのです。私たちの信仰でも、「あなたはもっと祈らなければだめですよ」とか、「教会を一日も休んではいけません」とか、「献金はその信仰を現すのだから、出来るだけ捧げなさい」だとか、このようないろいろな知識や義務を教える人の方が信仰的にも優れていると思ってしまうのです。ですがイエス様はこのような事とは無関係に、神を信じイエス様を信じる人々に永遠の命を与えて下さる、恵みの神様なのです。この事がなかなか信じられなくて、複雑な知識を好む傾向が、信仰の薄い人すなわち自信の無い信仰者には良く起こることなのです。
今日の聖書の箇所は、比較的理解が困難なところです。と言うのもパウロとコロサイの人々には当事者として自明な事が、今の時代の人たちが読むと何の事を言っているのかわかりにくいと言う事があるからです。ですから、今日の聖書の言葉の背後にはどんなことが隠されているのかを理解しながら、その言葉の意味を読み解いていく必要があるのです。基本は、グノーシスの教えの間違っていることを論破する、と言う事にあるのでそこに立脚して理解すれば比較的理解しやすいのです。
承
まずパウロは、コロサイの人々にこう言います。キリストに関する非常に単純な教えです。6節7節です。
コロ 2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
コロ 2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
パウロは、コロサイの人々に、「あなた方は、主イエスキリストを受け入れたのだから」と言います。これはイエスキリストを信じますと告白し、洗礼を受けたと言う事だと思います。問題は、この信仰告白をし洗礼を受けた後なのに、グノーシスの教えでぐらぐらに迷い始めていることです。それで、パウロは「主イエスキリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と、迷うことなくキリスト共に歩むことを教えているのです。何があってもキリストから離れることなく、一体となって歩みなさいと言っているのです。キリストに結ばれると言うのは、キリストに根を下ろして作り上げられると言う事だと言うのです。自分で立派なクリスチャンになるのではないのです。キリストと結ばれていると、ひとりでに、キリストに下した根から、恵みの栄養が与えられて、作り上げられていくのです。ですから、作り上げられ成長した人には感謝しかないのです。溢れるばかりに感謝しなさいとパウロは教えます。
転
そしていよいよここから、グノーシスの教えに対する反論が始まります。ですが、その背景が分かっていないと、なぜこんなことを言っているのかわかりません、一般的な教えを言っているように思うのですが、当時の人たちは、ああこれはあのことだな、この異端の教えの事だなとすぐにわかる言葉だったのです。8節から10節です。
コロ 2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
コロ 2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
コロ 2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
ここでパウロは、人間の言い伝えに過ぎない哲学に気をつけなさいと教えます。この人間の言い伝えに過ぎない哲学とは、単にギリシャの哲学の事を言っているのではなく、それに影響されてキリスト教に入ってきたグノーシス主義の哲学の事を言っているのです。キリストの教えは神様から来ているのだけれども、この哲学は人間が考えたに過ぎないものであり、それは虚しいだましごとで人を虜にしようとするものですと、その教えに注意するように訴えます。そして、こうも言いました。「それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」これは、その哲学は、世の霊が考え出したもの、サタンの誘惑だと言う事も言えるし、当時グノーシスは、占星術をも取り込んでいたので、この世は、星をも支配する霊によって、支配されていると言う考えがありました。従って、この世にしか影響を及ぼさないキリストだけではだめで、宇宙をも支配する霊に従わなければならないと教えていたのです。ですが、パウロはそれは世を支配する霊に従っているのであって、キリストに従うものではないと言い切るのです。
グノーシスの主張は、キリストには足りないものがある、という考え方です。だからこちらの教えを信じなさいと言っているのですが、パウロは、キリストの内には、満ち溢れる神性が余すところなく見える形をとって宿っている、と主張するのです。すなわち、足りないものなど何もなくその神性が余すところなく満たされていると言うのです。そして、あなた方もまた、キリストにおいて満たされているのですと言います。この世も宇宙もすべてのものが、キリストによって支配されており、キリストはその権威の頭なのですと言います。ですからキリストに足りないものがあるなどと言うグノーシスの教えは間違っていると言うのです。
そして、パウロは、キリストにおける救済の本質について語り出しました。それは割礼と洗礼についての事でした。11節から15節です。
コロ 2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
コロ 2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
コロ 2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
コロ 2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
コロ 2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
ここでパウロは、あまり聞きなれない言葉を言いました。それは「手によらない割礼」と言う言葉です。ユダヤ教で割礼が非常に重要な信仰の印であることは分かりますが、クリスチャンも割礼を受けていると言うのです。それも手によらない割礼だと言うのです。クリスチャンはユダヤ教と同じ肉体の割礼すなわち手による割礼は必要とされていませんが、手によらない割礼、すなわち霊的な割礼は大切だと言っているのです。すなわちそれは、肉の身体を脱ぎ捨てる割礼だと言うのです。それはキリストを信じることによって、肉の身体を脱ぎ捨てて、霊的に生きると言う事です。肉的な事にはこだわらないと言う事です。その手によらない割礼は、洗礼の時に受けているのかもしれません。私たちは肉の身体を脱ぎ捨てているでしょうか。その意味で、手によらない割礼を受けているでしょうか。もう一度吟味したい言葉です。
そして、次には洗礼の事を語り出しました。このころの洗礼と言うのは川の中に全身を浸す洗礼です。それはいったん水の中で死んで、水の外に出て復活することを象徴しています。洗礼と言うのは水の中に入ることによって、キリストと共に葬られたことになるのです。そしてキリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたと言うのです。私たちは復活したのではなく、神様によって復活させられたのです。それは洗礼の時、水の中から出るときに、キリストが復活させられたように、私たちも復活させられたことを信じるのです。神様は罪の中に死んでいた私たちをキリストと共に復活させてくださって生かしてくださっているのです。神様は私たちの罪の一切を許してくださいました。それは、私たちの律法に背いた罪が記録として残されているのですが、イエス様は律法に背いた罪を訴えるその証書を破棄して、十字架に釘づけして取り除いてくださったと言うのです。イエス様の十字架が、私たちの罪を赦す証となっていると言うのです。そしてそのような律法による支配と権威から私たちを解放してくださったのです。キリストの復活の勝利は、私たちを自由の身にしてくれたのです。私たちは解放されたのです。
パウロはなぜこのような割礼や洗礼や罪の許しと解放の事を改めて言っているのでしょうか。当時のコロサイの人にはすぐわかることが私たちにはわかりにくいのです。それは、グノーシスの教えが、ユダヤ式の肉の割礼を受けるようにと言い、キリストに復活の力はないと言い、律法の規則や、占星術の法則にしたがうことを教え、ますますそのような支配と権威にがんじがらめにされそうになっていたからです。ですがパウロはそのような事はみなキリストによって解決されたことを言ったのです。キリストの死と復活とによって、その様な私たちを縛るようなものから解放されたことを言ったのです。
そしてパウロの教えは、実際の生活での適用に入っていきます。どのように生活したらよいのかを教えます。16節から19節です。
コロ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
コロ 2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
コロ 2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
コロ 2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
ここでパウロは、食べ物や飲み物、又祭りや新月や安息日の事で誰にも批評されてはなりませんと言いましたが、これは、口伝律法の食物規定や占星術の祭りや新月の規定そして安息日規定などにもう捉われる必要はありません、と言う事です。これらはグノーシスの教えることであり、キリスト教の教えるところではありませんと言っているのです。そしてそれらのものは影に過ぎないと言います。それはキリストの影であり実態はキリストにあるのだから、キリストを信じて歩みなさいと言っているのです。また、偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません、と言いました。グノーシスの考え方は神様は純粋に善であり聖なる方であるから、物質のような悪に触れることはないと考えて、物質と神様の間にいくつもの天子の段階をもうけて、最後の天使が悪なる物質を作ったと言っているのです。すなわちそれが、天地創造の神であり、キリストであると言う事なのです。その様な考え方をするものを、パウロは「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」と呼んでいるのです。パウロはそのようなものから不利な判断をされてはいけないと言いました。このような人々は幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけだ。頭であるキリストにしっかりとついていないのだと言うのです。私たちはそうではなくて、イエス・キリストを信じこの頭であるキリストによって、支えられ、結び合わされ、神に育てられて、成長していくのだとパウロは言うのです。イエス・キリストはグノーシスの言う悪に満ちた肉体をまとってこの世にあらわれて、私たちと同じ苦しみを経験された方なのです。
ここでまた、パウロはグノーシスに従って歩もうとしている人々に警告します。そのグノーシスの教えはもっともらしいが何の価値もないものです、と言うのです。20節から23節です。
コロ 2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
コロ 2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
コロ 2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
コロ 2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
コロサイの信徒たちは、グノーシスに影響されて、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られていました。これはこの世の戒律であり、キリストと共に死んだクリスチャンには捉われるべきものではないと言うのです。それらは人の規則や教えであり、いつか消えてしまうものだからです。それらは独りよがりの礼拝や、偽りの謙遜や、体の苦行を伴っていて、それらを努力して守ることによって、何か素晴らしいものがやって来るような気がして、深い知恵が隠されているようにみえるけれども、実は何の価値もなく、自己満足させるだけのものなのだとパウロは言うのです。私たちクリスチャンは、この世の事には死んだようになり、キリストに結ばれて、新しい命に生き生きと自由に生きるものとされているのです。
結
今日の聖書の話は、私たちクリスチャンが陥りやすい罠に、はまらないように注意しなさいと教えているように思います。信仰者が真面目で真剣で一生懸命努力して信仰を得ようとすると、いろいろ新しい知識を求めたり、新しい考え方を研究したり、いろいろ苦しんで自分を従わせたり、守るべきものは守らなければならないと自分を律したりして、いつの間にか自力本願的な思いに陥ってしまうのです。ですが、キリスト教は違うのです。自分の力や知識で救われるのではないのです。自分の努力で成長するのではないのです。キリスト教の教えはあくまでも神様からの恵みなのです。キリストに繋がるものを、神様は成長させてくださるのです。キリストを信じるものを、神様は救ってくださるのです、永遠の命を与えて下さるのです。自分で勝ち取るものではないのです。その様な、神様やイエス様に委ねて信じる信仰の上に固く立ちなさい、もっともらしい知識や努力に惑わされてはいけないと、パウロはコロサイの人々に訴えているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
神様、私達は自分の力で何とかしようと思ってもがき、頼ってはならないものに頼ってしまいます。私たちの頼るのはただ神様だけです。神様がなかなか答えて下さらないと思うと、自分の力で神様を呼び寄せようとさえしてしまいます。あなたはその中で私たちに応えて下さっています。その事に心をしずめて聞き取ることが出来ますように。心静かに忍耐をもって、あなたとしっかりと結ばれているものでありますように。そしてそこから決して離れることなく、全てをあなたに委ねて、良い時も悪い時もあなたの御心がなりますようにと祈りつつ、感謝しつつ歩ませてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:◇コロサイの信徒への手紙)>>
◆キリストに結ばれた生活
コロ 2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
コロ 2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
コロ 2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
コロ 2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
コロ 2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
コロ 2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
コロ 2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
コロ 2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
コロ 2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
コロ 2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
コロ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
コロ 2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
コロ 2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
コロ 2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
◆日々新たにされて
コロ 2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
コロ 2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
コロ 2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
コロ 2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。